Chapter34

「――ジ……おい源士!」


 遠くからさえずる様な声が徐々に近くなっていき、ようやく源士は自分を呼ぶ声に気が付いた。


 何故ぼんやりしていたのだろう。この炎天下の所為だろうか? 記憶が、ひどく曖昧だ。


「お前、最近しょっちゅうボケっとしてるよな。気ぃ緩み過ぎと違うか?」


 呆れたように呟く声、これは兵吾か。小柄な体格に相違なく、まだ声変わりもしていない。一見するだけでは性別すら怪しいものだが、自分と同じ男のはずだ、多分。


 かく言う源士は既に声変わりを果たし、身長も同世代ではそこそこ長身だ。小学五年生にしては、成長の早い方だと思う。


「ああ、水分不足かな。頭がくらくらする」


 兵吾の甲高い声を耳元で浴びるうち、何となく記憶が舞い戻ってきた。


 そう、夏休みに暇をしていた源士を、兵吾がサーキットに誘ったのだ。レースのレの字も知らなかった源士だが、絵日記のネタくらいにはなるだろう、と言われるがままに着いてきた次第である。


 しかし、未だに理解出来ないでいる。何が楽しくて、こんなクソ暑い中を人ゴミに揉まれなければいけないのか。周囲を埋め尽くす観客も、皆熱に浮かされたかのようにテンションが高い。その空気に着いていけない源士は、思わずため息をついた。


「レース、か。何がそんなに面白いんだ? ただ同じところをグルグル回ってるだけだろう?」


「バカ、唯のレースじゃねえよ。こいつぁ、ブラストだぞ」


 と、兵吾が鼻息荒く言い返す。


 ブラスト。この所、彼がよく口にする単語だ。彼のフィーリングに満ち溢れた説明が要領を得ない所為で、今まで一体それが何のことなのかさっぱりだったが。


「じゃ、今から始まるのはブラストってレースなのか」


「レースじゃねえ」


「……だって、ここサーキットだろ?」


 源士としては至極真っ当な質問をしたつもりなのだが、兵吾はまるで分かってないとでも言いたげにチッチッと舌を鳴らした。


「サーキットだって、追いかけっこがすべてじゃないんだぜ? こいつは……決闘だ!」


「はあ、お前がドヤ顔する意味は分からんが、決闘?」


 今度は決闘ときたか。車だのバイクが主役であるこのサーキットで、随分と時代錯誤な単語が出たものである。


「なんだ、ここで殴り合いでもするのか」


「お前なあ……ま、いいや。とにかく、見れば分かるさ」


 呆れ顔の兵吾が顎で人込みの向こうを指す。子供には難儀だが、どうにか掻き分ければ間近で観戦できるだろう。


 小学五年生だとしてもいささか小柄が過ぎる兵吾は、試合の様子が見えずに飛んだり跳ねたりと世話しない。


 まあ、せっかくここまで来たのだし、こうやって人の波に揉まれて帰るだけと言うのも癪だ。と言う訳で、源士は歳の割にデカい図体を駆使して、最前列へと割って入った。


 ――瞬間、アスファルトの照り返しに目をしかめる。慣れていくにつれ鮮明になる光景に、源士は引き込まれた。


 巨大で骨太なフレームを持った車体。ローダーローラーもかくやの野太いタイヤ。機械でありながら、荒々しい気性まで感じられる。それを事もなく操るライダーは、甲冑のようにも見えるプロテクタに覆われていて、レーサーとしては過剰過ぎる程の重装甲。そして、マシンを走らせるには明らかに邪魔なものが握られている。金属質な柄から、淡い燐光がパイル状に伸びる。長大な、それこそライダーの頭身をも上回る長さだ。


