4.first light(坂田直也)
『君嶋那智くんへ
きみが教室に来られなくなってから、三年一組は話しあいをかさねました。君嶋くんはクラスの大切な仲間です。みんながこの問題を自分ごととして受けとめ、きみのことを理解しよう、受け入れようとしてくれています。どうか安心して教室に戻ってきてください。――吉澤より』
那智さんの部屋で、僕はひとり、冊子をひらいた。冷房が効きすぎてる気がして電源を切った。閉めきった窓のむこうで、救急車のサイレンが通りすぎていった。
最初のページには、いくつかのアンケート結果が円グラフでまとめられてました。『LGBTということばを知っていますか?』とか『これまでにLGBTの人に会ったことはありますか?』とか、そんなようなやつ。
それから、グループディスカッションの内容がつづられていた。
A班
『僕たちは同性愛に賛成します。異性でも同性でも、人を愛することはすばらしいことだからです。誰かを好きになるのは人間として当たり前のことで、差別するのはおかしなことです。だから、ひとりで悩まないで、もっと僕たちを頼ってほしい。ひどいことを言う人ばかりじゃないと知ってほしいです』
B班
『同性を好きになるのは自由だと思います。でも、変な目で見られたり体を触られたりしたら怖いな、と普通の人ならどうしても思うと思います。そこはこちらの気持ちも分かってほしいです。お互いに歩み寄ることが大切だと思うので、着替えや風呂を別にするなど、その都度話しあって解決するべきだと思います』
C班
『私たちは同性愛を認めます。日本では有名な武将が同性愛者だったという説もあるし、今の日本でどうして認められていないのか不思議です。世界には同性愛者を死刑にする国もあると知り、ひどいなと感じました。そういう国に比べたら、日本はかん容な国だと思います。同性で結婚できないなど不便なこともあるだろうけど、みんなで助けあって一歩一歩進んでいけたら良いと思います』
D班
『僕たちは、同性愛は正しいと思います。同性愛は生物学的にまちがっていると言う人もいるけれど、自然界では同性で愛しあったり子育てしたりする動物も発見されています。たしかに同性愛者は子孫を残せませんが、動物の世界でも、たとえばアリやハチは女王しか卵を産まないので、全員が必ず子孫を残すわけではありません。また、人間だって子供を作れない体の人もいるし、作らない人もいます。そういう人も捨てられた赤ちゃんを引き取ったり、子育て中の人の分まで働いたりして社会の役に立っています。だから、同性愛者の人にもちゃんと存在意義があると思います』
喉の奥がツンとかゆくなって、空咳が出た。ミツバチが小刻みに羽を震わせるような、風邪のまえぶれみたいな寒気がした。エアコンで体が冷えたのかも。もしかして本当に風邪ひいたかな。なんて思って、でも、そんなんじゃないことはちゃんと知ってる。
なんだろう。ああ、なんだろうな。ぐっしょり濡れた靴下を履きつづけてるような、この気持ち悪さは。
最後はひとりひとりの感想やメッセージでした。
『僕がおなじ立場だったら怖くて打ち明けられないと思うので、君嶋くんは勇気があって強いなと思いました』
『最近ではテレビにもオネエタレントとかふつうに出てるし、べつにふつうのことだと思う。堂々としていればいいんじゃないかな』
『きっと今まですごく苦しかったよね。つらかったね。気づいてあげられなくてごめんなさい』
『みんなちがってみんないい!』
『正直、自分はまだ受け入れられないけど、そういう人をすこしでも救ってあげられる社会になったらいいなと思う』
『同性の人を好きになれるって、こころがすごく純粋なんだね。君嶋くんの恋を応援させてください』
『考えすぎなくていいと思う。将来、女の人を好きになれるかもしれないし、そうじゃなくてもあなたなりの幸せがきっと見つかるよ』
『同性愛に偏見はないけど、治せるなら治した方がいいと思う。他の人よりつらい道を進むなんてつらすぎる』
『ぶっちゃけBL好きだし、むしろ大歓迎です! 恋バナ聞かせて!』
『ゲイの友達がいたら楽しいだろうなと思っていたので、君嶋くんのことを知れて嬉しかったです。改めて友達になってください』
『男・女らしさとか気にしなくていいじゃん。ありのままのあなたでいいんだよ』
