9.雨降りオペラ (中林豊)

「いい加減にしろよ!」

 その日、三年一組の教室に怒号が響いた。

「いま自習時間なの分かってる? 馬鹿話なら外でやってくれないかな!」

 いそがまたわめいている。めんどくさい。

「あー、磯っち、ごめんごめん」

 おしゃべりをしていた男子たちは、へらへら笑って手を合わせた。小宮山こみやま、福田、金子。背が高くてスポーツが得意、クラスでも目立つタイプのやつら。その「とりあえず謝っておこう」という魂胆ミエミエの顔がかえって磯の逆鱗に触れる。磯は急にはとまれない。

「は? なにその、あいつめんどくさいからとりあえず謝っとけみたいな態度」

 ほら、ごらん! エンジンかかってきたよ。

「え、なに? 俺が悪いの? みんなが勉強してるときにぺちゃくちゃしゃべってるおまえらが悪いんじゃないの? あのさぁ、こっちはマジで瀧高目指してるわけ。俺が落ちたらおまえら責任とれんの?」

 ヒステリックにまくしたてる磯。教室の空気がみるみる尖っていく。「は? なに言ってんのあいつ」相変わらず薄ら笑いを浮かべながら、小宮山たちの目はもう笑っていない。

「てか、この程度の雑音で受験落ちるなら所詮そのレベルなんじゃね?」

「俺らのせいにされましてもー」

「タキコウ目指シテルノ!」

 オウムのような裏声で、似せる気もないモノマネ。教室中に広がる、くすくす笑いとため息。

「もういい。馬鹿が感染うつる」

 真っ赤な顔でそう吐き捨てると、磯は乱暴に椅子を引いて席についた。

 がたん!

 嫌な音。周りの人を誰彼かまわず責める音だ。「マジなんなの、あいつ」やりこめた優越感に浸りながら、小宮山たちは相変わらず教科書を放りだし、ひそひそ話をやめようとはしなかった。

 もとの音量に戻った教室で、頬杖をついて、窓の外を眺める。遠くの空がなりかけの虫歯みたいに黒ずんでいた。音楽室のある北校舎から、ピアノの伴奏と合唱の声が聞こえる。『夢の世界を』。そのかすかな歌声に混じって、カチカチと神経質な音が耳を叩く。磯がシャーペンを鳴らしてるんだ。煮詰まるといつもこれだ。不機嫌オーラ全開で、カチカチ、カチカチ。おまえのその音の方がよっぽどうるさいっての。

 あーあ。教室ってめんどくさい。学校って、集団って、本当にめんどくさい。


「中林、英語の小テスト、何点だった?」

 掃除の時間、昇降口を箒で掃いていたら、粘っこい声が絡みついてきた。磯だ。さすがにもう癇癪玉は治まったらしい。

「八十点」

「やりぃ。俺、九十五」

「へえ。すごいじゃん」

 棒読みのお世辞にも、磯はかんたんにご機嫌になる。

「中林って英語苦手だよね。克服しとかないと瀧高やばいんじゃない?」

「あー、うん。そうね」

 お鼻、高々。今日はいつになく絶好調ですこと。

「剣道部ってまだ活動してるんでしょ? 頑張るねぇ。期末試験まであと二週間しかないのにさ。あ、英語、分かんないとこあれば教えてあげようか」

「いや、大丈夫。姉ちゃんたちに聞くし」

 すげなく断ると、磯は分かりやすく眉を曇らせた。

「姉ちゃんか……。中林の姉ちゃんって、医学部入ったんだよな」

「うん。上の姉ちゃんね」

「どこ大だっけ?」

 東北の国立大学の名前を出したら、磯は「へぇ」と生返事しながら、ますます苦い顔をした。もっと下のレベルの大学名を出してほしかったんだろう。残念ながら、俺はただ事実を言っただけだ。

