Chapter35

 時折、眠りから目覚める時、これが夢か現実か分からなくなる時がある。


 果たして、この両目はいつから開いていたのだろう。そもそも今見ているこの世界は、本当に現実か?


 意識の連続性が失われて、困惑してしまうのだ。寝ぼけている、とも言うが。


 背中が熱い。フライパンにでも乗せられている気分だ。それにひどく眩しい。仰向けになって横たわる源士の真上には拷問の様に灼熱の太陽が輝いていた。


 全身が動かない。小指の先までピクリともさせられない。


さて、一体ここは何処だろう。確か、兵吾と二人してブラストの試合を観戦に来ていたはず……


 ふと、目だけはどうにか左右に視界をふることが出来たので、それで源士はあたりを伺った。


 源士を囲むようにして、幾人かの人影が立っているが、直射日光をもろに受けているせいでシルエットしかわからない。


 そして、少し離れたところには巨大なバイクが横たわり――


「……ぁ」


 弛緩した全身のせいで、声もろくに出せなかった。


 ただ、回らない口に先行して出た源士の思考は、一つ。


(どうして……あんたがここにいる?)


 倒れたマシン、《四式カザン》を検分するライダーの姿があった。


 目にも鮮やかな紅を基調としたスーツとプロテクタは、何故か《甲斐カザン》のデザインに酷似している。しかし、それらの装備はどこか厚ぼったい。ざっと見ても二世代は前の代物だ。


 そう、もう五年も前。確かにあのスーツは最新鋭だった。


 甲斐の虎、飯富虎生が生きていた、あの頃は――


「小僧には過ぎたマシンだな、こいつは」


 くぐもった男の声がした。いつの間にか、時代遅れのスーツに身を包んだ男のヘルメット越しの双眸がこちらを向いていた。


 声はまだ出ない。まるで声帯の使い方を忘れたような気分だ。


(幽霊なんぞに馬鹿にされるか……?)


 内心舌打したい気持ちだが、身体が動かない以上は仕方なく、脳内で毒づく源士。と、どういう訳かそのライダーは、源士の思考を読んだかのようにぴくりと反応した。


「失礼な奴だ。足ならあるぞ」


 そう言って、ブーツの踵を何度か鳴らして見せた。


「お前なら分かるはずだ。俺はここにいる。昔も今も、ずっとな」


(そうかい、ならやっぱり幽霊じゃねえか、クソが)


 しかもとびきり性質の悪い奴だ。悪霊ではないか。死んでなお、この男はブラストの狂気に憑りつかれて、こんなところを彷徨っていると言うのなら。


 いや、死人に近づいているのは、むしろ自分の方か? 三途の川に片足を踏み込んだ自分の見ている幻覚なのか?


(だとすると、死ぬのか。俺は……)


 そう思った瞬間、全身を熱いものが駆け巡った気がした。


 相棒と呼べるだけのマシンを手にして、初めてのプロ戦。その途中で、こんな無様な死に方をするなど、自分はまだ何もなしていないのに。


 さっさと起き上がれ。ぷっつりと神経が途切れているかのような肉体にそう言い聞かせ、源士は起き上がろうと必死に念じた。


「人間、死ぬときは死ぬ。無駄なあがきだ」


 虎生は少し俯くと、抑揚のない声で言った。達観していると言うには、あまりに感情のこもらない声だった。


 だからこそ、彼のセリフは源士のカンに触った。


(アンタが、それを言えるか? 死んでもこんなところをほっつき歩いて、俺にちょっかいをかけるアンタが)


「おいおい、俺はお前が見てる幻覚じゃなかったのか? だったらお前は、ちょっかいをかけて欲しくて俺を呼んだわけだが」


 果たしてそうなのか? 源士には分からない。 虎生の幻影が目の前に現れただけでもひどく混乱しているのに、そんな本当の心の声なんて分かるわけがない。


「慰めの言葉なんていくらでもかけられるさ。『よく頑張った』でも、『もう休んでいい』でも……はっ、陳腐だな」


 虎生は嗤って、倒れる源士に歩み寄った。昇った太陽とヘルメットが重なって、眩いシルエットを形取る。源士は思わず目を細めた。


 そういえば、ブラストを始めてこのかた、慰められる経験など一つもなかったように思う。誰に強制されるでもなく、自分で決めた勝負事の道。しかも、傍目には真面目にやっているのかと罵られるような《デッドリー》使いだ。誰が好き好んで気にかけてくれる?


