6.正眼に構えよ(三谷正俊)

 試合場を挟んで向かいあったとき、やっぱりでかいな、と思った。防具をつけているからだろうか、いつかファストフード店で会ったときより大きく見える。でも、その鎧のような巨体に気をとられたのは一瞬だけだ。

 礼をして開始線まで進む。竹刀を抜き、蹲踞。主審の鋭い号令とともに立ちあがり、吠える。俺の声に菊地の咆哮がかさなり、触れあっていた剣先がぐわりと迫った。打ちこまれた面を凌ぐも、強烈な体当たりによろめく。まるで大砲だ。すかさずくりだされた引き面を弾き、構えなおす。

 スポーツの世界じゃよく「恵まれた体格」なんてことばを聞くけれど、こと剣道においては、年齢が上がるほど体格の有利不利は減っていくように思える。それは大会で勝ち進んでいく選手を見ていて感じることだし、なにより俺は身近なところで小柄ながら優秀な剣士を知っている。

 技の応酬がつづく。中心を取ろうと剣先がせめぎあい、はりつめた静寂のなか、互いの竹刀がカシャリと鳴る。ふと面のなかの視界がひらけ、菊地の動きがスロー再生された。それはいつからか試合中にときおり味わうようになった感覚だ。いま、ここから。頭が認識するよりさきに右足が床を強く踏みこむ。握った竹刀は不思議なほど軽く、その切っ先までが自分の一部のように思えた。一秒なんて遅い。視線を、声を、気迫を……すべてを乗せた剣先が、相手の面めがけてまっすぐに伸びていく。


 市民大会の会場で鉢合わせたときはギョッとしたものの、試合を終え、並んで弁当を食い、会場を出るころにはすっかり打ち解けていた。話してみると、菊地幸次郎は剣道好きなふつうの中学生だった。

「まさか三谷くんが大会出てるとは思わなかったな」

「まぁ、道場の先生に声かけられて、急遽な」

 自販機で買ったスポーツドリンクを飲みながら、最寄り駅まで線路沿いを歩く。午後二時過ぎ、日差しの一番強い時分に剣道具一式を担いで歩くのは、試合で消耗した体にはなかなか堪える。菊地も炭酸飲料をぐびぐび飲みながら、「ガラガラ付いた防具入れほしいなぁ」としきりにぼやいている。

「菊地って、なんで剣道始めたの?」

「俺は親父の影響かな。若いころはけっこう活躍したらしくてさ、インターハイにも出たんだと。……三谷くんは?」

「俺は、当時ハマってた漫画のキャラに憧れて」

「え、漫画きっかけ? 意外」

「そうか? 案外そんなもんだべ」

 陽炎のむこうにちいさな駅舎が見えてきた。ひとつしかない改札を抜け、ベンチにどさりと腰かける。屋根の下に入ってしまえばさっきまでの灼熱はうそのようで、緑の匂いのする風が無人のプラットホームを吹きぬけた。

「三谷くんって、高校はどこ行くの? やっぱ私立の強豪? それとも県外?」

 ふいに菊地にそう聞かれた。期待をはらんだ声音に、俺はつぶやくように「分かんねえ」と答えた。

「ちょっとまえまでは強豪校に行きたいと思ってたけど。私立って金かかるべ。うち、妹がいてさ。まだ小一で、最近、習いごとでバレエ始めて。バレエもあれ、けっこうお高いよな。発表会なんかもあるし」

「親に反対されてんの?」

 どこか不服そうな菊地に、いや、と笑って首をふる。

「うちの親は、たぶん、金の心配なんかするなって言ってくれると思う。でも、やっぱ考えちゃうよな。剣道ってほかのスポーツみたいにプロの道があるわけじゃないし。今までどおり道場へ通うだけでも剣道はつづけられるのに、わざわざ強豪校へ行く意味ってなんだろう。試合に勝ちつづけることか? 全国で優勝すること? そういうことを考えるとさ、なんか、つまり……強さとは? みたいな」