「じゃあ、中林クリニックは跡継ぎもできて将来安泰なわけだ。羨ましいねぇ」

「どうだか。姉ちゃんだって嫁に行くかもしれないし、下の姉ちゃんは医者になる気ないし、結局、俺に回ってきそう」

 話をあわせながら、うっかりため息をつきそうになる。人と垣根を作りがちな磯が俺にやたらなれなれしいのは、俺が磯とおなじく医者の息子だから。ただそれだけだ。

「や、でもさ、きょうだいが医学部に合格してるならまだマシでしょ」

 右から左に受け流す俺を相手に、磯は熱心にしゃべりつづける。

「うちなんか兄貴が三浪目に突入しちゃってさ。もう家のなかめちゃくちゃ。俺への風当たりも強くってさぁ。瀧高以外許さない、だって。まったく、医者の家なんてろくなもんじゃないよな。レールを敷かれた人生! まるで『車輪の下』だよ。いいよねぇ、自由に進路選べるやつは。勉強しなくても人生否定されない。ちょっと顔と運動神経が良けりゃ女子にきゃーきゃー言われてさ。ま、どうせ就職で苦労するんだろうけど」

「それって小宮山たちのこと?」

 落ち葉を掃きあつめながら、思わず口に出していた。空気がこわばる。おっと、危険地帯。でも、もう言っちゃったしな。

「そんなにうるさかったっけ、あいつら」

「なに、俺の方がうるさかったって言いたいの?」

「いや、べつに」

 そうだけど。

「俺はあんまり気にならなかったから。……あ、坂田」

 視界のすみを小柄な男子が横切った。ラッキー。やかんがピーピー鳴るまえに、俺は通りすがりの坂田に声をかけた。ちょっとわざとらしかったかな。

 満杯のゴミ袋を抱えて、坂田は人懐っこい野良犬みたいに寄ってきた。

「ゴミ出しですか」

「うん。ほしい?」

「いらんわ。あ、そうだ、英語の小テスト何点だった?」

「小テスト? 九十九点」

 けろりと答える坂田。

「すげぇな。ていうか、小テストで九十九点って微妙な点数、なにしたら取れるの?」

「なんかねえ、ハテナつけ忘れたら一点引かれた」

「いや、それ普通に五点減点でしょ」

 ぼそりと磯が言った。ただのひとりごとですよって体の、早口の小声。ぼとっ。だれかに向かって投げないことばは、ただ落下する。足もとに落ちたそれをだれかに拾ってもらいたい。知ってる。でも、俺はそこまで優しくない。

「今日、部活行くでしょ?」

「行く。あ、今日、中林が一年生教える日じゃん」

「そうなのー。坂田センパイ代わって」

「俺、昨日やったもん」

 医者の息子から剣道部の中林クンになった俺のとなりで、磯はしばらく所在なさげに立っていたけど、そのうち「じゃあ、また」とやっぱりひとりごとのように呟いてそそくさと行ってしまった。

 磯の背中をちらりと見送った坂田は、まっさらな笑顔で俺を見あげた。

「なにいじめてたの?」

「人聞きの悪い。いじめてないし」

「中林は、嫌いなやつの首を真綿で絞めるのが好き」

 思わずにやりとしてしまったのは、図星を突かれて焦った証拠。でも、べつに好きなわけじゃない。あなたとはお近づきになりたくないですよ、をオブラートに包んで包んで丁寧に渡してるだけだ。剥きだしの方が親切? やだよ、引き換えに怒りを買うなんて面倒極まりない。どうでもいいやつに割く時間ほどもったいないものはないでしょ。

「坂田、今度、英語教えて」

「えー。教えられるほど得意じゃないよ、俺」

「九十九点の人がなに言ってんの」

「おまえまた背ぇ伸びたな」

「話が飛ぶな。田舎のおばあちゃんか」

 予鈴が鳴る。油売ってる場合じゃなかった、と坂田はゴミ収集所の方へ駆けていった。薄紫のあじさいがぬるい風に揺れている。ひたひたに浸りそうな空から、雨のにおいがした。


 部活終わりの帰り道は、いつも黒川の橋のまえでみんなと別れる。だけど、めずらしいこともあるもんだ。水たまりを跳び越えて、今日は坂田がついてきた。

「どこまで行くの?」

「ケーキ屋さん」

 意外な答えが返ってくる。たしかにこのさきにケーキ屋が一軒あった気がする。

「だれかの誕生日?」

「うん、お姉ちゃんの」

「あれ、坂田ってきょうだいいるっけ」

「うん、いたの」

 うしろから自転車のベルが鳴る。一列になって自転車を通し、俺と坂田はまた肩を並べた。

「べつに暗い話じゃないよ」

 そう前置きして、坂田は話しはじめた。

「俺が生まれるまえ、本当は女の子が生まれてたんだけど、一歳くらいで亡くなったんだって」

「ふうん」

「でも、名前もあるし、家に写真も飾ってあるし。ちいさい頃から、この日になるとお母さんがケーキ買ってきて、ふたりで食べるの。で、今日はお母さんが仕事で遅いから、俺が買ってくる係」

