Chapter33

 戦況は膠着していた。


 一度の無効試合。その後、二度の打ち合いを経て、未だ互いに勝ち星はゼロ。つまり引き分け状態である。


 源士はすべて必殺の《デッドリー》で立ち向かったが、高速の槍撃は隆聖を直撃することなく空を切ったのである。


 狙いが甘かったのではない。隆聖のディフェンスが極めて的確だったのだ。


 マシンの加速力と源士の躍動をカタパルト代わり放たれる攻撃。しかし隆聖は、そのすべてにギリギリのタイミングで自槍の防御を入れる。レーザーランスの持つ斥力は槍筋を捻じ曲げる。それも、すべてを紙一重、自身を掠めるように。隆聖は精緻な計算により、攻撃をすべて逸らしている続けているのだ。


『《デッドリー》を見切られたわね。思ってたよりも、対応が早い』


 美晴が口惜しげに呻いた。カリカリと音がする。無線のノイズではなく、彼女が爪を噛む音らしい。


『一セット目でいいものを見せてしまったせいです。あれで逆に、真田隆聖の目を慣らしてしまった。彼にはもう、山県のモーションがすべて見えている』


 雅丈である。その声は冷静に聞こえるが、いつにも増して早口だ。


『ど、どどど、どーすんだよ?! こんなの負けゲー確定だろうがよ!』


 と、これは兵吾。分かりやすくテンパっているだけ、まだ可愛げがあるというものだ。


 チームメイトの慌て具合はこれこの通り。結論から言えば、状況的には引き分けだが、かなり分が悪かった


 何しろ、こちらは唯一の切り札が通用しないと分かったのである。いかに派手でも、破壊力があろうとも、当たらないのでは意味がない。


 一方、隆聖が見せたのは高度なディフェンスのみで、無数にある技の一端を見せたに過ぎない。そして、いまだ隠されている多彩な攻撃を源士が読み切れるかと言われれば……はっきり言おう。実に困難だ。


 マシンはコーナーを駆け抜ける。ギャリギャリと音を鳴らせるタイヤを制御しつつ、覚えたてのドリフトは何とか機能しているらしい。


 だが、このコーナーを越えた先には隆聖が待ち受けており、そして時間とマシンは確実に進んでいくものだ。


 何ら作戦を打ち立てられず、そうこうする内にホームストレートに飛び出した。彼方には、隆聖の《センチピード》も見える。


「仕方がない。次も《デッドリー》で行く」


 源士は別段慌てるでもなく、淡々とマイクに告げた。


『待つんだ山県。真田はお前の攻撃を読み切っている。もう次の手を、攻勢を打ってくるかもしれないんだぞ』


 戦術に責任を持つ立場の雅丈である。確かに、既に通用しない技を何度もぶつけるなど愚の骨頂。源士もそれは理解しているのだ。


 が、一つだけ、思うところがある。それを証明してからでも、《デッドリー》を捨てるのは遅くはない……と、源士は考えている。


『山県、一度冷静になれ。まずは様子をみるんだ。ストレートで右胸を狙え』


「こっちは四六時中突風浴びてるんだぜ。頭は冷え切ってる。だから、《デッドリー》でいく。今戦術を変えてみろ。奴はそこを突いてカウンターを仕掛けるぞ」


『……《デッドリー》なら攻められないとでも思うか?』


 ああ、雅丈が青筋を浮かべている様子が目に浮かぶようだ。まあ、自分が彼の立場ならブチ切れるだろうが。


「多分。仏の顔も三度まで……なら、隆聖の《デッドリー》封じも三度まで、ってな」


『ふざけるな。勘でどうにかなる問題じゃあないんだぞ』


「悪い、これは確かに冗談だ……そうだな、二回目のショットはそこそこ余裕だった。さっきのショットは、多少冷や汗をかいた。今度は……ああ、ひょっとするとちびるかもな」




***




 思わず舌なめずりなどするほどに、隆聖は高揚感に溢れていた。


(行ける。僕の《デッドリー》封じは、完璧に機能しとる)