「急に話がでかくなったな」

「でも、そういうことだと思うんだよなぁ」

 サイダーの最後の一滴を飲みほすと、菊地は豪快に口もとをぬぐい、「分かんねぇなぁ」とこぼした。

「そんなふうに難しく考えたことなかったわ。そりゃ、剣道って礼儀や精神論にうるさいけど、試合に勝つことが、結果、強いことの証明なんじゃねえの?」

 ひたいからぽたりと汗が落ち、足もとに黒いシミをつくる。「うん、そうかもな」ぽつりと返したとき、遠くから踏切の音が聞こえた。やがて雑木林のあいまから二両編成の電車がことこと現われ、俺たちのまえでプシューッと息を吐いて停まった。


 菊地は二駅目で降りていった。ふたたび動きだした電車に揺られ、俺は高速で過ぎていく青い景色を眺めていた。

 カタンカタン、カタンカタン……

 心地よい振動に自然とまぶたが落ちそうになる。そういえば小学生のころ、坂田とふたり、電車で寝すごしたことがあったっけ。慌てて降りるもそこは見知らぬ駅で、夕日が山のむこうに沈みかけていて、もう帰れないんじゃないかって胸がきゅーっとなった。あのとき、となりに坂田がいてくれたから、本当の心細さを味わわずにすんだ。駅員さんに帰り方を教えてもらい、反対方向の電車に乗りなおすころにはふたりでまた馬鹿みたいに笑ってた。ひとりだったら、たぶん、苦い記憶のまま終わっていたこと。

「剣道は鏡みたいでおもしろい」

 小学生のころ、坂田がそう言ったのを覚えてる。

「自分では怖くないつもりなのに足が一歩下がってたり、体がそれちゃったり。相手を通して自分の弱点が透けて見えるし、逆に相手の気持ちも伝わってくるときがあって、なんか、鏡を見てるみたい。それに、上手い人どうしの試合は、おしゃべりしてるみたいですごいなって思う」

 小学生の剣道なんて子ネズミみたいにすばしっこくて、体格差も大きい。当然、試合にはスピードとパワーのある子どもの方が勝ちやすく、両方で劣る坂田は黒星ばかりだった。なのに、坂田は試合の結果にそれほど固執しない。悔しがりはするし、負けて当然とも思ってなさそうなのに、同時に「おもしろい」なんて言える坂田が、俺には正直、よく分からなかった。

「そりゃあ、正俊とその子では、悔しさの使い道が違うんかもしれんな」

 縁側で将棋を指しながら、じいちゃんはそう言った。

「ここに畑があるとして、正俊にとって悔しさは肥やしだ。牛や豚のクソは置いときゃ臭ぇだけだが、うまく活かせばいい肥やしになるべ。そいつをふっておまえはうめぇ野菜を作る」

「悔しさをバネに、みたいなこと?」

「んだな。一方、その坂田くんって子にとって、悔しさは雑草みたいなもんかもしれねぇな。雑草ってのは放っとくとあっというまにはびこって、育てたい野菜を飲みこんじまう。だがら、じいちゃん、昔は雑草を親の仇みてぇに引ぎ抜いてたけど、いつからか、こいつらにも役割があんだなぁって気づいたんだよ。雑草が根をはると土は柔らかくなる。雑草の葉っぱについた夜露は土を潤す。それからは全部引っこ抜かず、ちょぼちょぼっと残すようにしてんだけど、その加減もまた、難しいんだわ」

 ぱちり、ぱちりと盤のうえの駒を進めながら、じいちゃんは笑った。

「正俊が悔しさをかけ算できる子なら、坂田くんは悔しさの足し算引き算が上手な子だな。机のうえの算数ならかんたんだが、感情の足し引きはこりゃ難しいぞ。根気強ぐねぇとできねえことだな」

