同性愛のことは、よく分からない。分からないけど、
1.ダイヤモンド (富士野哲郎)
漫画やドラマの主人公になりたいって、みんな一度は考えると思うんだ。俺なんかしょっちゅう考えてる。授業そっちのけでさ。それでよく先生に怒られるけど。
頭のなかの俺の人生はそりゃあもう不幸で、親が死んだり、町が燃えたり、やばい組織に追われたり、でも最後には全部かっこよく乗り越えて、
だけどさ、波乱万丈の人生にひとしきり盛りあがったあと、ふと足もとを見るとある願いごとが残り火みたいに揺れていて、それに気づいたら最後、俺は空想で人を殺すよりよっぽどうしろめたい気持ちになる。その燃えかすの感情はたぶん口に出しちゃいけないもので、なによりそんな願いが生まれる時点で、ショセンおまえは主人公の器じゃないぜってだれかが俺に耳打ちしてくる。
この願いごと、みんなは持ってないのかな。持っててほしいよ。こんなふうに期待するのもずるいけど、俺だけじゃないって分かったら、ちょっとは許された気になれるから。
「中林はさぁ、高校どこ受けんの?」
待ちぼうけの時間があんまりひまだったから、俺は同じくとなりでひまをもてあましている
「
眼鏡の奥の眠そうな目をちらりとも動かさず、中林はさらっと県内一の進学校の名前を挙げた。県立
「富士野は?」
「俺? 行けるとこ」
「あるの?」
「ひっでえ! きゅうちゃん、いまの聞いた? ひどくない?」
俺は部室にいるもうひとりの剣道部員を巻きこんだ。
「ほうやねぇ」
と、ふやけそうな訛りでにこにこしている。愛媛から引っ越してきてもう五年くらい経つのに、きゅうちゃんのイントネーションは未だに四国を離れない。でも、だれもかれもイモみたいなしゃべりをする北関東の田舎の学校で、このいかにも温暖な地域らしい話し方はみんなから愛されている。
「きゅうちゃんもタキコー受けるの?」
「そのつもりやけど、まだ迷っとるんよ」
「きゅうちゃんのそのオカッパはどこで切ってもらってんの?」
「うん? 原宿バーバー」
「どこそこ、東京?」
「ううん、うちの近所」
げらげら笑ったら、中林に「富士野、うるさい」と肘で小突かれた。毛糸で遊んでるやつに言われたくない。
俺の馬鹿笑いをさえぎるように、そのとき、部室のドアが勢いよく開いた。
「悪い、待たせた」
おうおう、遅れて登場とはヒーロー気取りか。
「遅れてすまん。セミの抜け殻を見てた」
「セミ? 三谷、虫嫌いじゃねえんけ」
「いや、俺じゃなくて坂田が」
三谷が親指で後ろを指さすと、細っこい体がすっと現れた。「いたのかよ!」と大げさにのけぞる俺のまえをすすすっと横切り、まるで最初からそこにいたみたいな顔で床に座ったのは、坂田直也。こう見えて正真正銘、うちの剣道部のナンバー2だ。
こう見えてっていうのは、坂田は外見がいかにも弱そうだから。身長はチビな俺とそう変わらないのに、全体的に細いせいか俺よりちいさく見える。腕なんて竹刀を振っただけで折れそうだし、声はさらさらしててよく聞き逃すし、風が吹いたら簡単に飛んでっちゃいそう。なのに、どういうわけか剣道は強い。こいつが自分よりはるかにガタイのいいやつを打ち負かすのを、俺たちは何度も目にしてきた。まあ、吹っ飛ばされるのもおなじくらい見てきたけど。
ふしぎなのは、見た目も中身も正反対の三谷と坂田がいつもコンビみたいにつるんでること。小学生のとき同じ道場に通ってたって聞いたけど、それを差し引いてもこいつらには他の友達とはちがう信頼関係がある。
いまだって、そう。
俺たち三年生は八月には剣道部を引退する。で、新しい部長と副部長を決めるためこうして集まったわけだけど、部長候補には
「
三谷が副部長候補の二年生の印象をまとめる。
「ブッチーでいいんじゃない?」
中林が岩渕を推した。いつのまにか坂田が加わって、ふたりあやとりになっている。
「山野井と仲がいいならさ、上手くやるんじゃないの。あいつら、幼なじみなんでしょ? おまえと坂田みたいなもんだべ」