 ガソリンのエンジン音とは明らかに異なる超高音が耳を劈いて、マシンが駆ける。


 どこまでも続いていると錯覚しそうなコースを、走るマシンはたったの二台。


 だが、およそレースではないと源士に認識させるその光景。


 二台のマシンは相対して、今まさに源士の眼前で交差しようとしていた。


 ほんの一瞬の世界である。源士は何が起こったのかすら把握できなかった。


ただ、二台のマシンがすれ違って、もう何十メートルも遠くに去ってしまった後、高らかに鳴り響いたブザーと強烈な歓声。センターディスプレイに映った一人のライダーが、勝ち誇ったように握り拳を掲げる姿で、すべてが終わって、誰が勝利者だったのかを知るのみだった。


「やっぱりすげえ……ブラストって、生で見るとこんなかよ……!」


 いつの間にか真横にいた兵吾が、声を震わせて言う。胸の前で握った両拳が、小刻みに震えていた。


 ブラスト。超重量級のバイクを駆って、互いに光の槍を交える。


ああ、これがブラストか。


 確かに単なるレースではない。もっと過激で、そして暴力的だ。


 だが、熱い。


 マシンの咆哮が源士の身体を揺るがし、ライダーの闘志は源士の心を焦がす。


 つい先ほどまで、興味などないはずだった。


 今、源士の胸に宿った小さな火種が、より大きく燃え上がろうとしている。


 だが、どうすれば良い? この炎は何処に向かって燃やしていけば……


 源士は、サーキットを一周して再び戻ってきたライダーに目をやった。ウイニングランである。試合とは打って変わって、見せつける様な速度で走っていた。


 深紅の車体に、深紅のプロテクタ。そして同じく赤いヘルメットには、よく見ると何かが描かれている。


 それは、菱型の鎖が四重に連なったマークだった。


「兵吾……ありゃ、なんていう選手だ?」


「ああ? えーっと、ちょっと待てよ」


 兵吾は慌ててポケットから、くしゃくしゃになったパンフレットを取り出した。回り込んで上から覗き込むと、今日出場する選手の一覧が記されている。まるで、格闘ゲームのマッチング画面の様に二人の選手を対比するページには、名前だけでなく、ご丁寧に顔写真とチームロゴも記載されていた。そこには件のマーク、すなわち《鎖菱》があった。


「こいつだ。《甲斐カザン》の……飯富虎生」


「飯富虎生……」


 その珍しい名前を、源士は何度か口にした。皺だらけのパンフレットに載る仏頂面で三白眼の男の顔写真からは、およそ闘気と呼べるものは感じられない。


 やがて、マシンを停車させた虎生は、わらわらと集まってくるチームのスタッフに揉みくちゃにされていた。誰もが満面に笑みを浮かべ、彼の勝利を心から喜んでいるのが分かる。


間違いなくこの瞬間、飯富虎生は何千といる群衆の中にあって、たった一人の主人公だ。


(楽しいか? そこは)


 源士は胸中呟いた。どうせ聞こえるはずもない、答えてくれるはずもないから、あくまで心の中でだ。


 対戦相手を気持ちよく勝利し、割れんばかり喝采を全身に受け、今そこに立つアンタは、一体どんな気持ちでいるのだ?


 身体の震えが止まらない。憧れ、羨望……武者震いとでも言うのか。きっとそうだ。


 俺は、あの場所に立ちたいのだ。


 射殺すほどの源士の視線に、果たして飯富虎生は気付いただろうか。きっと偶然だろう。が、だとしても構わない。


 飯富虎生のヘルメット、そのカメラバイザーの煌きが源士に突き刺さった。虎生と、目があっている。


 背筋がぞわりとした。それは死闘のなごりか、激しいまでの殺気を当てられたようなプレッシャーを浴びせかけられたような気がした。


 ヘビに睨まれたカエル。もとい、トラに狙われたネズミにでもなった気分の源士を尻目に、虎生は間隣のスタッフに何をか喋りかけているようだった。しきりに、自分のヘルメットをこつこつと突いている。