「んなこと言ったって、勝ったら嬉しいし、負けたら悔しいべな。勝ちたいから強くなんだべ?」

 じいちゃんはうなずき、

「んだども、正俊は稽古すっとき、なんで道場の神棚に頭下げんだ」

「え、なんでって……そこに神様がいっから?」

「んだなぁ。神様に礼をして、先生に礼をして、それからお仲間にも礼をすっぺ。じいちゃん、あんなぺこぺこ頭下げんの、ほかのスポーツでは見だことねぇなぁ」

「そりゃ、じいちゃん、剣道は武道だから……」

 言いかけて、ハッとした。じいちゃんは盤上に目を落としながら、にやりと笑った。

「その坂田くんって子は、正俊よりちぃっとだけ、道を見でんのかもしんねぇな」

 

 坂田が絹川中の剣道部に一年遅れで入ったと聞いたとき、もとは病気のせいとはいえ、俺はやっぱり嬉しかった。これで三年間、おなじ学年で剣道ができる。いつか試合でぶつかるのを楽しみにしていた。なのに、坂田は中一の二学期から学校へ行けなくなった。

「いい? 剣道の話はしちゃだめだよ」

 母さんに菓子折りの袋を持たされ、俺が坂田の家を訪れたのは九月の終わり。玄関を開けた坂田はなんだかすこし小さくなったように見えた。「背ぇ伸びたね」と言われて、俺が坂田の身長を追い越したんだと気づいた。

 あの日、坂田にギターを弾いてもらった。あいつが楽器を弾けるなんて初めて知った。部屋の隅にひっそり立てかけられたアコースティックギター。なんとなく目をやったら、叔父さんの遺品だと言う。ベージュ色のギターは、坂田が抱えるとだいぶ大きく見えた。

「楽譜読むのは苦手だから、耳で聞いて弾いてる」

 と、なにやら天才じみたことをさらりとぬかしてコードを爪弾きはじめたときは、あいつが傷心の不登校児だということも忘れて「おまえすげぇよ!」と馬鹿みたいに興奮した。流行りの曲から一世代前のヒットソング、小学校で習った合唱曲まで。手探りで音を鳴らす坂田に、俺が歌を乗せる。坂田の音はたどたどしくて、俺は俺でリクエストしておきながら歌詞があやふやで、そのうち俺が思いつく曲をメドレーで熱唱しはじめると、今度は坂田が急にアップテンポにしたりブルースに寄せたりと互いに互いをふりまわす。ふたりで腹がよじれるほど笑った。なんだ、意外と元気じゃん。そう錯覚してしまうくらいに。

「なあ、また道場来いよ。みんないるしさ。塩ジイなんて、坂田はもう来ないのかのう、ってしょっちゅう言ってるぜ」

 さりげなくことばを選んだつもりだった。だけど、俺の塩ジイのモノマネに坂田は口もとだけで笑い、「ごめん」と首をよこにふった。

「……なんで。剣道、嫌いになっちゃった?」

「分かんない。でも、もう、怖い」

「怖いってなんだよ。そりゃ、打たれたら痛ぇし、でかいやつが向かってきたらやっぱビビるけどさ。そんなのいまさらじゃん」

 いま思えば、トンチンカンなことを言ってたんだと分かる。だけど、俺はそのとき、あいつをなんとか繋ぎとめようって、そのことで頭がいっぱいだった。

「べつにさ、話したくないなら話さなくていいよ。ただ、やっぱり俺は坂田と一緒に剣道やりたいんだよ。学校の部活がすべてじゃねえべ。剣道なんて、竹刀と防具があればどこでもできるんだし。な、まだ防具とか持ってるんだろ?」

 返事を待たず、俺は部屋のクローゼットを開けた。坂田がいつもそこに防具一式をしまっていると知っていたから。

「ほら、やっぱり捨ててないじゃん」

 おまえ、やっぱりまだ剣道好きなんじゃん。そうつづけようとふりむいて、なにも言えなくなった。

 坂田の顔がこわばっていた。まるで恐ろしい生き物を見るような目で、黒い防具袋を凝視していた。さっきまでギターを大事に抱えていた腕が、無意識に自分自身の体を守るような仕草を見せた。

「ごめん」

 俺は急いで扉を閉め、剥がしてしまった塗装を上塗りするように何度も謝った。「ごめん。ごめんな。そういうつもりじゃなくて……」ことばではとても埋められなくて、とっさに抱きしめて背中を叩いた。腕のなかで「ううん、大丈夫」と坂田は言った。機械がしゃべってるみたいな、空っぽの声だった。