「僕もそう思うなぁ」
きゅうちゃんがうなずく。
「岩渕くん、一年生の面倒よぉ見とるやろ。優しくていいんやないかなぁ」
俺もだいたい同じ意見だったから、このまま岩渕が副部長で決まりかと思ったんだけど、なにが引っかかるのか三谷はあーとかうーとか唸りながら椅子をゆらゆらさせていた。
お、この流れは。
俺はピンときたね。宙を睨んでいた三谷は、おもむろに視線を移して、
「坂田はどう思う?」
そら、予感的中。決断に困るとき、三谷が無意識に頼るのは必ず坂田だ。
きょとんと三谷を見つめかえした坂田は、中林の差しだすダイヤ型の糸の両端をちょんちょんとつまみながら、言った。
「ブッチーは、山野井とそんなに仲良くないよ」
「うそだべ!」
俺たちはこぞって身を乗りだした。衝撃発言だ。後輩をよく見ている三谷でさえ、切れ長の目をまんまるにして、
「なんでそれを早く言わねぇんだよ」
「だれにも言うなって言われてたから」
「いつ」
「合宿のとき」
坂田は「まあ、いま言っちゃったけど」なんてさらりとぬかし、中林の指から糸を抜きとった。
「仲良くないっていうか、ブッチーが我慢して仲良くしてるだけ。山野井ってちょっと強引なところあるでしょ。あんまりくっつけすぎると、ブッチーがパンクするかもしんない」
「はあー」
俺たちが微塵も気づかなかった人間模様を今日の晩飯の話でもするように淡々と明かす坂田。
「じゃあ、原は?」
三谷はもはや占い師に人生を尋ねるような顔をしている。
「原ちゃんはちょうどいい子だよ」
「ちょうどいい子?」
いい子じゃなくて? ふしぎな言い方をした坂田は、指にかけた赤い糸が中林の指へ移っていくのを眺めながら、
「原ちゃんは、剣道も勉強も人間関係も、いつも真ん中あたりを波のように漂ってるふつうの子」
事実なんだろうがもうすこしオブラートに包んでやってほしい。
「いつも真ん中にいるから周りがよく見えて、自然とバランスを取ろうとする。稽古や試合を見てるとそう思うよ。まえに出るタイプじゃないけど、言うときは言うんじゃないかな」
「ははぁー」
腕を組んで、三谷はまたゆらりゆらり椅子を揺らす。
「我が強くもなく、気が弱くもない、ちょうどいい子か」
壁の時計の秒針が急にコチコチ響いて聞こえた。天井を睨みながら、たぶんいま、三谷はこれまでの後輩の言動を思い起こしてる。俺もそういえばという出来事がいくつも浮かんだ。なんだかだまし絵を見てるみたいだ。こんな見方もあると言われると、いままで見ていた絵がまるでちがって見えてくる。
「よし」
椅子をがたりと鳴らし、三谷が決断した。
「したっけ、副部長は原にすっぺ」
「んだな」
「んだ」
全員、異議なーし。会議はおだやかに幕を下ろしたってわけ。それにしても、坂田の一言でこんなにあっさり流れが変わるなんて。当の坂田をちらりと見れば、結論の出た話題にはもうなんの興味もないって顔で、中林に「ねえねえ、ダイヤモンドやって」なんてせっついていた。
西日がそろそろ帰れって言うように窓から射しこんで、俺たちは部室を出た。なま暖かい風が肘の頭をさわっとなでて、なんだかむずがゆかった。グラウンドに野球部の声と金属音が響く。第二体育館で練習してるのは女子バレー部か。ふと、部活を引退したらこうして五人で帰ることもなくなるのかな、なんて思った。でも、口に出したら本当になってしまいそうで、俺はくあーっと大きなあくびをひとつして、すぐそこの未来をごまかした。
銀行の角できゅうちゃんと別れ、橋のまえで中林と別れ、そのあとは田んぼと畑ばかりの道を二十分くらい歩きつづける。二十分っていうのは俺の通学時間で、三谷と坂田はもっとかかる。通学距離が二キロ以上ある三谷はチャリ通。一番遠いのは坂田で、それもそのはず、坂田んちは、実はとなりの学区にある。
坂田が浅沼中に来たのは一年生の十月。となり町の学校から転校してきた。まぬけな俺は「へえ、
「中一の秋なんてハンパな時期にとなりの学校から移ってくる理由なんて、ひとつしかねぇべ」