 そのスタッフは快活に笑って頷いた。


 それに応じて、虎生はヘルメットを脱ぎ去る。と、おもむろに虎生は、ヘルメットを掴んだ手を大きく振りかぶってみせた。


 ここからでも風を切る音が聞こえてきそうな勢いで、虎生がヘルメットをぶん投げた。


 真赤なヘルメットが宙を舞う。米粒ほどの小さなボールが、すぐに大きくなっていく。


源士は思わず腕を伸ばした。


何故か、偶然はないと思えた。この無数にいる人々が我先にと手を伸ばす中で、それがどこへ向かうのか。源士には、見えた。


(来い、ここに)


吸い込まれるように、あるいは、自分が引き寄せているのかとも思える程に、ヘルメットは源士の両手に収まった。


 飯富虎生と共に修羅場を潜り抜けてきたヘルメットは、未だ熱を帯びて熱い。いくつもの戦いを潜り抜けてきた故か、遠目からは見えない擦過痕がまるで紋様のように残っている。


 起動はしない。内部のモニタを覗いても、わずかな光さえ灯ることはない。故障か、それが分かったから虎生はスタッフに何をか語りかけ、このヘルメットを投げてよこしたのだろう。


 ファンサービス、なのだろうか。初めてブラストを観戦した源士であるが、およそ周囲の奇異な目線が自分に向けられていることを察して、これが余程珍しい事なのだと理解した。であれば、それは何故。


改めて、源士は彼方の飯富虎生を見やった。


 そこにいるはずなのに、その男は霞むほど遠くに佇んでいるように思えた。源士の精神が、心境がそうなさしめるのだろう。届かない。届くべくもない所に、虎生はいる。


だが、虎生はしかと源士を見ていた。今度は機械のメット越しではない。飯富虎生の双眸が源士を射抜くのだ。


 あるいはファンですらないかもしない。そんな見ず知らずの小僧に、あの男は何を伝えようと言うのか。


 感謝? 勝者の嘲り?


 違う。断じて、違う。


 源士の手にあるものは何だ。壊れて、無用の長物と化したこのヘルメットは。


 それも、何かのメッセージだと言うのなら。


「あいつ、誘ってやがるのか……?」


 突拍子もない事は百も承知だ。あり得ないと、それでも理性は訴えかける。だが本能は、この目に入ってくる情報は、確かにそう訴えかける。


(羨ましいのなら、早くここまで来てみるがいい)


 一見寡黙にして仏頂面の男の目が、そう告げていた。少なくとも源士には、そう見えた。


 源士の隣では、兵吾が顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせている。心なしか焦点も定まっていない様に思えるが、彼の人差し指だけはしっかりと、源士の手の中にあるヘルメットを指していた。


「お、おおおま……それ! メット! 何でお前が……くれ! それ、くれ!」


「絶っ――――対に、やらん」


「んん! ンー! ングァー!」


 と言いながらも、源士は片手で掴んだヘルメットをすっぽりと兵吾にかぶせた。前後逆さまになったヘルメットにパニくって呻き声を上げる兵吾。


 そのユーモラスな様に微笑を浮かべつつも、源士は再び虎生に視線を移した。が、もう彼の姿はない。虎生を含めたチームの面々は既に撤収し、間もなく始まる次のマッチングに備えて、オフィシャルによる路面の点検が始まっていた。


(まったく、とんでもない置き土産だ……だが)


 ようやくヘルメットを脱ぎ去って一息ついた兵吾。恐らく抗議でもしようと、ひどい剣幕で源士を睨みつけたものだが、源士の顔を見るなり興味深そうな表情を浮かべた。


「お前、なーんか面白そうなこと考えてんだろ?」


「そう見えるか?」


「見える。俺とお前の仲だろ。隠し事はなしだ」


 気心の知れた幼馴染には、感情表現の下手くそな源士の顔色も手に取る様に分かるらしい。


 勿論、源士には今しがた芽生えた彼の目論見を隠す気はない。何とすれば、兵吾もまた似たような思いを抱いていると思えた。ならば、こいつは巻き込むべき親友だ。


 だから、源士は言った。


「俺も、あそこに立ちたい。どうすればいい?」


 最初、兵吾は口をぽっかりと開けて源士を見入った。それはそうだろう。ただの小学生が何を言い出すかと思えば「ブラストライダーになりたい」とのたまうのだ。冗談でなければ、余程世間知らずな物言いである。