 あとになって人づてに知った。坂田が受けたのは、剣道の皮をかぶった暴力だった。防具を着けてない部位への打突、危険な突き飛ばしや足払い……。竹刀は一歩まちがえば凶器に変わる。それが分からないやつに剣道をする資格なんてないのに。

「なあ、このまま剣道やめたら、それこそ本当の負けになっちまうぞ」

 俺は坂田を道場に誘いつづけた。どこか意地になっていた。味わってもいない怒りや悔しさをいつのまにか自分のものとはき違えていた。

 だから、頑なだった坂田がひょっこり道場に現われたときは、勝手に自分まで報われたような気がした。俺のおかげとまではいかなくとも、ちょっとは役に立てたのかな、なんて。うぬぼれだ。稽古が始まってすぐ、俺は自分がなにも見ていなかったことを知った。

 坂田の剣風が変わっていた。

 レベルが落ちたわけじゃない。むしろ先生たちには「力強くなった」と褒められてたし、スタミナも筋力もまえより格段についていた。なのに、なんだろう、この違和感は。

 なあ、おまえの足さばき、こんなだったっけ。まるで映像にノイズが入るみたいに、時々引っかかって見えるのは俺だけか。まえはそんな無理な姿勢からは打ってこなかったよな。分かるよ。絹川中の厳しい稽古に必死に食らいついてきたって。分かるけど、おまえいま、だれと戦ってるんだ。なあ、おしゃべりなんだろ、剣道は。俺のことちゃんと見ろよ。鏡なんだろ。なんでそんな、ひとりぼっちみたいな目をしてんだよ。

 ほそい糸が幾筋も絡まって、坂田をがんじがらめにしていた。なんで思いあたらなかったんだろう。あいつを苦しめていたのは、先輩からの暴力だけじゃなかったんだ。

 強豪校は、三年という短い期間、三分という試合時間で常に勝ちをもぎとらなくちゃならない。基本重視のきれいな坂田の剣道は、勝利を優先する絹川中のスタイルとは水が合わなかったはずだ。自分の積みあげてきた剣道が根底から揺らいだ。そのうち傍若無人な不良どものせいで剣道そのものが怖くなってしまった。一年遅れで入学した教室に話せる友達はいただろうか。こころの支えだった叔父さんには悩みを打ち明けられていたか。その叔父さんも、あいつのそばからいなくなってしまった。

 霧を斬るような坂田の瞳のなかに、木偶の坊のように立ちすくむ自分の姿を見た。いつか憧れた漫画のヒーロー。強くて優しい、そうなりたかった。だけど、俺はこいつの役に立てない。親友だろうと、どれだけそばにいようと、そいつの荷物はそいつにしか背負えない。当たり前のそのことに気づくのが怖くて、一緒に戦ってる気になっていた。嫌だったんだ、無力だと思い知らされるのが。俺の頑張りとか想いとか、そういうものとは全然関係ないところで事態は動いていて、腕を引っ張るどころかもう声も届かない。そういう当たり前を、それでも、ほかの誰でもない親友からは突きつけられたくなかったんだ。

 だけど、稽古のあと、俺の横をすりぬけて坂田に歩み寄った人がいた。

「久しぶりじゃのう、坂田。ちょびっとだけ大きゅうなったか」

 仙人みたいな口ひげを撫でながら、塩ジイこと塩手先生は、遠方の孫を出迎える爺さんそのものの笑顔を見せた。

「せっかく来たんじゃ、もすこし相手してくれんか。なに、ちょびっとじゃ、ちょびっと。ジジイはこまかいことまで頭が回らんからの、面打ちだけで勝負しようや。面だけ、な。お手柔らかにの」