そんなこと思いつきもしなかった。だって、坂田は全然いじめられるようなタイプじゃなかったから。チビなのもおとなしいのも不利な要素かもしれないけど、坂田はそれをカバーできるくらい人当たりがよくて、勉強もできて、話すとけっこうおもしろい。意外とよく笑うし、ふざけたりもするし、かといって俺みたいに余計なことをぽろっとこぼしてだれかを傷つけたりしない。ちょうどいい子。坂田こそお手本みたいなちょうどいい子だ。
坂田のことは転校してしばらくうわさになった。俺はべつのクラスだったけど、大して仲良くもないクラスメイトが「剣道部に坂田ってやついるよね」とそのときだけすり寄ってきて、色々聞かれたり、聞かされたりした。
坂田は、本当なら学年が俺たちのひとつ上なんだって。これは本人も隠してなくて、学生手帳を見せてもらったらたしかに生まれ年が俺たちより一年前だった。理由を聞いたら、
「小学六年生の終わりに病気して、中学デビューが完全に出遅れたから」
と、あっさり教えてくれた。
いじめがあったのは部活内だったらしい。上級生にガラの悪いのがいて、タバコの火を押しつけられたとか「いやいや、さすがに話盛ってるでしょ」って思うような内容だった。実際、俺は信じなかったよ。相手がいくらやばいやつでも、坂田がやられっぱなしで逃げるはずないと思ってたから。
だけど、ある日の稽古のあと、いつものように馬鹿笑いしながら部室で着替えてたとき、俺はふと坂田のわき腹に薄茶色の痕があるのを見てしまって、ああ本当なんだなって、そのときなぜかすごくどうしようもない気持ちになった。食べるものがないのに胃液がだらだら出てとまらないような、イライラすればいいのか、嘆けばいいのか、それとも知らないふりをすればいいのか、すぐに目をそらしてつまんないギャグをとばしたけど、肋骨の浮きでた白い皮膚にちいさな痕はまるで雪野原に咲いた花みたいで、頭のすみっこにこびりついて消えなかった。
「なあなあ、三谷は高校どこ受けんの?」
「俺は剣道の強い学校へ行きたいから、親がいいって言えば私立かな」
「ふうん、坂田は?」
「うーん……瀧高」
「坂田もかよ。みんな頭よくていいなぁ」
「富士野は?」
「俺? ふふ、行けるとこ」
「あるの?」
「え、デジャブ?」
坂田に真顔で言われるとグサッとくるわー。なんつって、オーバーに胸を押さえる俺。デジャブなんて言葉よく知ってたなと茶化す三谷。坂田のカラッとした笑い声。いつものパターン、いつもの帰り道。飽きもせずにくりかえされて、だからこれからもずっとつづくんじゃないかって期待してしまう、三人で歩く夕暮れの時間。
だけど今日は、ちょっとちがった。
「直也?」
背後から声がして、俺たちは足をとめた。ふりかえると数メートル先に夕焼けを背にしてだれかが立っていた。夕日に染まったワイシャツ、見覚えのある縞柄のネクタイ、肩に提げた学生かばん。高校生だ。同じ制服を駅前で見たことがあった。低い声と高い身長で男だと分かったけど、くせのないまっすぐな髪を顎のあたりまで伸ばしていて、顔だけ見れば女みたいだった。表情は、笑ってたかな、逆光でよく見えなかった。とにかく、ちょっと空気がとまっちゃったよね。高校生なんて、俺たちにとっては別世界の存在だもん。
「あ、なちさん」
人ちがいじゃないかとびびってる俺のとなりで、坂田があっけらかんと返事をした。その横顔がなんだかいつもとちがう感じで、なんて言うのかな、もともと童顔だけどもっと幼くて手放しな笑い顔で、俺はますますびびった。
「知りあい?」
こっそり耳打ちすると、
「うん。まえの中学の先輩」
高校生は俺と三谷に会釈して、でも俺があわててお辞儀を返したときにはもう坂田しか見てなくて、
「いま帰り? 本屋寄るんだけど、一緒に行かない?」
「あー……」
言いよどんだ坂田に、
「じゃあ、また明日な」
三谷がけろりと笑って歩きだした。さすが主将、空気を読むってこういうことか。俺も三谷にならい、「じゃあな!」と坂田の肩をわざと乱暴に叩いてやった。
