Chapter36

 自分はまだ夢を見ているのだろうか。


 いや、そんなはずはない。耳を劈く観客の声も、立ち昇る熱気も、すべてリアルだと解かる。


 だとすれば、これも現実か? と、源士は思わず目の前の出来事を疑いたくなった。


 目の前、それも鼻と鼻が触れ合うほどの近さで、美晴の顔があった。


 しかも、唇には柔らかな感触。


 口づけをされている……?


「意識、戻りました!」


「……ぷはっ」


 誰かが叫ぶ。と同時に、彼女の唇が離れる。源士の口は開きっぱなしであるが。


「何をしてた……?」


「……人工呼吸」


 むすっと不機嫌な顔をした美晴が呟いた。不機嫌、と言うには少し違うか。彼女の目じりに水滴が滲んでいた。


 いつの間にか、夢と同じ体勢に起き上っていた源士である。しかし、視界の外から何者かに押し付けられて、再び地面に頭をぶつける羽目になった。白衣を着た中年の男、サーキット常駐のドクターである。処置の一環であろうが、源士の手首を取り、脈を計りだした。


 と、その隣で跪いて、源士を見下ろす兵吾の姿があった。源士が意識を取り戻して安堵したのか、それとも未だ不安を隠しきれぬのか、引き攣った笑みを浮かべていた。


「兵吾、俺はどうなってた?」


「どうなってたって……マシンから吹っ飛ばされたんだぞ。心臓だって、さっきまで止まってて――」


「それで、人工呼吸か……試合は?」


「ばっかやろう……そんなの中止に決まってるじゃねえか?!」


「じゃあ、勝敗はついてないんだな?」


 すると、兵吾は口ごもって目を逸らした。


「そ、そりゃ――」


「まだ、負けてないんだな?」


 念を押すように源士が睨みつけると、兵吾はやがて観念したように、しかし悔しげに口を開いた。


「いや、こっちのトラブルで走行不能になったんだ。負けはこっちに付く」


「ちっ、そうだろうな……だが」


 そんな気はしていたのだ。というか、ルールブックにも書いてある自明の理ではある。


 だが、ここで「はいそうですか」と引き下がるわけにはいかないだろう。


 改めて、源士は全身の神経に気を張り巡らせた。


 両手、小指の先まで動く。両足、大丈夫、問題ない。身じろぎする……何処にも痛みは感じない。


 確か、心臓が止まっていたと言っていたか。その割に、他は箇所は随分と元気だ。源士は自分の頑強さに思わず吹き出しそうになるが、それをぐっと堪えた。代わりに、ドクターの手を振りほどく。


「き、きみっ、何をするんだ!」


「何って、試合するに決まってるだろうが。俺はまだ負けてない」


「試合なんてできる訳がないだろう! 大体君はさっきまで――ひっ」


 ドクターが一気に青ざめた。顔面神経痛を疑うその表情は、鬼か悪魔でも見たようだ。そのリアクションで、自分がいかに険しい顔で彼を睨んでいたのか、想像に難くない。


「頼むよ先生。この通りピンピンしてるんだ。今走らなきゃ、その方がどうにかなりそうだ。それに……」


 奴が見ている。まだピットに入るそぶりも見せず、コース脇に停車させたマシンは灯の入ったまま、いつでもその心臓を再始動させられる状態だ。


 それに跨った男は、高らかに勝利を宣言するでもなく、傷ついた対戦相手を見舞うわけでもない。ただ黙して、倒すべき相手が起き上る時を待っている。


 奴は、真田隆聖は、まだ戦う気でいるのだ。


 だから、立つ。立たなければならない。


「源士」


 熱せられた路面に手を着き、起き上がろうとしたそんな時である。落ち着いた、しかし冷やかな美晴の声が響いた。


「ったく、なんて顔してるんだ。お前は」


 源士は苦笑した。あの自身の塊みたいな美晴が、今にも泣きそうな顔で源士を見つめていたのだ。大方の予想はつく。困った事にこいつは、この期に及んでまだ迷っているのだ。


 すわなち負けを認めるべきか否か。あるいは、諦めるか否か、と言ってもいい。


 確かに、これで源士たちが真っ当なチーム体制であり、そこそこのキャリアを積んでいれば、何も悩むことはあるまい。さっさと棄権し、次の試合――より確実なチャンスに向けて英気を養えばよい。