 すでに三度も山県源士の攻撃を捌いた。攻撃は三度とも《デッドリー》。実に鋭い攻撃で、懐に押し寄せるプレッシャーは隆盛の心臓を締め上げるに十分なものだった。


 だが、隆聖はそれを制したのだ。もはや、《デッドリー》は通用しない。


 彼の知る限り、源士の手持ち技と言えば、あとは《モビー・ディック》。だがアレはほとんど曲芸。一回こっきりの奇襲攻撃だ。モーションも大きいから、来ると分かれば避けるのも、カウンターを狙うのも容易い。


(これは、少年の手足をもいだも同然……違いない。僕は――)


 遂に、この時が来たのだと確信した。


 飯富虎生がこの世界からいなくなり、超えるべき壁を見失っていた数年間。ようやく、時計の針が動き出したのだ。


(鎖は断ち切った。これで、僕は前へ進むことができるんや)


 裏切り者の烙印を押されたとしても、それは、隆聖がずっと焦がれていたものだった。


 と、思い直して頭を左右に振る。


 まだだ。勝敗が決した訳ではない。この達成感を真に味わうのは、二度源士に槍を突き立てなければならない。


 ストレートに進入し、彼方に源士の姿を認め、隆聖は次の手を思案した。


 もし源士が泡を食って、カウンターを合わせやすい《モビー・ディック》なんぞに手を出そうものなら、それは隆聖の思うつぼである。まだ、直線的ながら急加速を頼みにする《デッドリー》の方が難しい相手だ。


「その《デッドリー》も、もう見切った。次は獲りにいくで、少年!」


 隆聖はランスを構える。狙いは、源士の攻撃を逸らしつつ、こちらの一撃を加えるクロスカウンター。勝機は十分すぎるほど。


 源士はべったりとマシンに伏せた特異なスタンス。ならば、彼の戦術に変更はないということだ。


 結構である。これを完璧に破れば、自分は――


 モニタ一杯に映し出された源士の姿が微動するのと、隆聖がスーツ越しにプレッシャーを感じるのはほぼ同時だった。


 源士の槍が隆聖へと迫る。だが呼応する隆聖は、敢えて一拍調子を遅らせる。先の二セットで掴んだタイミングだ。周回中も、何度もシミュレートをした。それが正確ならば、源士の一撃は隆聖の肩口をわずかに逸れる。その間隙を突いて、隆聖は源士の右胸を貫く算段だ。


(そろそろ……今――?!)


 モーションをスタートさせる頃合い、そう見た瞬間だった。


 全身が総毛立つ。違和感と理解するにも、あまりに一瞬過ぎた。ただ、理性が解釈するより先に、本能が強引に身体を動かしたと言えた。


 源士の胸へと吸い込まれていく槍の軌道を、隆聖は捻じ曲げる。無意識的に、しかし、これまで幾度となくこなしてきたルーチンが、正確にベターなポジションへと槍を運ぶ。


 ベターなポジション。そう、攻め手を失ってでも、自らを守るために最適のポジションへ……


 ビーム同士が斥力で反発する。源士の槍は、辛くも隆聖のヘルメッドを掠めて外れた。




***




「リューセーさん! 何でですか?!」


 《シックスセンス》陣営のピットでは、恭子はヒステリックじみた叫びをあげていた。


 対戦相手、山県源士の攻撃を、隆聖は完璧に見切っていたはずだ。だからこそ彼は次のステップに、今度こそ一本を奪りに仕掛けると言っていた。


 が、終わってみればまたも防戦からの引き分けである。


 拮抗する戦いは手に汗握る……とは言え、物には限度と言うものがある。観客は既に不満そうに低い声のざわめきを漏らしているし、何よりも戦いには機と言うものがある。それを逸すれば、戦いの趨勢は大きく変貌してしまうものだ。今は優勢でも、次の瞬間には不利に転ずるなど、決して珍しい事ではないのだ。


 そして恭子が見る限り、隆聖は全くベストな攻勢のタイミングを逃したと言えた。


 ライダーとマシンのコンディションは常にモニターしているから、不具合が出ていないことは分かっている。


 であれば、彼はどうして攻撃を諦めたのだ?