 が、そういう意味では、兵吾も十分にバカな小学生の類だった。


そして、源士の馬鹿正直と頑固な性格を良く知る少年だった。


 兵吾は、白い歯を見せて笑った。


「分かんね……でも、面白そうだな、それ」


 それから、源士と兵吾の生活はブラスト一色になった。どうすればブラストがやれるのか。最初は、異様に金のかかるマシンやプロテクタと言った備品の数々に目を丸くしたが、どうやらクラブ活動でブラストのやれる中学校があるらしい、と聞いて、俄然意欲を燃やしたものだった。


 それから、飯富虎生と《甲斐カザン》である。


 彼らが気鋭のチームとライダーであることは、少し調べればすぐに分かった。一番気になったのは、飯富虎生の得意とする技である。急加速をかけつつ身体を投げ出すようにして、敵に向かって突撃をかける《デッドリー》。たった一瞬見ただけで源士の心を奪ったあの技を、虎生は必殺技に昇華して使いこなしているのだ。


 ブラストの好事家に言わせれば、《デッドリー》はすでに使い古されて久しい化石の様な技らしいが、源士にはどうでも良い事だった。何故なら、虎生は現に《デッドリー》で勝利を収めているのだ。百聞は一見に如かず。古かろうが陳腐だろうが、虎生の《デッドリー》は強い。それだけで十分だった。


 それからも、源士は何度か飯富虎生の試合を観戦した。そのすべて、焼け付く晴天の下でも、嵐の豪雨の中でも、飯富虎生は華々しく連勝を飾ってみせた。鮮烈な光景を目に焼き付けた源士は、やはりと確信したのだ。


 今は目指すべき大きな目標。あの男の様に、苛烈な《デッドリー》を使いこなすライダーとなる。


 だが、いずれは――超える。飯富虎生というライダーを。


 強い思いを固めたその日も、源士はサーキットにいた。晩夏、なお残暑の続く会場は、同様に観衆の意気も高い。


 今日は決勝戦。飯富虎生がリーグ優勝を果たすか否かを決める、重要な一戦だった。


「いよいよだなぁ、おい! 俺、昨日も寝れなくってさ!」


 と、充血した目を爛々と輝かせるのは兵吾である。あの日以来、彼もすっかり飯富虎生のファンとなっているようだった。というよりは、虎生の《デッドリー》にかもしれないが。


「肝心なところで倒れるなよ……ほら、始まるぞ」


 源士が兵吾をひじ打ちする間に、シグナルが点灯して二台のマシンが発進する。一方は紅に染め上げられた外装に、連なった菱型のエンブレム。すなわち、《甲斐カザン》のマシンを駆る飯富虎生だ。


 高音の咆哮をもって起動したマシンは、高速でホームストレートを駆けあがる。既に小さくなったマシンの後ろ姿を、例によって最前列に陣取った源士と兵吾はじっと見送った。


 ここまで負けなしの飯富虎生の勝利を、誰もが疑わない。無論、源士もだ。それほどまでに虎生の《デッドリー》は常軌を逸した強さを見せる。


 そして、今日勝てば彼は優勝の栄誉を手にする。すると、どうなるか?


