2.Ladybird boy (坂田直也)
かくれんぼの〝んぼ〟って、なに。
「坊やの坊じゃないの。隠れるこどもってことで」
中林はこういうこともまじめに答えてくれるから好きです。
「じゃあ、さくらんぼは桜のこどもってこと?」
「じゃないの。あとはあわてんぼうとか、おこりんぼうとか」
「あまえんぼう、とか」
「そうそう。通せんぼ、とか」
「じゃあ、田んぼは?」
「た……」
んぼ。
「あれ? 田んぼってなんだ?」
とたんに迷宮へ入ってしまった中林。横から三谷が「あめんぼもあんぞ」なんて言うからますます謎が増えていきます。世の中には知らないことがたくさんあるね。
「なんで急にそんなこと気になったの?」
中林にそう聞かれて、
「いや、なんとなく」
なんて濁したものの、思いあたる節はありました。たぶん、昨日、那智さんと会ってたから。
那智さんとはまえの学校で助けてもらってそれっきりだったけど、図書館で偶然再会して、それからなかよくなりました。去年の五月頃だったかな、あったかい休日だったのを覚えてる。
午前中、自習室で勉強して、お昼になったので近くのコンビニへ行こうと外へ出たんです。そしたら、駐輪場のまえで高校生っぽい女の子ふたりが、
「さっきの人、やばくない?」
「かわいそー」
「おまえ、外してやれよ」
「えー、やだよぉ」
って、なんだかくすくす笑ってて。でも、そのときはとくに気に留めず、図書館のとなりの公園を横切ってコンビニへ向かいました。
石畳の道沿いにカキツバタが列になって咲いてた。その濃い紫色を眺めながら歩いてたから、まえからやって来るその人の顔を最初はちゃんと見てなかった。すれちがいざま、視界のすみで何かがひらっと揺れた気がして、ふとふりかえって、ドキッとしました。
すらっと高い背丈にまっすぐな黒髪。後ろ姿だけでは女性と見まちがえそうなその人の背中に、ルーズリーフが一枚、セロテープで貼りつけてあった。
ホモ
アタシはオカマです♡
セフレ募集中~!
黒い極太マジックの線に胸を塗りつぶされる。こんなにのどかな初夏の日差しのした、白いシャツに浮かんだその文字だけが現実じゃないみたいに浮きあがって見えた。でも、こういう無邪気な悪意を俺は知ってます。どす黒い液体が返り血のように飛び散って、洗っても洗っても落ちない汚れになって皮膚にしみこんでくんだ。さっきの女子高生が話してたのはこの人のことだったんだな、ってぼんやり思った。
おまえ、外してやれよ。
なにげなく耳に入ったことばが、いまになって後ろから追いかけてくる。かわいそうって思うならさ、外してあげればいいじゃん。気づいてないよ、あの人。下手したら家に帰るまで、ずっとあの紙貼りつけたままだよ。
ああ、嫌だな、って胸のなかがじくじくしました。無邪気な悪意の厄介なところは、周りの他人まで巻きこむこと。うまくいけば感謝される。でも、一歩まちがえたら傷つける。あるいはこっちが傷つけられる。それが怖くて無関係を決めこめば、ちいさな罪悪感がずっとこびりつく。そういう選択をとっさに迫られるのが、すごく嫌だ。
勇気とか、べつに出さなくてもいいよね。って、ちょっと思ったんです。あの紙を外してあげるのはなにも俺じゃなくたっていいよね、って。なのに、その人の歩くさきにたくさん人がいるのを見たとたん、反射的に足が動いてた。
また笑われる。
冷たい水を思いきりかぶったように、頭のなかが凍りついた。菊地は笑われた。僕も笑われた。耳を突き刺すようなあの笑い声を、たとえ相手がだれであれ、僕はもう聞きたくなかったんです。