 ……生憎と、そんな、まともなやり方は許されなかったはずだ。


 源士は立ち上がると、確かな足取りでコースに伏した《四式カザン》へと歩み寄った。


 ちらと一見する限り、《四式カザン》はかなりの損傷を帯びて見えた。点灯した衝撃で割れ、あるいは擦過して塗装の擦り切れた外装は、見るからに痛々しい様相を呈している。


 力いっぱい引き起こすと、パラパラと破損した外装の欠片が脱落していった。確かに、損傷はしている。


 だが、所詮外装は外装だ。源士は路上で転倒したままのマシンを力いっぱい立て直すと、使い物にならなくなったFRPの塊を強引に引き剥がした。ひび割れた風防も視界の邪魔でしかないから、拳で叩き割る。軽量化のため、削れるところは限界まで削ったはずの装甲板は、これで更になくなった。あらゆる構成部品が露出して、丸裸となってしまったマシンだが、しかし、その内部におよそ損傷は見当たらず、無傷に見える。


 で、あれば……後は賭けだ。


 こう見えて精密機器をこれでもかと詰め込んで走るマシンである。見た目には問題なくとも、伝送系や制御機構と言った内部的に問題が生じれば、たちまち動かなくなってしまうものだ。まして、一度クラッシュをしたマシンが再始動できる可能性は、実の所そう高くない。


 だから、源士は賭けだと思うことにした。


 もし始動しなければ、自分の命運もそこまでだったと言うだけのこと。


 ……だが、一たび息を吹き返したならば。


源士はゆっくりと、センターコンソールのスタータースイッチを押し込んだ。


 一度、二度……三度目。待ちかねた小刻みな振動が、ハンドルを通じて源士の手を揺すった。


バッテリから供給される電力が駆け巡る。そして、灯の入ったコンソールのモニターに浮かび上がる《KAXAN》の文字。


 源士はほっと一息ついた。


 ひとまず、マシンは動く。戦うことはできるはずだ。


 近くに転がったランスを拾い上げ、更にヘルメットを――


「ちっ、メットはどこだ」


 源士がたった一つ持つ自前の防具。九死に一生を掴み取ることの出来た命の恩人が、どこにもない。


「……ここ」


 声に引かれて振り返る。一人佇む美晴がいた。その手の中には、源士のヘルメットが抱えられている。


「悪いな。どうやら、まだツキはあるらしい」


 ヘルメットに手を伸ばす。その指先が、傷ついた椀型の曲線に触れようとしたとき。


「……っ!」


 美晴が、瞬時飛び退いた。源士の手は、紙一重でヘルメットをすり抜ける。


「……どういうつもりだ?」


 美晴は、苦悶の表情を浮かべている。まるで迷子の幼子の様に頼りなさげに。


 源士は小さく呻いた。


 美晴が引き攣った様に笑う。


「は、ははは……ゴメン。アタシ何やってんだろ……? いつもなら、キミに「戦え」って言えるのに。「元気なら戦え。勝て」って、言えるのに……」


 笑いながら、髪を掻きむしる。その様子は、どこか壊れかけたおもちゃを連想させた。


 彼女は、この期に及んで何を悩んでいる? ……いや、そんなのは明白だ。朴念仁の源士でも分かる。


 あの日、あの時。冷たくなった飯富虎生の傍らで小さくうずくまっていた少女が、今ここに立って考えること。決して想像に難くない。


 どれほど強い心も、硬くした決意も、わずかなひび割れがあれば簡単にそこから瓦解してしまう。そんなひび割れをトラウマと呼ぶのだと、源士は知っている。


 美晴は、意思も強くて聡明だ。およそ槍を振るうだけが取り柄の源士とは違う。チームを率いる器を持った少女。


 それ故に、彼女は心を砕くのか。


 ならば、源士はどうすればいい? それも、分かりきっていることだ。


「飯富虎生は、どんなやつだった?」


 源士はぽつりと問うた。


 それを聞いた美晴はと言えば、ぽかんと口を開けるばかりである。予期せぬ質問に、戸惑っていると見える。


「俺は直接あの男に会ってないから、人と成りはよく知らないんだが……こんな時、飯富虎生ならどうしたと思う?」


「そんなの――」


 言い出して、美晴は言葉に詰まったらしかった。しかし、無理やりと言った具合で、絞り出すように言葉を紡ぎだす。


「強かった。ブラストに自分の全部を突っ込んで、それも惜しくないって言える人だったよ……そのくせ、普段はてんで抜けてて、天然みたいで……あとキミみたいに仏頂面で口下手で……すっっっごく……」