「リューセーさん?! 聞こえてるんでしょ?! うんとかすんとか……言ってくださいよ!」


 何度か隆聖への通信は試みたが、彼は一つも答えてくれない。


 まさか、彼らしくもなく熱くなってはいないだろうか。恭子は思わず、手持ちのマイクを机に叩きつけた。


「はて、熱くなっているのは果たしてどちらやら」


 幸造である。傍らのパイプチェアに身体を預けた老人は、乾いた声でからからと笑った。


「でもおじいちゃ――監督!」


「焦るでない。ディフェンスは機能しとるということは、まだ主導権を取られたわけではあるまいて?」


「そりゃ、そうかもだけど……」


「やれやれ、これだから若いもんは」


 幸造はため息を漏らすと、大儀そうに立ち上がった。監督と名乗りつつ、普段の戦況分析と指示は恭子などに任せて、昼行燈を気取っている幸造である。何を仕出かすのかと、恭子が固唾をのんで見守っていると、やおら、付近に陣取る分析スタッフに声をかけた。


「リプレイを見せぃ。さっきのセットと……その前のセットじゃ。並べて映せ」


 声を掛けられた一等気の弱そうなスタッフは、身体を硬直させながらも一目散に準備を始めた。間もなく、彼の前に据えつけられたモニタに、上下分割された隆聖たちの試合映像が表示された。丁度打ち合いの前後で、源士の《デッドリー》モーション開始から、隆聖がそれを捌くまで。映像のタイミングは同期しているらしく、インパクトの瞬間がほぼ同時に映し出されている。


 幸造は無言でスタッフを押しのけると、一度は通しで見、続いてスロー。そしてコマ送りも繰り返し前後させながら、隆聖と源士の動作を食い入るように見つめた。


 恭子もつられて、幸造の肩越しに動画を観察する。が、一体なんだと言うのだろう。恭子には、どちらも同じような防戦風景に見えてしまう。源士の狙いはどちらも同じく、隆聖の懐を狙ったものだったから、当の隆聖もディフェンスの動きは同じようなものだ。


 恭子には理解できないその二つの動画の差異を、しかし幸造は、しっかりとその真相を察知したようだった。


 目を細め、顎に指を這わせる。妙に満足げに幸造は言った。


「小僧め、やりおる。三味線でも弾いておったか?」




***




 続く四セット目、五セット目までも、源士の《デッドリー》に対して隆聖はディフェンスに徹していた。反撃の気配は、まだない。


 最初は何か裏があるのだと訝しんだが、隆聖がこれだけ決着を引き延ばす道理があるだろうかと考えると、やはり理屈が分からない。


 だが、最初に気付いたのは状況分析をする雅丈だった。


 先ほどの打ち合いも、既にリプレイ動画となって彼らの見つめるモニターに流れている。


 それを凝視する雅丈は、確信的な口調で美晴に言った。


「またコンマ一秒速くなりました。山県の槍撃のトップスピード。確実に上がっています」


「マシンに異常は?」


「ありません。いっそ正常なくらいですよ」


「正常って何」


「《カザン》にゃお前がどこから拾ってきたか分からん妙なモーターが積まれてるだろ。そんでアホみたいに加速重視のチューンしたからな……《カザン》の想定スペックから考えりゃ、まだまだ余裕のはずなんだよ。つっても、初撃でマックススピードは使えないってわかったけどな」


 兵吾が緊張した面持ちで答えた。興奮しているのか、その顔はやけに紅潮している。


 そう、初戦でマシンをウィリーさせてしまった源士は、その後意図的に加減をした。加速を大きく落として勝負に出ていたのだ。


 だが、通用するほど、真田隆聖は甘い相手ではなかったということだ。源士の放つ攻撃は、ことごとく捌かれた。


 結果、源士は多少の無理を通すつもりになったのである。


 効果は、確かに出ていると見えた。


 いつまでたっても隆聖の攻勢がやってこないのが何よりの証拠だ。観客などは、あまりに膠着した状況に不満たらしくブーイングの嵐。ショーゲームとしては失格モノである。余程隆聖は難儀しているのだろう。見切ったと思っていた源士の《デッドリー》は、予期せぬ形でタイミングが変化する。そこで修正をかけたと思いきや、それを上回る加速で仕掛けてくるのだ。