サッと行ってパッと剥がせばバレないよね、なんて自分に言い聞かせながら、その人をそーっと追いかけました。自慢にならないけど、気配を消すのはうまい方なので。実際、背後まで近づくことができて、ほとんど息をとめたまま、ひらひら揺れるルーズリーフに手を伸ばしました。歩調を合わせながら、セロテープの貼られたところをそっと……剥がせた。剥がせたよ! すごくない? よかったー。改めて見るとほんとひどいなこの落書き。べつに剥がせたからいいんだけどさ。なんて、ほっと一息ついて顔を上げたら――。
めちゃくちゃ目が合ってしまった。
ふりむいたその人は僕と落書きの紙をふしぎそうに交互に見ていて、こうなるともうごまかすしかないから、僕は「あはははははは」なんて笑いながら落書きをぐしゃぐしゃに丸めて後ろにポイしました。必死だったんだよ。
で、むこうもにこっと笑ったもんだから「あ、流されてくれるかも」とか期待したんだけど……まあ、そんなうまくはいかないよね。にっこり笑ったまま、紙を拾われちゃった。
「いや、あの、見ない方が……」
あたふたしてる僕をよそに、その人は丸まったルーズリーフを丁寧に伸ばして、紙面に目を落とした。
「ありがとう。取ってくれたんでしょ? ごめんね、迷惑かけちゃって」
しわだらけの紙を折ってポケットにしまう、その表情があまりにもおだやかなままだから、僕の方がとまどいました。動揺のかけらも見せないなんて、これじゃフォローにも回れないじゃんか。
「中学生? このへんの学校?」
「あ、浅沼中です」
「ああ、おとなりさんだ。俺、絹川中の出身だったから」
ほんのすこし首をかしげて笑った。そのとき、耳たぶの下まで伸びた髪がふらっと揺れるのを見て「この人、頭髪検査ひっかからないのかな」って。ぼんやりそう思ったとたん、急に思い出した。頬に落ちたほそい髪、耳もとでささやかれた「大丈夫」の声、握ってくれた手がじんと温かかったこと。
僕の顔を見て、むこうもなにか思うところがあったみたい。もしかして、ってお互いに言いかけて、でも、やっぱり半信半疑で、なかなか次のことばが出てこなかった。ジョギング中のおばさんが、僕たちの横を怪訝な顔ですり抜けていった。
そのあと、公園のすみっこに移動して、藤棚の下のベンチで話をしました。藤棚はね、僕の隠れ家スポットです。クマンバチが飛んでるからって見ごろの時期でもあまり人が寄ってこないの。クマンバチって大きいわりにおとなしくて、滅多なことでは刺してこないんだけどね。
あのころはまだ、那智さんのこと、君嶋先輩って呼んでました。敬語も使ってたな。いま思うとちょっとくすぐったいです。そのうち敬語がとれて名前で呼ぶようになって、先輩後輩というより、年上の友達みたいな感覚だった。落書きに書いてあったことは、僕のなかで見なかったことにしました。那智さんが奥の方にしまっているそれをあえて引っぱり出すよりも、学校生活のこと、勉強のこと、好きな本や音楽のこと、手近なところに散らばっているそういう話題を拾うだけでも、いっしょにいる時間はあっというまに過ぎていったから。
夏休みに入ると、那智さんと会う機会はますます増えていった。同学年の友達より頻繁に会ってるなんて、自分でもちょっとふしぎでした。たぶん、僕は背伸びしてたんだと思います。ていうか、いまもしてる。小学六年生の冬に病気をしてから、僕の時間は病院の白い部屋のなかで一度とまってしまって、元気になって心機一転、一年遅れで入学した中学は、正直ちょっと居心地が悪かったんです。
「一年の差なんて、長い人生のなかでは誤差みたいなもんよ」
お母さんはそう言って笑ってたし、実際、そのとおりなんだろうとは思います。それでも、こどもの一年の差って、おとなのそれよりけっこう開きがあるんじゃないかな、って。一年生の教室に入ったとき、同級生になったクラスメイトたちが妙に幼く見えた。とくに男子は落ち着きなくてうるさくて……なんて言うと、まるでませた女の子みたいだけど。
そうかと言って、小学校で同級生だった子たちはもう二年生にあがっていて、僕はなにをしたってそこへ追いつくことはできないんですよね。