 外はとっぷりと暗く、薄雲のかかる夜空におぼろな月が浮かんでいた。門下生がひとりまたひとりと帰っていくなか、道場のかたすみで坂田と塩ジイは剣を構えて向きあった。

 気合の一声を放ち、坂田が面を打つ。走り抜ける坂田をふりかえると、塩ジイは自らの胴をトントンと叩いた。

「抜けんでいい。まっすぐじゃ。まっすぐ飛びこんでこい」

 坂田がもう一度面を打つ。その体を受けとめ、塩ジイは言う。「まっすぐじゃ、まっすぐ打て」「まだ体がそれとるぞ」「ジジイ相手になにを怖がる、そら、もう一本」「深く呼吸しなさい、そうだ、さあ来い」「もう一本、まっすぐ」「まっすぐ」……。

 何度も何度も、塩ジイは坂田に面を打たせた。まるで坂田が剣道を始めたころのように。初心者たちが次々と経験者のグループへ合流していく傍ら、坂田は道場のすみっこでひとり摺り足をくりかえし、素振りをつづけ、塩ジイを相手に面を打っていた。大きくふりかぶる、まっすぐな面を。

 最後に自分の面にしっかり打たせると、塩ジイは終わりの合図に坂田の胴をぽんぽんと叩いた。互いに蹲踞して竹刀を納める。さきに自分の面を取った坂田が塩ジイのもとへ駆けより、正座して礼をする。

「いやあ、楽しいのう」

 手ぬぐいで汗を拭きながら、塩ジイは言った。

「物事っちゅうのはな、小難しいようで案外すんぷるなもんじゃ。すんぷるいずべすと。だが、すんぷるを目指そうとすると、かえってややこしくなってしまう。困ったもんじゃの」

 たいていの子供が「なんのこっちゃ」と首をひねるだろう年寄りの禅問答を、坂田は表情を変えずに聞いていた。

「ただ教えられたとおり、まっすぐ打つ。たったそれだけのことが実はなかなか難しい。雑念や欲、恐れや驕り、剣筋を濁らせるものはいくらでもある。まっすぐ打ちなさい。おまえの剣はまっさらで素直だ。難しく考えんでいい。まっすぐ構えて、まっすぐ打つ。そうすれば当たる。それだけのことじゃ」

 ちいさくうなずいていた坂田の目から、そのとき、ぽろぽろと涙がこぼれだした。坂田が泣いた。試合で負けても、どんな厳しい稽古でも弱音ひとつ吐いたことのなかった坂田が、肩を震わせて紺色の袴のうえに涙を落としていた。

「おお、そうじゃ、それでいい。それでいいんじゃ」

 塩ジイは目を細めながら、声を殺して泣く愛弟子の肩をさすりつづけた。


 ピィッ。

 発車の笛が頭のなかに響いて、ハッとして顔をあげた。電車がごとりと動きだす。遠のいていく駅を慌ててふりかえり、駅名に胸をなでおろした。セーフ、あとひと駅ある。座席に深く座りなおし、ほかの乗客なんてほとんどいないのに、床に置いた防具袋をすこしだけ自分の方へ寄せる。窓の外はだんだんと見慣れた景色に変わっていく。

 強さってなんだ。

 あのときの塩ジイの丸い背中が、俺にそう問いつづけている。

 こんがらがった坂田の糸を塩ジイはたった数分の稽古でするするとほどき、ぴんと一本に張りなおしてしまった。俺が躍起になってほどこうとしてもびくともしなかった固い糸を。でも、塩ジイはきっと、あのしわくちゃの手で糸を解いてやったわけじゃない。ただそばに立って教えただけだ。その糸のほどき方をおまえは知っているはずだ、と。

 電車が停まる。防具袋と竹刀を携え、立ちあがる。ホームへ降りたとき、背中越しにこどもの笑い声を聞いた気がした。さっきまで自分が座っていた座席に、ちんちくりんな道着姿の少年がふたり、肩をぶつけあって笑っている。

 ふりむくと同時に扉が閉まった。電車はゆっくりと動きだし、けれどあっというまに遠ざかっていく。あとには何もかもが夢だったような静けさだけが残って、俺は無人のホームにしばらく立ちつくしていた。線路のむこうで、まっしろな芙蓉の花が風に揺られていた。

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