 少しブラストを知っている者なら皆噂をしている話である。虎生はワールドリーグに挑戦する。


 世界の舞台に打って出るのだと。


 源士としては、それは少しばかり悔しい所でもあった。いずれは戦わんと決めた相手が更に高みに登っていく。子供の浅はかな羨望であっても、ライバルに更に差を付けられたという感情に変わりはないのだ。


 しかしそうなると、もう簡単には飯富虎生の戦いをこの目で見ることは難しくなる。主戦場が海外になれば、日本での開催試合は数えるほどになるだろう。


 ならせめて、今日の一戦はしっかりと記憶に刻み込めておきたいと、源士にしては珍しく、目を皿にして一部始終の記憶に努めていた。


 そうこうする間に、遠退いていたマシンの駆動音が再び源士の鼓膜を叩きだす。二機のマシンが周回を終えて帰ってきたのだ。


 既に裏ストレートでの初戦は終わり、例によって飯富虎生の《デッドリー》が対戦相手を容赦なく貫通した。巨大なセンタモニタに映し出されたリプレイを見る限り、その手際はあまりに鮮やかだ。


 返す刀でこのメインストレートに駆け戻ってきた虎生を、源士は手摺に身を預け、前のめりになって睨んだ。


 源士は心に念じた。ただ背筋が凍るとしか言えない虎生の《デッドリー》は、何度見ても得体が知れない。恐らくは誰も掴めていないであろうその技のカラクリを見せてくれ、と。


「っ! 見えたぞ!」


 兵吾が叫ぶ。


 雷鳴にも似た音に次いで、遂にマシンが姿を現した。虎生は既に燐光を放つランスを構えている。


のみならず、虎生のスタンスは異様に低姿勢だった。マシンを抱きかかえるように伏せ、膂力を大いにため込んでいるのだ。その所作が《デッドリー》の予備動作だと言うのは、よく知られた話だ。裏を返せば、これは《デッドリー》の予告。虎生は手の内を隠すことすらしないのだ。


 しかも、それが当たり前であるかのように勝利する。今の虎生は、誰しもそう思わせるだけの勢いがある。


源士でさえ、その勝利を信じて疑わない。きっと、いや、必ず。


「なんだ、この音……?」


 ――最初の違和感は、モーター音に混じってかすかに聞こえたノイズだった。乾いた高音に混じって、何かが擦れる重苦しい音が。


 その原因が何だったのか、メカに疎い源士には知る由もない事である。


 だが、結果何が起こったのかは分かる。源士は目前でその光景を見たのだ。きっと、この会場にいる誰しもが、そこに視線を注いでいたに違いない。


 接敵までもう数十メートルというところで、虎生は唐突にランスを投げ捨てた。自由になった手はそのままハンドルを握る。


 虎生のマシンが左右に大きく振れる。タイヤと車体から噴き出した白煙が、蛇行する轍を隠すように吹き上がる。


 マシントラブル! ……そうだと気付いたときには、もうすべてが決していたと思う。


 車体が浮き上がった。そのように見えた刹那、飯富虎生の身体が跳ね飛んだ。


 目を背けることはできなかった。釘付けになっていた源士の視覚は、一秒にも満たない刹那の光景を捉えた――捉えてしまった。


 二度、三度、遮るものの何もない空を虎生の肉体が回転する。きっとなす術はない。暴れようが、もがこうが、そこに身体を支えるものはない。


 そして彼の下方、戦場たるアスファルトの路面。たとえ堅固なプロテクタを装備していたとしても、身を委ねるには余りに硬く、そして無慈悲だった。


 重力に任せ、虎生は路面に叩きつけられる。


 腕が、足が、首が――まるで電気ショックでも受けたかのようにビクンと跳ね上がった。一瞬の出来事である。それがどう意味かも理解できぬまま、源士が思ったのは「何故そんな方向に身体が曲がるのか……?」だった。