「あれ、坂田、久しぶりじゃん! 病気治ったの?」
入学してまもなく、小学校のころの同級生と廊下ですれちがった。気さくに声をかけてくれたから、僕も嬉しくて「よっちゃん、久しぶり!」なんて再会を喜んだら、むこうは笑いながら、
「バカ、吉田先輩って呼べよぉ」
そのとき、あ、なんか息苦しいな、って思ってしまったんです。冗談めかしていてもどこか抑えこむような感じがして、実際、学年がちがうんだから仕方ないんだけど、そうか、この子はもう僕のことを「直也」って呼んでランドセル並べて下校した吉田くんではないんだ、ってちょっと悟ってしまった。入院したとき、みんなが色紙に書いてくれた「待ってるからね」を真に受けすぎてたんだな。そりゃあ、以前とまったくおなじようになんて無理なのは分かってます。でも、いままで自分が「友達」と呼んで支えにしていた関係が、なんだか急速に遠のいた気がして。一年なんて誤差の範囲。そのはずなのに、自分が小数点以下の切り捨てられた場所にいるようで、でも、そんなこと言ったら俺がわがままの駄々っ子みたいじゃん、なんて思ったりもして、どうふるまえばいいのか手探りでした。
いまはもう三谷たちと同級生になれてだいぶ気にならなくなったけど、やっぱりふとしたときにその感覚がひょっこり顔を出してしまいます。俺、本当だったら今年、高校生だったのになぁ、みたいなね。けど、那智さんといっしょにいるときはそのズレをすこしだけ埋められる気がして、ほかのだれともちがうその距離感に、僕は……そうだな……甘えてたんです。
夏休みも折り返しにさしかかったころ。その日は図書館が休みだったので、那智さんの部屋に行って勉強してた。ずっと晴れつづきだったのに、昼過ぎからめずらしく小雨が降って、梅雨に逆戻りしたようなしんなりした日でした。
部屋におじゃまするとき、僕は那智さんの本棚のラインナップを見るのが好きで、その日も「読書感想文、なに書こうかな」ってなんとなく本棚を眺めてた。最初は小説や漫画をぱらぱらめくってたんだけど、そのうちCDに興味が移って、ケースを一枚一枚抜き取っては戻してた。
「YUIと鬼束ちひろのあいだにアヴリル・ラヴィーンが挟まってんのすごい違和感」
「アヴリルは翔馬が置いてったやつ。でも、けっこういいよ、明るくて」
「ふうん」
「洋楽は聴く?」
「ちょっとだけ。ビリー・ジョエルとかオアシスとか」
「渋いね」
「叔父さんが持ってたCDだから。イマドキのはあんまり知らないかなぁ」
背中を向けたまま、とりとめのないおしゃべりをしてた。そのうち、床に座ってた那智さんがこっちに近づいてくるのを背中越しに感じた。でも、僕はCDのジャケットや収録曲を見るのに夢中だったから、気にせず会話をつづけてました。
「お、エルレガーデンだ」
「知ってるの?」
「最近、友達に勧められた。あ、ピロウズがある。このアルバム、俺も持ってるよ」
「好き?」
「うん、好き。いいよね、ストレンジカメレオンとか。あ、でも、俺、あれが一番好きだな。別のアルバムのさ、ハイブリッドレイ――」
ンボウ。
って、最後まで言わせてもらえなかった。
足もとで、かしゃん、と音がして、それが自分の手から滑り落ちたCDケースだと気づくのにしばらくかかりました。頬に髪がはらはら落ちて、目のまえに那智さんの長いまつげがあった。柔らかな唇の感触と背骨にあたる本棚の硬さがまるでちぐはぐで、夢と現実がごちゃ混ぜになったみたいだった。でも、首筋に那智さんの手が触れたとき、その手のひらの熱さに急に怖くなって、気づいたら那智さんの胸を思いきり突き飛ばしてた。
「ちょっと、なに?」
自分でも驚くくらい尖った声が出た。風邪をひいたときってさ、熱いのか寒いのか分からなくなるじゃない。その感覚に似ていて、自分の指さきが怒りと恐怖のどちらで震えてるのか判断がつかなかった。そのどちらも結局、すぐに消えちゃったけど。「ごめん」って謝った那智さんの声が、僕の指なんかよりずっと震えてたから。