 誰かのためにブラストをやっているのではない。そんな人間に、慰めは必要ない。


 ――ならば、この男が現れた意味は。


「面倒だから言っておくぞ。俺がお前にコイツをやったのは、単なる気まぐれのファンサービスだ。別にお前に才能を感じたわけじゃないし、シンパシーもない。ただ、お前が俺を見ていて、丁度コイツがぶっ壊れていたからだ」


 虎生は自分のヘルメットをこつこつと突いて言った。


 真赤なヘルメットに《鎖菱》のマーキング。それはかつて虎生の手にあり、今、源士はもの。


(……知っていたさ。アンタにとって俺は一ファンだったろうし、たった二回かそこらサーキットに足を運んだだけのにわかだった。アンタがどうこう思う程のことはしちゃいない)


「だから、俺が言えることがあるとすれば……ああ、そうだな」


 虎生がゆっくりとヘルメットを外す。生々しい傷跡も滴る血潮も見られず、そこには鋭い眼差しをした男の素顔があった。


「やる気がないなら、俺に代われ」


 クールに見えた男の顔が悪鬼のごとく歪んだ。激情を、ありったけの憎しみをぶつける勢いだ。


 源士ですら、瞬間血の気が引くほどに。


「特別なことはしなくていい。ただ、お前の身体を俺に貸せば……」


(そうかい。つまり、アンタはまだ……)


 苦々しい表情を浮かべる虎生と、すべて言い終わらぬその言葉で、源士はすべてを理解した。理解、してしまった。


 なるほど、化けてでも出るわけだ。


 甲斐の虎、飯富虎生には、目指すべき未来があった。


 あの日、すべてを断ち切られなければ、きっと届いたであろうその高みは――


 究極の、《デッドリー》。


「アンタに代わったら、勝てるのかよ」


 不思議と、声が出た。虎生から伝わってくる深い悲しみも、熱い憤りも、誰が受け止められるだろう。恐らくは誰もいない。誰もこの男の夢を叶えることは。


 だが、もしできることがあるとすれば、それは?


 ようやく、身体に力が入る。上体を起こし、源士は憮然とした顔の虎生を見つめた。


「生憎だったな。俺はあんたに憧れてブラストを始めたんだぜ……あんたが死んで五年。俺がブラストに打ちこんだ五年。腐っても、そいつがデッドリーに叩き込んだ俺の全てだ。俺のデッドリーを、舐めるなよ」


 しばし、二人の視線が火花でも散るかのように交差する。少しでも気を抜けば、その場でも殺されそうな気迫のぶつかり合い。


 どれだけにらみ合ったか、そんな意地の張り合いの末に、ふと笑みをこぼしたのは虎生だった。


「真田のガキに一本も取れないような奴が、よく言うな」


「ぬかせよ。全部、これからだ」


「……ひとつ、忠告しておいてやる」


 虎生はおもむろに、脇に抱え込んでいたヘルメットを投げ寄越した。まるで、初めて出会った日、彼がそうしたように。


 今はもう源士の所有物であるはずのヘルメット。あちこちに出来た小さな傷も、鎖菱のマークも、すべて源士の見慣れたものだ。しかし、何故だろう。いつもよりそれが重く感じるのは。


「忠告か。この俺がな……いいか。お前の言う《これから》ってやつが、いつまでもあると思わないことだ。特に俺たちにはな」


「だったら、どうなんだ」


「どうってこない。ただ、ブラストライダーには今しかないってだけだ。だったら、やることは分かるな? ……はん、臭いセリフだが」


 柄にもない事を、と虎生は苦笑すると、源士を背に歩き出した。


 その言葉の、どこか臭いものか。源士は小さく唸った。そんな忠告をできるのは、きっとこの男しかいないのだ。彼にはもう、永遠に《これから》はこない。どころか、《今》と言う時間さえ疑わしい。


そんな男が源士に残せる、唯一にして最大の応援が、それなのだ。


 だとしたら、源士に出来ることはやはり、一つしかない。


「……もうアンタの《デッドリー》じゃないが、アンタから盗んだ技だ。せいぜい、上手くやってみせるさ」


「ぬかせよ未熟者。ま、勝ったら教えてくれ。俺はいつでも《ここ》に居る――ああ、早く行ってやれ。お嬢を、あまり泣かすなよ……?」


 ひどくぼやける視界に、もう遠く霞んだ虎生の横顔は良く見えない。が、それでも、笑っているのだろう。源士はそう理解することにして、瞳を閉じた。

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