10.未来線ゆめ行き列車 (富士野哲郎)

 さて、富士野は……うーん、国語、がんばろうな。あー、数学もな。それから、英語か。あとは……まぁ、な。

 勉強、きらいか。分かるぞ、先生も中学生のころは大きらいだった。俺は将来プロのサッカー選手になるんだから、数学も国語もなーんも必要ないって思ってた。でもな、スポーツってさ、実は数学とか理科とかすごく関係してるんだ。人に教えるとなると国語力も大事だし、英語ができれば海外の選手のことも知れる。いやまぁ、おまえは一言もスポーツの道に進みたいなんて言ってないけどさ。将来なにをしたいとかあるのか? ……そうかぁ。分かるぞ、先生もおまえくらいのころはなーんも考えてなかった。でも、富士野はさ、せっかく運動神経いいんだから、その能力、先生は活かしてほしいんだよなぁ。体育教師が言うんだからまちがいないぞ。え? 宇梶に言われると逆に不安? おまえも言うなぁ。まぁとにかく、やりたいこととか行きたい高校とか、ちょっとずつ考えてみよう。な。


「って言われてもさぁー!」

 体育館の床に大の字になって、天井めがけて声をはりあげた。タマシイの叫び。渾身の大声を出したって、無表情に並ぶ蛍光灯は一ミリも揺れやしない。開け放った窓からぬるい風とセミの声が流れこんでくる。地獄のテスト期間が終わったのだ。俺が問題用紙とにらめっこしているあいだに、梅雨はどこかへ行ってしまったらしい。

 試験明けの解放感はすさまじかった。いつもはかったるい土曜の稽古も、今日は体がうずうずして体育館に一番乗りしたし、めいっぱい稽古してもまだ疲れてなくて、さっきまで胴着のまま三谷や後輩たちとバスケをしていた。ステージの袖に転がっていた、空気抜けぎみのバスケットボール。ただでさえ稽古で汗だくになったのに、バスケまでやって胴着はもう濡れ雑巾だ。体を動かすってすごい。頭のなかのもやもやが、竹刀やボールを手にしたとたん、跡形もなく消えてしまう。まぁ、運動が終わればまたぼわんって浮きあがってくるんだけど。

「なにが」

 レイアップシュートの練習をしながら、三谷が俺の全力の主張を拾ってくれた。直後、シュッとゴールネットの擦れる音。「ないっしゅー」きゅうちゃんのお気楽な声援がかさなる。いっしょにバスケしてた後輩たちはさきにあがり、体育館には三年生、要するにいつもの五人しか残っていなかった。

「なんでもねぇ」

 うまく説明できる気もしなくて、寝転がったまま投げやりにそう返す。国語力が大事ってこういうことなんだろうか。投げやりついでに、近くに立っていた坂田の袴をバサッとめくってやった。これをやるとみんな強風にあおられてスカートを押さえる女子みたいになるからおもしろい。男の生足がちらっと見えるのはなんもおもしろくないけど。

 反射的に袴を押さえた坂田は、真顔で俺を見下ろした。

「……えっち」

「パンツ何色?」

「いま穿いてない」

「うっそ! え、ノーパン? 坂田ノーパン? うわ、やばっ、おまわりさ」

「おめぇもだべ」

 軽く足蹴される。ぐえっ。潰れたカエルみたいな声を出して、白目をむく俺。「お、死んだ?」中林の声が降ってくる。「世の中が静かになったね」坂田はたまにけっこうひどい。

 二者面談、こいつらはなんて言われたんだろうなぁ。器用に死体を演じながら、俺は友達の輝かしい成績表を勝手に想像する。ふたりともきっと俺とは次元のちがうコメントをもらったんだろうな。いいよなぁ、おなじため息でもこいつらがつかれるのはタンカンのため息、あれ、カンタンだっけ。漢字でどう書くんだっけ。あーあ、こいつらのどっちかと脳みそ交換できたらいいのに。

「腹減ったなぁ」

 もんもんともやのかかる思考に三谷の独り言が飛びこんできて、死体の俺はがばりと起きあがった。交換不可の残念な脳みそも、こういうときは回転が速い。

「マック、行こうぜ!」


 一時間も歩きたくないとごねる中林の背中を押し、「今日のお昼は冷やし中華なんよぉ」と遠回しに断ろうとするきゅうちゃんを引っぱって、炎天下の道をひたすら歩く。先月、オープンしたばかりのマクドナルド。初日から一週間は長蛇の列で、とても入れたもんじゃなかった。この地域にファストフード店ができること自体、奇跡に近いのだ。