「ごめん、もう無理。好きだ。ごめん、好きなんだ。ごめん、ごめんなさい……」
背の高い那智さんが糸の切れたあやつり人形みたいに崩れて、フローリングの床に涙がぱたぱた落ちた。ずぶ濡れの声を絞りだして、那智さんは言うんです。ごめんね、せっかく気づかないふりしてくれたのに、触れないでいてくれたのにごめん、裏切ってごめん、って。
裏切るってなんだろう。それを言うなら、僕だって謝らなきゃいけないんだと思う。本当はうすうす気づいてた。触れないでいることがいつだってやさしさになるとは限らない、って。
こころのどこかでずっとひっかかってました。那智さんが高校の友達の話をしないこと、まだ新しかったはずの筆箱や靴が頻繁に買い替えられていること、恋愛の話を避けたがること。でも、そういうちいさな違和感に目をつぶって、あの落書きのことだって気にしてないふりを通して、そうすることが「僕はその手の差別や偏見を持ってない人間です」っていう表明になると思ってた。本当はただ知るのが怖かっただけなんだ。ちゃんと聞いてあげればよかった。うずくまった那智さんに、ほんの一瞬、菊地の姿がかさなりました。二度とおなじ轍は踏まないと誓ったのに、俺はまた大事な人を追いつめちゃったんだな。
壊れた楽器みたいに引きつれた嗚咽が、窓の外の雨音と混ざっていつまでも耳を打った。体を丸めて泣きじゃくりながら、那智さんはたぶん無意識に、僕にむかって腕を伸ばしてきた。
いま、この手を取らなかったら、この人はどうなってしまうんだろう。
あのとき、この手を伸ばしてもらえなかったら、俺はどうなっていたんだろう。
「那智さんの手って、あったかいよね」
弱々しく宙を掻く手を、磁石に吸いよせられるように、そっと握った。手のひらを合わせて、指と指をしっかり組んで、かんたんに離れてしまわないように。
「俺の手、いつも冷たいから、ちょっとうらやましいかも」
膝をついて、いつか自分がしてもらったように背中をさすったら、那智さんはいっそう激しくしゃくりあげて、痛いくらい僕の体を抱きしめた。体温がじんわりと伝わって、なのに、どうしてだろう、まるで冬の川にはだしで入っていくように、こころが静かにかじかんでいく。
「大丈夫だよ。嫌いになってないよ。好きだよ」
もう分かんないよ。自分の声が、まるで窓ガラスに映ったもうひとりの自分がしゃべってるように聞こえて、耳をふさぎたくなりました。こんな無責任なおまじない、吐きたくなかった。だれが聞いてもきれいなことば。ふわふわの泡みたいにやさしいことば。それが、こんなにも冷たくて怖いものだなんて。呪いになったらどうしよう。いつか、手をふりはらうよりもっと残酷な形に歪んでしまったらどうしよう。
それでも、たとえその場しのぎでも、明日が見えなくなるよりはマシだと思ったんです。何度おなじ場面に戻っても、僕はきっとあの手を取ったと思う。ちょっとふしぎな感じ。なにが正しいとか本当とか、そういうのが分からなくても、はっきり答えが出ることもあるんですね。
まあ、結果的になんだか雲をつかむような関係性になっちゃってるけど。ここからどんな方向に進むとしても、あのときの選択だけはまちがってなかった、って、そう信じたい。
「へえ、
中林はこういうことも律儀にケータイで調べてくれます。
「なるほど。じゃあ、トンボは?」
「あなた、よくまぁそんな次から次へと疑問が湧いてくるわね」
「おい、中林、マンボウもあんぞ」
「それはちがうんじゃないの」
週末、CD屋さんに行ってみようかな。新しいもの、なにか見つかるといいな。
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