 少女のほっそりとした輪郭に一筋光が流れる。それが、膨らんだ頬、つり上がった口もとに沿って向きを変え、やがて尖った顎からしずくとなって落ちた。


「すっっごく、バカだった!」


 源士でさえも、思わず噴き出した。なんだ、あのおっさん、思ったより威厳がなかったのか? もっとも、慕われていたのは確かだろうが。


「くっ、ははは。バカ……か。だから強かった。だが、だから死んだ。違うか?」


「はぁ、ひっどい物言いよね。でもきっとそう。誰よりも勝ちたいと願ったから……」


 無理をした。その無理が、限界を超えたのだ。


 だが、それはいい。大した問題ではないと源士は思っている。


 問題は、そのバカとどう折り合いをつけるかだ。


「俺は……いや、俺もバカだからな。多分、死ぬときは《ここ》なんだと思う。さっきは無事だった。でも、次は分からない。明日? 明後日? 知るわけがない。そう――」


 源士はまっすぐに美晴を見据えた。


 他人の受け売りの言葉。だが今、美晴に告げようとするこれは、彼が心から理解した、紛れもない源士の言葉。


「いつ死ぬかも知れないから、俺たちには今しかないんだ」


「今しか、ない……」


 美晴は目を大きく見開いた。何度か、その言葉を反芻する。何かを思い返すように、繰り返し、繰り返し呟いた。


 すると、おもむろに深呼吸を始める美晴。わずかな時間、精神統一にも似た所作を繰り返した後、彼女は言った。


「源士、アタシを殴って」


「……はぁ?」


「はぁ? じゃない! 時間がないから早く殴れ! どこでもいいから!」


「いや待て。さっきの流れからどうしてそうなる?」


「つべこべ言わないの! アタシだってそんくらいの覚悟は……ええいまどろっこしい!」


 と、喚きだす美晴。とうとう頭がやられたかとも思ったが、この際である。ままよ、と源士は拳に力をこめた。


 その横面に一発……はやめておこう。言動はああだが、彼女とて腐って女子の片割れである。ならばと、源士は五、六割の力で、身構える美晴の腹に拳を叩き込んだ。腹筋に覆われた部位なら、そこそこ痛みも抑えられるだろうという判断だったが、思いのほか源士の拳は美晴の腹に沈み込んだ。


 ぐぅ、というカエルの潰れる様な声を絞り出して、美晴が腹を抑える。まずい、やり過ぎたか。


「っ~~~~~痛ったいわねもう!」


 叫んだとほぼ同時、そのモーションは神速だった。武道の達人もかくやの身のこなしで源士に接近すると、彼女の右足が大きく跳ね上がった。


「げふぇ!」


 見事。それは、あまりに美しいハイキックであった。美晴のほっそりとした脛が、源士のこめかみを捉えたのである。


 なされるがまま物理衝撃に従って、源士は大きく吹っ飛んだ。またもアスファルトの上を転がってのたうちまわる源士。せっかく生き残ったのに、これで死ぬんじゃないかと言う激痛である。


 が、辛うじて、いや幸いにも、源士は健在であった。あるいは、激痛でモヤモヤした頭がリセットされたような気さえする。


 無茶苦茶な美晴の反撃に半ば呆れつつも、源士は首を振って起き上がる。そこに、美晴からヘルメットが投げ渡された。


「源士、オーダー出すわよ!」


 ずいぶんとすっきりした表情の美晴が、そこに立っていた。ああ、いつもの美晴だ。


「やれやれ、やっとお目覚めか。で、俺はどうすればいい?」


 お互いに笑う。源士は苦笑で、美晴は自信満々の笑みであるが。それは、源士がそうあれと望んだ風景。


 美晴が叫ぶ。


 それは、これまでに聞いたことのない覇気に富んだ声だった。


「元気なら走れ! で、勝て!」

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