「ああもう、坂田にくっついて帰ればよかった」

 燦燦とかがやく太陽を仰ぎ、中林が嘆く。そうそう、坂田のやつ、せっかくみんなで初マックしようと思ったのに「ごめん、図書館行くから」と言ってさっさと帰ってしまったのだ。テストが終わったそばからまた勉強するなんて、イカれてるにもほどがある。

「ガリ勉め」

「おまえが勉強しなさすぎなんだよ」

 こっそりつぶやいたつもりだったのに、中林がご丁寧に反応した。

「うるせえ、医者の息子」

「それは言うな」

「いいよなー、最初っから夢持ってるやつは」

 ぐいーっと猫みたいに伸びをしてそうぼやくと、中林は、

「べつに、夢じゃねえし」

 と、ぼそりと言った。

「夢って、こうなりたいって自分で強く願うもんでしょ。俺はただ、親が医者だから自分もそうなるんだろうなぁっていう、ぼんやりしたものだもん。とりあえず目のまえにレールっぽいものが敷いてあるだけっていうか」

「なんだよ。そんなの、似たようなもんじゃん」

 ゼータクだな、と思った。ぼんやりだろうがふんわりだろうが、未来へ伸びる道が見えてるなんてありがたい話じゃないか。俺にはレールどころか簡単な標識さえ立ってない。どの方角へ行けばいいのか、このさきになにがあるのか、見当もつかない。

 ヘッ。将来有望なやつの意見なんか参考にならねーや。俺は、今度はまえを歩くきゅうちゃんの背中をつっついた。

「なあなあ、きゅうちゃんは将来の夢とかあるの?」

「えー、僕ー?」

 ふりむいたきゅうちゃんは細い垂れ目をいっそう細める。

「まだなんも決めとらんよ」

 意外だ。進学校を目指してるくらいだから、てっきりなにか夢があるんだと思ってた。俺がそう言うと、きゅちゃんは「うーん、どうじゃろ」と首を傾げ、

「夢がないけん、勉強しとるんかもね」

 なんだそれ。怪訝な顔をした俺に、きゅうちゃんはまたうーんと唸り、それから口をひらいた。

「勉強って、こんなんいつ使うん? って思うものばっかじゃろ。扇形の面積を求めよ、とか」

これには俺だけでなく三谷も中林も力強くうなずく。

「分かる。このときのノブオの気持ちを選べ、とか」

「光合成の仕組み、とか。俺ら植物じゃねえし」

「百人一首も全部覚えさせられたけど全部忘れたわ」

「がははは!」

 おのれの体たらくを笑いとばす俺たち。きゅうちゃんもいっしょになって笑い、けど、ひとしきり笑ったあと、

「ほやけど、遠い将来には使わんでも、ちょっと先の受験には使うんよね」

 と言った。

 イチョウ並木のした、木漏れ日が俺たちをまだら模様にする。だれかがまだ硬い銀杏を踏んで、足もとでパキッと音がはじけた。

「勉強って、切符みたいなもんやと思うんよ。駅に着いたら改札機に吸われて、それでおしまい。ほんで、また切符買って、分からんけど電車に乗って、そのくりかえし。でも、そのうち景色が変わるかもしれんし、路線が増えるかもしれん。ここに行ってみたいゆう場所が見つかるかもしれん。そのとき切符を持っとらんかったら、なんで買うとかんかったんやろって後悔せん?」

 後悔はしとうないんよ。

 青いイチョウの葉っぱの散ちらばる道に、きゅうちゃんの声が落ちる。夏のはじまりの風が、一瞬、まぼろしみたいに吹きぬけた。

「ええ高校行って、ええ大学出て、ええとこに就職したとしてな、そういう人生をつまらん言う人もおるけど、僕はそんな尖ったこと言えん。そやかて、ええとこに入ればええ思いできるとも信じとらん。分からんよ。なにが役に立ってなにが無駄とか、未来のことなんてなんも分からん。ほやけん、分からんからとりあえず勉強するんやないかな。どうなっても後悔せんように」

「……」

「……って、じいちゃんが言うとった」

「なんだよ、受け売りかよー」

 おれはことさら大きい声で、きゅうちゃんのひょろ長い背中をばしばし叩いた。三谷も便乗して、「かっけぇこと言いやがって」とおかっぱ頭をぐりぐりする。ひゃー、と悲鳴をあげるきゅうちゃんに、ちょっとだけほっとして、だけど、なんだろう、ちょっとだけひりひりした。

 だって、俺、頭よくないし。家は金持ちじゃないし。才能もないし。地位とか名誉とか興味ないし。べつに期待されてないし。そもそもそういうキャラじゃないし。

 ……で?