『キモいとか言ってごめん。打ち明けてくれてありがとう。どんな君嶋でも俺は受け入れるよ』
「こんなの……」
ひとりでに声が漏れた。
もし那智さんに出会ってなかったら、僕もきっと同じようなことを書いたんだろうと思います。励ましたくて、守りたくて、傷つけたくなくて、悪気なく、優しく笑って。けど、いまの俺にはもう分かってしまう。
こんなの、本人不在の欠席裁判だ。
階段をのぼる足音がして、那智さんが部屋のドアを開けた。
「おまたせ。カルピスでいい?」
「うん。ありがと」
受け取ったコップをそのまま口に運んだ。乾ききった喉に甘いカルピスをどくどく流しこんだら、無意識にため息が出た。
「読んだ?」
「うん、まあ」
「そう」
えびせんをしゃくしゃくかじりながら、那智さんは、
「馬鹿にしてるよね」
と、つぶやいた。
「俺、あのあと一週間くらい学校行くのやめたんだ。あんなぐちゃぐちゃな教室にいるの、地獄じゃん、ふつうに。そしたら、ヨッピーが家に来たわけ。うちのリビングに座ってさ、いつもの無駄に深刻ぶった、戦ってます、みたいな顔して、その冊子を差しだしたの。俺と母さんのまえに」
「え、それって……」
びっくりして顔をあげたら、那智さんは冷たい目で笑った。
「クラス全員にこんなの書かせる人だもん。そりゃ、アウティングなんて概念もないよ」
――君嶋、みんなを許してやってほしい。だれひとり、おまえを傷つけるつもりはなかった。俺も教師でありながら、人知れず苦しんでいるマイノリティの声なき声に気づいてやれなかった。自分の不甲斐なさに愕然とし、己の不勉強を恥じた。
「ヨッピーが蒔いた種なんじゃないの?」
「俺もそれ、喉まで出かかったよ」
――残念ながら、この国のマイノリティに対する理解はまだ発展途上だ。それは事実であり、現実だ。その部分については君嶋にも了承してほしい。それでも、俺たちは歩み寄ることをあきらめちゃいけない。せめてもの対応として、いや、むしろこれを良いきっかけとして、俺はみんなにLGBTについて学んでもらおうと思った。
「いや、まずあんたが学べよ」
「おまえ今日ツッコミ冴えてるね」
「え、だってそうでしょ」
なに勝手にあわよくばみたいな方向に持ってこうとしてんだよ。ヨッピーってかわいいのあだ名だけだな。
――君嶋、これはおまえにとってもいいチャンスじゃないか。この機会を利用して、みんなにおまえのことを知ってもらおう。ぜひクラスでLGBTとしての体験を話してくれ。それから、そう、再来月には弁論大会があるな。あの場を借りて、全校生徒のまえでぜひ思いをぶつけてくれ。君嶋が安心して学校に通えるなら、先生、なんだってするよ。すでにほかの先生にも理解を促すよう頼んであるし、保健の授業でLGBTを扱ってはどうかという意見も出ている。みんな、おまえの味方だ。ワンフォーオール、オールフォーワン! な? あとはおまえが一歩踏み出す勇気を持てば……。
――ぴゅいぃぃぃ……。
「っていう音がきこえたんだ。細い、甲高い音が。あれ、お湯沸かしてたかな、って台所をふりかえったけど、やかんが鳴ってるわけじゃなかった。俺のとなりに座る、母さんの口から漏れ出た音だった」
背後を仰いで、那智さんは「あ、エアコン、消したんだね」となにげなく言った。
「ちょっと寒かったから。つける?」
「ううん、いいよ。窓、開けていい?」
かすかな風に混じって車の音や鳥の声が流れこんでくる。那智さんはそのまま窓枠に手をかけ、ぼんやり外を見つめていた。
「これを理解と言うのなら、拒絶された方がよっぽどマシだと思った」
白いレースカーテンがふわっとまきあがって、一瞬、那智さんの上半身を覆い隠した。
「馬鹿にする、ってふたつ意味があると思うんだ。けなすって意味と、もうひとつ、文字通りお馬鹿さんにしちゃうって意味。相手にも知能と感情があって、べつにぼーっと生きてるわけじゃない。そういうことを忘れたとき、人は人を馬鹿にするんだと思う」
那智さんの声は日に焼けた古い本みたいだった。その静かな声音に、ああ、これはこの人のなかで何度も開けては閉じてきたことなんだな、と思った。
「なにを頼れって言うんだろう」
風がまたひとつ、ページをめくる。
「頼らないのは信用してないから。そのことにどうして思い至らないんだろう。見てるんだよ、こっちも。おまえらが日頃、なにを言ってどんな顔してるか。いくら授業でお行儀のいい言葉を並べても、本音はその時間の外にあふれてる」