 既に、当初の《デッドリー》に比べても、今の突進速度はコンマ五秒も速くなっている。たかがコンマ五秒と侮るなかれ、敵の感覚は確実に崩れる。同じ《デッドリー》でも、その効果は全く別物のはずだ。


 美晴は考える。源士は何処まで限界に近づけるのだろう。得体の知れないマシンのポテンシャルに恐怖しながらも、彼は己と戦うようにしてアクセルを開けているのだろう。そして、その挑戦は次もまたきっと――


 今は良い。徐々にキレを増す源士の攻撃は、隆聖をペースを確実に乱している。効果を発揮している。だが、うっかり源士が限界を越えようものならば?


 その時マシンは。源士は……


 だが、美晴は頬を叩いて、脳裏に過った想像を振り払う。


 それでも、美晴は勝つためにこの指示をせねばならないのだ。


 キミの判断は間違っていない、と言わねばならないのだ。


 美晴は通信機のスイッチを入れた。いくらか乾いた喉を咳で誤魔化して、マイクの向こうで聞いているであろう源士にオーダーを伝える。


「源士、ペースアップ。行けるとこまで、行くわよ」


 言ってしまった。これで後には引けず、源士にもっと無理を強いることになる。構わないはずだ。お互いに、無理は承知で選んだ道だ。後悔を覚える暇など、ありはしない。


 だが、なんだ。この胸に沈殿する重石の様なわだかまりは。


 じわじわと浸食してくる不快感を押さえつけたオーダーである。源士は、果たして何を思うのか。美晴は、彼の返答を待った……しかし。


「源士……ちょっと源士、聞いてるの?!」


 いくら待っても源士から通信が帰ってこない。まるで無視でもされているかのように、源士は無言だ。


 通信機の不調か。確認を促すように兵吾へと目を向けるが、彼はあり得ないと言う風に首を横に振った。


 確かに、耳を澄ませるとイヤホンからは源士の息遣いが聞こえる。通信自体には問題がないのだ。だとすれば、彼は美晴からの通信を無視しているわけで。


 そう思うと、何か罪悪感のようなものを感じていた自分がバカらしくなってきた。それよりも、怒りの波が一気に荒くなっていく。


「おら源士ぃ! 返事くらいはしろっての! それとも何? 必死こいてアタック仕掛けたのに、全部良い様にあしらわれてんのいじけてんの? バーッカじゃないの?!」


 などと、半分は本当に感情に任せて、しかしもう半分は源士に発破をかけるつもりで叫んだ。


 だが、やはり源士からの返答はない。


「ちょっとこれは……まずいかもしれねえな」


 と、兵吾が苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。


「時々、こんななるんだよ。集中しすぎて自分の世界にのめり込んでやがる」


「何それ。じゃ、今の源士には何言っても無駄ってこと?」


「ああ、だから早いとこ気付かせるか、頭冷させねえと……昔っから、こういう時はロクなことにならねぇ……」


「そんなこと言われたって……」


 美晴は唸った。試合中にライダーと取れるコミュニケーションなどこの無線か、あるいはアナクロなサインボードくらいだ。それで、聞く気のない相手にどう分からせると言うのか。


 と、その時、観客のどよめきと、けたたましいブザー音がピットにまで響く。


 六度目の打ち合いが終了したのである。美晴がとっさにシグナルを確認すると、相も変わらず引き分けの黄色が点灯していた。


 が、淡々とした口調で雅丈が告げる。


「コンマ二秒、また速くなりました」




***




(……まるでチキンレースだ。頭イテェ)


 源士は胸中呟いた。


 チキンレース。断崖絶壁に向かってマシンを全力疾走させる、一種の度胸試し。ギリギリでブレーキをかけ、踏み止まれれば良し。でなければ、待っているのは悲惨な末路と言った具合だ。