 なおも運動エネルギーを発散しきれぬまま、アスファルト上を転げるように滑走した虎生の肉体は、二、三十メートルの後、遂に停止した。


 その瞬間、すべてが静止したかのように静まりかえった。源士だけではない、その場にいるすべての人間が声を失い、力なくその場に伏した虎生に視線を集める。


 だが、虎生がその身体をもたげることはない。できるものか。四肢の関節と言う関節がすべてあらぬ方向を向き、その姿は糸の切れたマリオネットの様。


 そう、つまりは。


「死んだ……死んだの……か?」


 普段はことある毎にアホな事ばかり喚くはずの兵吾が、声を殺して呟いた。ひどく青ざめた顔に、唇が僅かに震えている。それで、彼の心情がすぐに分かった。


 自分も、きっと同じ顔をしているから。


 主観時間で言えば永遠とも思えるだけの長い時間、しかし、実際にはほんの十数秒の沈黙を経て、ようやくオフィシャルとスタッフが倒れる虎生に走り寄った。


 それを遠くから睨む源士は、胸中「どうする?」と呟いた。実際にはどうすることもなく、ただその場に佇むしかないはずの源士である。


「お、おい源士! 何するつもりだ!」


「……見に行く」


 しかし、意識するより先に源士の身体は勝手に動いた。自分にこんな瞬発力があったのか、そう思うほどに軽々とフェンスを乗り越え、源士はサーキットに降り立った。


 そして、走る。息が切れても気にしない。転んでつまづいても、心から湧き上がってくる気味の悪い熱が痛みさえ掻き消した。


 向かう先は決まっている。こと切れて動かない、ついさっきまで虎生であったモノ。


 覆い隠すように群がる人々の隙間に突っ込み、掻き分け、源士は進む。ようやく一筋光が見え、それを抜けた時――


「なんや君、一体どっから……」


「あ、ああ……」


 果たして、そこにある遺体を人間と呼べるのだろうか。スーツによって、辛うじて人の姿をとってはいても、明らかに中身は骨格も肉体の起伏も、人間のそれではないと見えた。


 その人型を囲んで、二人の人の姿があった。一人は年上と見える少年。そしてもう一人は、ショートカットの女の子。俯いて、じっと動かなくなった虎生のヘルメットを覗き込んでいる。二人とも、《甲斐カザン》というチームワッペンの貼られたシャツを着ていた。きっとこのチームの関係者なのだろう。


 視覚を通して脳に焼き付いたその飯富虎生の姿を理解した時、喉の奥から不快感と共に酸っぱいものが込み上げてきた。片手で口を押える。もう片手は地面についた。力の入らない両膝で、どうにか崩れ落ちそうになるのを支えるためである。


 渦巻く思考を抑えられない。


 死んだ。本当に死んだのか? ついさっきまで、あの巨大で凶暴なマシンを手足の様に扱っていた男が、もうこの世にはいない。そんなことが?


 だが事実は。


 目の前に倒れる人型も、その隣で虚しげに首を振るドクターも、すべてが事実であると告げている。忌まわしいが、事実だと。


「少年、ここには入ってい来たらアカン。ほらあっちへ……」


 妙なイントネーションの声が源士を呼ぶ。肩に手を掛けられた。見ると、そこには自分よりいくらか年上の少年の姿があった。彼もまた、上ずった声に震える手で、まともな精神状況ではないのは明白だった。


 源士は無言でその手を振り解こうとする。だが、悲しいかな力ではかなわない。無理やりに引きずられてその場を引き離されそうになった。


「離せ……! 俺は……くそっ」


 そうだ、唯の部外者だ。虎生と同じチームのユニフォームを身に付けるこの少年とも、そして、未だ虎生の傍らに立つ、あの少女とも立場が違う。


 やるせない、そんな感覚に見舞われながら、遠ざかっていく。


 また人ごみに飲み込まれる。それでも虎生の亡骸を睨みつける源士。


 最後のほんの一瞬、源士は見た。


 ドクターが虎生のヘルメットを外す。鮮血を滴らせた口が露わになる。その口がほんのわずかに動いたのを。


 死人に口なし、なんて言葉をてんで無視するように、虎生であったモノが言う。


「いつマデ、ソコデねテルきダ?」

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