「ごめんね」
「いいって。バイバイ」
「うん、バイバイ」
お互いに手をふって別れる。イレギュラーな出来事に俺は興奮してた。
「すげえな、坂田、高校生と仲いいなんて」
「俺らも来年には高校生だけどな」
「なんか、見たことない笑顔だったな」
「そうか? いつもあれくらい笑うぞ」
三谷は淡々としてる。でも、俺は友達の知らない顔を発見するたび、全身をサワサワ感が駆けめぐってしょうがなくなる。全然そんなつもりじゃないときにちょっとエッチな本を見つけちゃったような、道端で動物の死骸に出くわしたような、あわてて目をそらしてもやっぱり気になってまじまじ見てしまう、そんな感じ。
「ほんとはひとつ上だから、高校生とも馬があうのかな」
なにげなくそう呟くと、
「関係ねぇべ」
三谷はなんとなく煩わしそうな顔をした。
「いまは中三で、俺たちの同級生だろ」
それはそうだけど。
そうなんだけどさ、ときどき、坂田は俺たちとガラス一枚隔てたところにいるような顔をする。俺が考えもつかない難しいことを両手いっぱい抱えて、そのひとつひとつをガラスの向こう側で静かに分別してるような。それってきっと、病気やいじめの経験のせいなんだろうなって、たとえ本人に「それは関係ない」って言われても、俺はそう思わずにはいられない。
きゅうちゃんもそうだ。
きゅうちゃんの親父さんは闘病してる。愛媛から引っ越してきたのも、親父さんの療養のためだって聞いた。
一度、親父さんが試合を観にきたことがあった。おふくろさんに車椅子を押されて、二階席から手をふる親父さんはずっとにこにこしていて、すごく優しそうだった。おしゃれなニット帽をかぶってて、病人って感じはあんまりしなかったな。
でも、親父さんそっくりの笑顔で手をふりかえしていたきゅうちゃんが、観客席にくるりと背を向けたとたん別人みたいな表情になって、それは泣くのも笑うのも全部むりやり皮膚のしたに押しこめてしまったような顔で、俺は、親父さんがもう命をぎゅっとつかまれて逃げられないんだってこと、言葉で聞かなくても気づいてしまった。
うらやましい。
こんなこと思っちゃいけないのは分かってるよ。フキンシンだよな。人の困難をうらやむなんて、不幸を願うよりひどいかもしれない。
だけどさ、俺にはどうしたってできない顔を友達が見せるとき、そんな顔をさせるものが俺にもあったらなって思っちゃうんだ。同じ分だけ生きてるのに俺はなんにも持ってないから、たとえ重い荷物だとしても、なにかを持ってるやつがダイヤの原石みたいにひかって見える。このからっぽの手にもなにかあれば、漫画の主人公とまではいかなくても、いまの「つまんない俺」の殻を脱げるかもしれない、もっと人の気持ちが分かって、優しくできて、だれかの役に立てるかもしれない、そんなことを思うんだ。
「なあなあ、昨日の
汚い願いごとをスニーカーのかかとで揉み消して、俺は話題をいま人気の青春ドラマに出てくる若手女優に切り替えた。
「富士野、悪いけど俺はななこちゃん派だ」
「えー、絶対あすみんだって。ななこは胸がでかいだけだべ」
「だけってなんだ、そこが一番大事だろうが」
雲の上の女の子たちについて好き勝手言いあいながら、ふと後ろをふりむくと空は橙色にとっぷり染まっていて、山の向こうへ沈んでいく夕日に思わず目を細めた。
坂田と高校生はまだ立ちどまったまま、顔を寄せあってなにか話している。あれだけ身長差があると話すのにもいちいち顔を近づけなきゃならないんだな。さっきの笑顔をもう一度だけ見たくて目を凝らしたけど、燃えるような夕焼けがふたりの体を黒く塗りつぶして、もう表情も分からなかった。
田んぼのうえを細くて首の長い鳥が悠々と飛んでいった。まえを向くとこっちの空はまだ青くて、それだけで別世界みたいだった。
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