 今の源士のトライは、それに近いと感じていた。何しろ、限界の見えないマシンで、何処まで行けるかとアクセルを開けるのである。


 真田隆聖の槍捌きは的確だ。少しでも気を抜けば、得物を突き立てようと鋭利な殺気を浴びせかける。源士はそれをのらりくらりとかわす為、タイミングをずらすように加速の角度を上げているのだ。


 実際、血の気の引く思いである。一戦ごとに、コンマ一秒タイムを縮めるたびに、《カザン》はがらりとその気性を変えていくのだ。いつ制御の利かない暴れ馬と化すかも知れないマシンで強敵と相対するのは、余程プレッシャーである。


(前門の真田、後門の《カザン》……なんてな)


 だが、まだ足りない。《四式カザン》の限界は、まだもう少し先にある。そして、いまだ完全な《デッドリー》には程遠い以上、源士はまだ精神と体力を削る必要があった。


 今のところ、最も満足のいく《デッドリー》は初戦。無効試合となってしまったあの一撃だ。バランスを崩してしまったとは言え、隆聖の身体を捉えた瞬間はこれまでにない快感を覚えたほどだ。マシンが、身体が、脳裏に思い浮かべたとおりの動きをトレースした。


 であれば、目指すべきはその境地。徐々に研ぎ澄まされていく集中力に身を委ねながら、迫ってくる隆聖を見据える源士。


 次は更にコンマ二秒詰めていこうか。額にじわりと感じる湿り気を拭いたい衝動に駆られながらも源士は槍を握り戦闘の準備を始めた。


 ふと、思う。飯富虎生は、完全な《デッドリー》を放ったのだろうかと。ブラスト創始からこれまで、虎生ほどの《デッドリー》使いは他にない。ならば頂点の彼は、誰にも避けることの出来ない究極の《デッドリー》に達したのだろうか……と。


 既に死んだライダーである。もう、その真相を知る術はない。それでも気になるのは、源士が彼の後を追うライダーであるからだろう。既に立ち止まってしまった男であっても、その背中がどれだけ遠いのか、まだ、源士には分かりかねていた。


 どこまで走ればいい。どこまで突き詰めれば。


 ――どこまで。


 思考の渦が、源士を捕らえた。絡みついて離さぬように。


極限の集中力は、時として視野を狭め、判断力を硬直させる。それが悪い方向に出た時、最悪の事態に転ぶことも珍しくはない。


 その時の源士には、隆聖の姿しか見えていなかったのが災いした。路面に残されたごくわずかな異物、いつの間にか脱落してしまったマシンの外装の一部に気付かなかった。


 アクセル解放、唸りを上げるモーター。チャージングのために上体を持ちあげた、その瞬間。


 視界が大きく揺れた。つい先ほどまで隆聖を見据えていたはず視界。今はただ、一杯に青いものが映る。それ大空であると、この時の源士はまだ気づかない。


 マシンにしがみ付く感覚がない。握っていたはずのスロットルは? 足をかけていたステップは? すべてが虚ろに思える程、曖昧だ。


 隆聖は何処に行った。やけにゆっくりと流れていく視界のなか、どうにか目を動かすも、彼の姿を認めることもできない。その内、青一色の視界は次の風景を映し始めた。グレーのキャンパスにマーブル模様を敷き詰めたような、それがザワザワと蠢いているように見えた。一拍おいて、その光景は満員の観客席であると気付いたが、だからとて何故自分がその光景を眺める羽目になったのか。急激な状況の変化に認識が追い付かず、源士はまだ理解できないでいる。


 ただ、掃いて捨てる程いる観客が源士に視線を注ぐ中、たった一人の少年の姿を、認めた。


 口をだらしなく半開きにして、そのくせ目は大きく見開いて。青白くなった顔色は、見てはいけないものを見てしまったとでも言いたげだ。


(何だろう……心配されているのだろうか)


 おかしな方向に冷静になっていると、その時になってようやく源士は自覚したが、それでも現状をどうすることもできなかった。


 そんな異常な感覚に包まれた源士は、しかし、少しばかり唇をにやりと吊り上げた。


「そんな顔するなよ……これから良い所……なんだぜ?」


 一言つぶやいた後、大きな衝撃を全身に受けた。それきり、源士の意識は暗転した。

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