 ないものを並べると、安心する。こんなになにもないんだ、試さなくてもどうせ結果は見えてるだろう。そのはずなのに、他人の持ちものがいつだって気になるのはなんでだ。きゅうちゃんはもう切符を使って何駅も先に進んでいる。借り物のことばだろうが、自分の胸にしっかり抱えて。動かない理由ばかりせっせとあつめてる俺とはちがう。ちがう、そういうことじゃない。分かってるんだ。あいつは俺とはちがうって、だれかと比べることに意味なんかない。分かってるんだけど……。

「あっちぃなー。まだ着かないの?」

 肩にずしりとのしかかるのは、照りつける太陽か罪悪感か。いや、どっちでもない。これは溶けたアイスクリームみたいになってる中林だ。

「走るか。三十分で着くぞ」

 初夏の日差しをものともしない三谷が、自転車を押しながら鬼のような提案をした。そんなの、乗らない選択肢なんかない。

「勝ったやつがチャリな!」

 気合い充分にじゃんけんをして、最初に自転車を勝ち取ったのはきゅうちゃん。十分走ってまたじゃんけんし、次は俺の勝ち、その次は三谷、なんてやっているうちに、青空を背にして黄色いMのマークが見えてきた。連続負け越しの中林が自転車をやけくそで追いぬいていく。もちろん、俺だってダッシュした。やっぱり動くって気持ちいい。全身の筋肉を動かすと余計なものが次々とふり落とされて、体がどんどん軽くなる。

 自動ドアが開いたとたん、天国みたいな風が俺たちを迎えた。冷房の効いた店のなかは、昼時をすこし過ぎたからか、それともオープンから一か月経って地元民の熱も収まったのか、思ったほど混んでいなかった。奥のテーブルを陣取り、さっそくレジへむかう。セット頼んじゃおうかな。でもあんまり金ないんだよな。レジ上のメニュー表と薄っぺらい財布のなかを交互に見比べていたら、おなじレジの列に並びかけた客とぶつかりそうになった。

「あ、すんません」

 相手に軽く頭を下げる。ジャージ姿の大柄な男子だった。俺たちのように部活帰りだろうか。

「いえ、こっちこそ。さき、どうぞ」

「いや、いいっす、俺まだ決まってないんで」

 そっすか、と言って、そいつは俺のまえに並んだ。レジ上のメニューが白いジャージに隠れる。本当にでかい。高校生かな。でも、白地に黄色の二本線、このジャージ、どっかで見たことあるような……。

 バーガーとポテトを山ほどトレイに積んで、そいつは去っていった。あの図体を維持するには食う量も尋常じゃないらしい。呆気にとられながら、俺もセットにしっかり百円バーガーを追加する。会計を済ませ(キビシイ出費だった)、レジの横で商品を待っていると、中林がこそっと耳打ちした。

「あの人、絹川中だったね」

「……あ!」 

 おもわずふりかえったものの、もうヤツの姿はどこにもなかった。どうりで見覚えがあったわけだ。

「ジャージに書いてあったじゃん、KINUKAWAって」

 こいつはまたいらんことを言う。

「俺、英語できねぇもん」

「あのね、富士野くん、アルファベット」

「うるさいですぅ、アルファベットも英語ですぅ、シェイクしか頼まない人に言われたくないですぅ」

 中林を小突きながら、ふと思った。あのジャージ、坂田も着てたんだな。頭のなかで坂田に着せてみる。変な感じ。なんか、全然似あわない。

 テーブルへ戻ると、三谷ときゅうちゃんはさきに席についてポテトをかじっていた。座りついでに俺も三谷のポテトを一本かっさらう。

「おい、窃盗だぞ」

「あれ、きゅうちゃん、サラダしか食わないの?」

「冷やし中華が待っとるけん、お腹すかせとかんと」

「マジかよ、佐藤家の冷やし中華ってそんなにうまいんけ」

「おい、無視すんな。一本返せ」

「さ、いただきまーす」

 横から伸びる三谷の手を強引に肘でガードし、バーガーにがぶりとかじりついた、そのときだった。

「あの、すいません」

 テーブルに影がぬっと落ちた。バーガーに食いついたままふりむくと、目の前に白い布地と黄色のラインがあった。視線を上へ向ける。照明をさえぎって、さっきレジにいたジャージの男が立っていた。太い眉、尖った鷲鼻、白地に黄色の二本線。

「浅沼中の三谷くんですよね?」

 胃にずしんと響くような低い声音。中途半端にポテトをつまんだ姿勢で固まっている三谷に、そいつは亀が首をすぼめるように、どうも、とおじぎをした。

「絹川中の、菊地幸次郎きくちこうじろうです」

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