「ふうん……」

 ふしぎな感覚だった。会ったこともない写真のなかの赤ん坊を、親しげにお姉ちゃんと呼ぶ。もうどこにもいない人のためにケーキを買って、おめでとうと祝う。そんなことをもう十五年も、残された家族でつづけている。

「お姉さん、名前、なんて言うの」

「かなえ」

 香る苗で、香苗。ぽつぽつと傘を叩く雨音に、坂田のちょっと照れたような声が混じる。坂田香苗。口のなかで転がしてみる。香苗と直也。

「中林は、お姉さんふたりいるもんね」

「ひとりやろうか。より凶暴なほうを」

「それ、上のお姉さんでしょ」

「そう。弟に生理用品を買いに行かせる姉。弟の部屋にブラとパンツを置き忘れる姉。それを弟に届けさせたあげく理不尽に暴力をふるう姉」

「いいなぁ」

「話聞いてた?」

 通りの角を曲がると、数軒先にケーキ屋の白い看板が見えた。傘をたたみ、扉を押し開ける。からん、と頭の上でベルが鳴る。店には先客がいた。俺たちとおなじ黒い学ラン、猫背ぎみの背中。あれ? あいつ、もしかして……。

「磯?」

 声なんてかけたくなかったけど、おなじ空間にいるんだから仕方ない。磯は丸めた肩をびくりとさせ、こちらをふりむいた。

「中林、なんで」

「なんでって、坂田がケーキ買うっていうから」

 どことなく気まずい俺たちをよそに、坂田はさっそくショーケースを覗きこみ、真剣な面持ちで悩みはじめた。

「……イチゴ乗ってるやつおいしそう」

「そうね」

「でも、チーズケーキも捨てがたいなぁ」

「センパイ、僕、モンブランが食べたいッス」

「買わないよ」

  売り子のおばさんがにこにこしながら、

「いまの季節はこちらがオススメですよ」

 と、フルーツタルトを指さした。メロンにマンゴー、夏みかんがぴかぴか光ってる。優柔不断に悩むと思いきや、坂田は「じゃあ、これ、三つください」とあっさり即決した。

「あ、オペラ……」

 ぽつりと声が聞こえた。となりに並んだ磯が、ガラス越しに一点を見つめている。鳥の羽毛のように舞いあがることば。だれかに拾ってほしいわけじゃない、ほとんど質量のない白いことば。ふわふわと漂うそれを、指先でちょんとつまんでみる。

「なんか、高貴な感じのケーキだね」

「うん……」

 長方形に整えられた重厚なチョコレート、その上でひかえめにかがやく金箔。食い入るように見つめていた磯は、「あの、これ、四つください」とその大人びたケーキを指さした。


 コーヒーの湯気で眼鏡が曇る。気にせず一口飲んだら思ったより酸っぱくて、やっぱり紅茶にすればよかったと思った。ガラスの小瓶から角砂糖をひとつつまむと、「俺もほしい」と坂田の手が横から小瓶をかっさらっていく。テーブルを挟んで、目の前には居心地の悪そうな磯の顔。まさかこの面子でお茶を飲むことになるなんて思ってもみなかった。

 ケーキ屋を出たら、雨はあがるどころか本降りになっていた。傘を持っていないという磯に、どこかで雨宿りしようと提案したのは坂田だ。雨脚に追い立てられて避難したのは、普段は見向きもしない昔ながらの純喫茶。薄明るい照明、上品に流れるジャズ。喫煙できる店なんだろう、かすかにたばこの匂いが漂っている。