うすい膜が一枚一枚剥がれるように、ちいさな綿毛がひとつまたひとつと風に乗って飛ぶように、ことばは那智さんの喉を通りぬけて、俺の耳に流れてくる。
「人間がひとり、ただそこにいる。そのことにどうしていちいち理由づけしないと気がすまないんだ。生物学的にどうの、役に立つの立たないの……知らねえよ。おまえらが認めなくても受け入れなくても、俺はここにいる。ここにいるんだよ。俺が生きてる理由をなんでおまえらが決めるんだ。俺はLGBTっていう名前の生き物じゃないし、水槽の金魚みたいに非力な存在でもない。おまえらが期待してるほど頭もこころも弱くない。LGBTの人、マイノリティの人……そんなラベルを貼りつけて、自分の理解できる範疇に押しこめて、俺を簡単にしないでくれ。見てるんだよ、聞いてるんだよ。おまえらにとっては机のうえのお勉強でも、俺にとってはそれが日常なんだ。昨日も明日も、毎日ずっと、このこころと体で生きていくんだよ」
――マイアサウラって、宇宙に行った恐竜なんだって。
レースに透けた陽のひかりに、コウタくんの声がよみがえった。コウタくんのベッドは病室の窓側にあったから、話すときはいつも後ろに木と空が見えた。
――死んだら天国に行くとか、生まれ変わるとか、いろんなセツがあるけどさ、僕は死んだらお星さまになる、ってのが一番好きだな。天国に行くより宇宙へ行きたい。だって楽しそうじゃん。宇宙のなかを、ぷかぷか、ゆらゆら、気の向くままにさ。それで、いろんな星を見たり、宇宙人に会ったりするんだ。そしたら一生飽きないよ、天国にいるよりさ。
いいね、楽しそう。そんな返事をしながら、あのとき僕は、それは怖くてさびしいことだとも思ってました。宇宙探検はしてみたいけど、ちゃんと地球に帰ってきたい。自分のいた星が見えなくなったら、きっと心細くなる。
僕にとっての地球は、あの頃、机に飾った色紙だった。病室で迎えた春、さきに中学へ上がるクラスメイト全員が書いてくれたメッセージ。僕は素直に嬉しくて、同時にほんのすこし、でもはっきりと、思ったんだ。小学校にほとんど通えず、たまに行ってもお客さま扱いで、色紙を書いてくれる友達もできなかったコウタくんはかわいそう。自分はコウタくんよりは恵まれてる、って。
なんの悪気もなく、そう思ったんだ。
でも、コウタくんはたぶん、そんなこと感じてなかったと思う。だってコウタくんにはコウタくんの世界があって、そのなかでいつも笑ってたから。そして、色紙はいっときの支えにはなったけど、待ってると言ってくれた友達は結局待ってなかったし、世界は俺の事情なんかおかまいなしにまわりつづけたから。
色とりどりの花が咲き乱れ、だれもが幸福に笑ってる。そんな優しくて退屈な天国に行くより、広大な宇宙をさまよう星くずのひとつになりたい。永遠そのものみたいな暗闇のなかで、きこえる声に耳をすませて、点滅するひかりに手をふりかえす。ああ、いいね、楽しそう。いま、こころの底からちゃんとそう思う。コウタくんに会いたいな。あのときの会話をやり直すことはできないけど、本当はこう思ってて、だけど今はそうじゃないんだ、って。たったそれだけのことを、どうしてこんなに伝えたくなるんだろう。
「那智さん、よく教室に戻ろうと思ったね」
冊子に目を落としてそう言ったら、那智さんはようやくふりかえった。
「坂田直也っていう一年生が転校したって聞いたから」
「え?」
「あの子はどうなっただろうってずっと気になってた。ヨッピーに聞いてみたら……」
――ああ、彼? 転校したらしいよ。横田くん。え、坂田? そんな名前だっけ? いやあ、先生たちもね、なんとか立ち直ってもらおうと手は尽くしたんだけど、本人がどうしても来たくないって言うんじゃ、なあ? そんなことより君嶋、クラスのみんなへの正式なカミングアウト、検討してみてくれよ。お母さんには……俺から、そう、俺からなんとか言っとくからさ。
「どうして踏まれた方がいなくなるんだろうな」
窓枠にもたれかかって、那智さんは俺を見つめてた。その目のなかにあの日の俺が映ってる気がした。