「中林、今日は塾ないの?」

 ミルクをたっぷりと入れ、坂田はのんびりコーヒーをすする。

「ないよ。火曜と木曜だけだから」

「ふうん。俺も行った方がいいのかなぁ」

「坂田は必要ないでしょ。……あれ、そういえば、磯は今日、塾ないの?」

 なにげなく尋ねると、磯はふいとうつむき、

「……あるけど、休んだ」

 と、消え入りそうな声で言った。

「今日さ、母さんの誕生日なんだ。兄貴も帰ってくるし」

「へえ。だから、ケーキ」

「うん。あのケーキ、母さん、好きでさ。オペラって名前だったんだな。ケーキ屋なんて自分で入ったことなかったから、知らなかった」

 角砂糖をぽちゃんと落とし、磯はスプーンでコーヒーをかき混ぜた。

「でも、俺んち、いま兄貴と親父が戦争中で、その間に挟まれてるのが母さんでさ」

 ちゃりちゃり、ちゃりちゃり。銀色のスプーンが真っ暗いコーヒーに渦をつくる。かき混ぜてもかき混ぜても、甘い砂糖の塊は溶けてくれない。

「夜中、酒飲んだ親父が母さんを責める声が聞こえるんだ。おまえはあいつを医学部にも入れられないのか、って。布団かぶって、聞こえないふりするんだけどさ。このうえ俺が瀧高に受かれなかったら、もう母さん、おかしくなると思う。兄貴も、会うたび目に光がなくなってくんだ。埼玉の予備校に通ってるんだけどさ、人身事故のニュースとか見ると、ドキッとするよ」

 磯はそこでようやく、持て余していたコーヒーを一口飲んだ。

「ついだれかと比べちゃうんだ。あいつは勉強しなくても許されていいな、あいつはもともと頭良くていいな。くだらないよね。俺だって、勝手に比べられて嫌な思いしたことあるのに。お金持ちでいいよね、とかさ」

「あー、あるある」

 なにげなく相槌を打つと、磯は「な、あるよな?」と前のめりになった。身に覚えのある話だ。俺も医者の家の子だと知れたとたん、同級生に無視されたことがあった。べつにズルして手に入れた金じゃないのに。

 磯はつづける。

「でも、お金ってさ、ないよりある方が絶対いいけど、ありすぎても人を不幸にするよな。親父を見てるとそう思うよ。家に金があるかぎり、親父は兄貴を浪人させつづけられる。エンドレスゲームなんだよ。だれも望んでないゲームを、親父だけが必死になって回してるんだ」

「分かるわー。俺のいとこの家もそんな感じだよ。医者以外人間じゃないくらい思ってそうだもん」

「それが俺の家なんだよぉ」

 重い話をしているのに、磯はなんだか楽しそうだった。俺もなんとなく話せてしまって、気づけば空のコーヒーカップをまえに小一時間経っていた。

 すっかり帰りが遅くなったので、俺は母親に電話して、坂田を車で家まで送ってもらうことにした。

「俺はここでもうちょっと時間つぶしてるよ」

 会計をすませた俺たちに、磯はテーブルから動かずに言った。

「塾サボったのバレたら、また母さんが親父にどやされるから」

 雨はまだやみそうにない。俺は磯に傘を貸した。家までは坂田の傘に入れてもらえばいい。

「お母さん、喜ぶといいね」

 帰り際、坂田が磯にそう声をかけた。磯は照れくさそうにうなずき、ふと顔を上げた。

「そういえば、坂田くんはなんでケーキ買ったの?」

「俺? お父さんの誕生日だから」

 雲ひとつない青空のような顔で、坂田はそう返した。

 水色の傘のなかに、ふたり体を寄せあって歩く。背の高い俺のほうが柄を持ってやる。頭のすぐそばで、雨はバラバラとドラムのように傘を打つ。空はどこまでも真っ白で、夕暮れ時とは思えなかった。

「中林と磯くんは、友達になれるね」

 ケーキの箱を大事に抱えながら、唐突に坂田が言った。

「えー。やだよ、あんな僻みっぽいやつ」

「でも、磯くん、話せて嬉しそうだったよ。中林も」

 認めたくない。けど、そうなのかもしれない。似た境遇、似た悩み。それだけで、人って案外あっさり繋がれてしまうのかもしれない。他がどんなに似ていなくても。

 でも、やっぱり、認めたくない。

「坂田は、嫌いなやつには呼吸するように嘘をつく」

「なに?」

「お父さん、ケーキ、喜ぶといいねぇ」

 反撃のつもりでそう言うと、嘘つきは雨粒みたいな声で笑った。

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