「踏まれたら痛い。当たり前の話だ。なのに、痛いよって声をあげたり、耐えられずに逃げたりすると、敏感だ、繊細だ、傷つきやすいってまるでこっちの感じ方が特殊みたいに処理される。本当にそうか? 他人を踏んでも気づかない、そっちが鈍感なだけじゃないのか。踏まれた人間は、それで、どこへ行くんだ。教室から消えて、学校から消えて、その次は? でも、そんなこと踏んだ方は気にも留めない。ひとりいなくなった世界で、消えた人間の名前すら忘れて生きていく。何事もなかったように。だったら俺は消えてやらない。語ってもやらない。俺はおまえらの道徳の教材にも感動の道具にもならない。そう決めた」
ま、だけどさ。
ふっと息をついて、那智さんは窓辺を離れ、となりに戻ってきた。
「まえにキョンちゃんが、人生はトンネルのくりかえしだって言ってて、だとしたら俺はいまトンネルの真っただ中にいるわけで、出口もよく見えない。けど、暗闇にはけっこう目が慣れてきた気がするんだ。足もともまえより見えるようになってきたし、尖った石ころを踏む感覚もちょっとずつ分かってきた。天井は真っ暗だけど、そこに星や怪獣を思い浮かべたら、ちょっと楽しい」
「怪獣?」
「やらなかった? ちいさいとき。夜、寝るまえの部屋の天井って、なんか見えるじゃん」
「あ、分かる。見える。俺も見てた」
お互いの記憶がつながったみたいで何度もうなずいたら、那智さんはおかしそうに笑った。口もとを握りこぶしで隠す、俺の好きな笑い方だった。
「この暗闇は怖くて不安で厄介なことばっかだけど、でも、きっと俺を守ってくれる。起きたことは忘れられないし、簡単には水に流せないよ。それでも、ヨッピーの暴走がなければ、あの教室のみんなとも卒業までなかよくやれてたかもな、とか、本当はなかよくしたかったな、とか……いや、どうだろ、うまく言えないな。でも、まあ、少しずつ過去にしていける気はするんだ。何が変わったわけでもないけどね。それで、気づいたら、芳根さんに自然と話せてた」
「芳根さんは、なんて返してきたの?」
那智さんは、うーん、とすこし考えてから、
「なんか、直也に似てた」
「俺?」
「あら、それは……ってしばらく止まっちゃって、そんで、出てきたことばが……」
――ごめんなさい。とくにコメントが浮かばないわ。
「えー、俺、そんなだったぁ? CD眺めてたらいきなりキスされて号泣された記憶しかないんだけど」
「それは本当に申し訳ないと思ってる」
「よく考えたら、あれって実は法に触れる行い……」
「ごめん、本当にごめんなさい」
「まあ、べつにいいけど」
いや、いいことはないけど。あんまり詰めるのもかわいそうなので、脇に置いとくことにしました。
「あのとき、直也もさ、実質ノーコメントだったでしょう。なんか、手があったかいとか冷たいとかどうでもいい話して」
「どうでもいい言うな」
「それでよかったんだ。俺の場合は」
那智さんの長い指が、頬にかかる髪をそっと耳にかけなおす。
「たぶんね、なにをしてくれるかより、なにをしないでくれるかなんだ。直也は俺を簡単にしないでくれた。ことばに直さないでくれた。それだけで嬉しかった」
俺の手からそっと冊子を抜きとって、「そんな顔しなくていいよ」と那智さんは笑った。
結局、花火大会はそれぞれ学校の友達と行って、最後にふたりで合流して一緒に帰ることになりました。
家に帰ってから、犬の散歩に行って、勉強して、晩ご飯食べて、また勉強して、お風呂入って……すこし眩しい電気スタンドのしたで、いま、これを書きながら、考えてる。
あの日、僕は那智さんとおなじ宇宙船に乗ったけど、この宇宙船は、いつかそう遠くない未来、別々に切り離れる。そんな予感がなんとなくするんです。それはきっと怖くてさびしいことで、だけどたぶんアンハッピーではなくて、ただコウタくんの憧れた、たったひとりの宇宙探索になるってだけのことなんだと思う。
そのときが来たら、もしそのときが来たらね、俺は胸をはって、いってきます、って笑っていたいです。
いってきます、いってらっしゃい、どうか気をつけて。
なんだろう、俺もうまく言葉にできないな。でも、ひとりでも進んでいける気がする。だって、もう出会ったことは変わらないから。このさき何がどうなっても、あの日はずっと動かずに自分のなかにあるから。
それだけあれば、大丈夫でしょ。
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