12.大地を行く(三谷正俊)

 昼飯を早めに食い終わってしまい、腹ごなしになんとなく体育館のなかをぶらついた。県内で一番大きいアリーナは、どこを見ても道着姿の中学生たちでひしめきあっている。

 二日に渡る県大会が終わった。正確にはまだ午後に女子団体戦が残ってるけど、浅沼中から出場はない。昨日、男子団体戦は二回戦、女子個人戦は川真田が初戦で敗退。今日の男子個人戦では、坂田が二回戦、俺が四回戦で敗退した。同時に俺たち三年生は、この大会をもって引退する。

 体育館を出て、適当に敷地内を歩いた。東側に大きな広場、西側には陸上競技場がある。青葉を揺らす桜並木の向こうで、広場中央の噴水が高くしぶきを上げている。春には花見客でにぎわう場所だけど、いまは人もまばらだ。ついさっきまで騒々しい体育館のなかにいたからか、その静けさがいつになくここちよかった。

 日差しを避け、木のしたの斜面に腰を下ろす。木陰はひんやりと涼しくて、手のひらの芝生の感触がこそばゆい。そのまま数分おきに湧きあがる噴水をぼんやり眺めた。水の粒が草木のにおいと混じりあい、鼻に流れこむ。晴れてよかったな、と思った。

「見っけ」

 ぽんと肩を叩かれる。ふりむかなくても声で坂田だと分かった。

「もう、全然帰ってこないから探した」

「わりぃ」

 俺が立ちあがるより早く、坂田はとなりにすとんと座った。午後の開始時刻までまだ余裕があったので、俺もなんとなく座りなおした。

「終わっちゃったね」

「んだな」

「最後、惜しかったね、三谷」

「あの相面あいめん? まあ、あれは俺が攻めきれてなかったから……。それより、おまえの方が消化不良じゃねえんけ」

 きょとんとする坂田に、俺は「こういうこと、あんま言いたくないけど」と頭を掻く。

「主審、ちょっと相手に旗が緩かったと思うぞ。おまえの相手、優勝候補の強豪校で、有名な高段位の先生の息子だったからな」

 坂田が「んふふ」と苦笑いする。どうやら思うところがなかったわけじゃないらしい。

 剣道の審判は、たぶん他のスポーツより難しい。ゴールに球が入れば一点、みたいな分かりやすいルールじゃない。気、剣、体が一致して初めて有効打突。ただ打突部位に当てればいいわけではなく、気勢に満ち、剣筋や体捌きが伴っていなければ一本にならない。たとえ同時に技を打ったとしても、気合の声が小さかったり、打ちが弱かったり、姿勢が崩れていたりするとそちらに旗は上がらない。

 要するに、けっこう抽象的なんだ。実力に差がない者同士の試合ほど、判定に迷う曖昧なシーンは多くなる。だからこそ主審ひとりに副審ふたりがつく三審制なわけだけど、それでもたまに誤審はあるし、人間だから主観も入る。選手や学校のネームバリューに引っぱられて片方に旗が甘くなるという場面は俺も見たことがあるし、それで悔し涙を流したことも、逆に胸をなでおろしたこともある。

 そういうものだと思って、俺は剣道を続けている。基本的には審判を信用していて、その判定にケチをつけること自体、礼儀を欠く行為だと思ってる。結局はだれがどう見ても圧倒的な一本を打てるようになればいい。それだけの話だ。

 ただ、そうは言っても、明らかな誤審や偏りが全くないわけじゃない。ひたむきに努力を重ねるほど、舞台が大きくなるほど、納得のいかない判定は禍根を残す。たった一度の理不尽に、ひどく傷ついて剣を置いてしまう人もいる。

 もっとも、坂田は疑惑の判定なんてどこ吹く風のようで、

「出小手はきれいに決まったから、いいや」

 と、のんきに空を仰いでいる。こいつは昔からそうだ。坂田にとってなにより大切なのは、勝敗よりも自分の剣道をやりきることなんだろう。

「ま、おまえの仇は三回戦で絹川の“戦車くん”が取ってくれたしな」

仙田せんだくんね」

「迫力あるよなぁ、あいつ。俺も戦ってみたかった」

「打ちめっちゃ重いよ。小手なんか手首もげるかと思うもん」

「でも、動きはちょっと遅いよな。打ってからの溜めが長いっていうか」

「抜けてからふりかえるまでがゆっくりだよね」

「まあ、戦車くんだもんなぁ」

「仙田くんね」

 大きく伸びをして、坂田はそのまま芝生に寝転がった。

「いいチームだったよね」

 白い道着に木漏れ日が落ちる。坂田の紺色の道着もおなじようにまだら模様に染まっている。

「そうだな」

 いいチームだった。

 先鋒の富士野は切り込み隊長としていつもチームの士気を上げてくれた。次鋒のきゅうちゃんは間合いやタイミングの測り方が上手くて、意外と肝の据わった戦い方で周囲を湧かせた。中林は駆け引き上手で、中堅として冷静に試合のバランスを取ってくれた。

 そして、俺のまえにはいつも副将の坂田がいた。

 団体戦の場合、最速でチームの勝敗が決まるのは中堅戦だ。でも、たいていは取って取られてをくりひろげ、勝負の行方はさまざまな戦況で副将戦にもつれこむ。副将の役割は、前三人の成績をすべて引き受け、どんな戦況でも必ず大将に繋ぐこと。たとえ崖っぷちでも、焦らず、粘り強く、自分をコントロールしながら一本をもぎ取りに行かなきゃならない。

 そう、“繋ぐ”。

 個人戦では妙に落ち着いてしまう坂田が、団体戦になるとがらりと雰囲気を変えるのは、繋ぐ仲間がいるからだ。燃えさかる業火とはちがう。青い炎が面越しの瞳に揺らめいている。

 ――大将に勝負は託さない。俺がここで決める。

 ――まだ火は消えてない。ここで絶やしてたまるか。

 ――絶対に大将へ繋ぐ。俺が繋げば、三谷が決めてくれる。

 試合中の坂田の背中は、ふだんしゃべるよりずっと雄弁だった。坂田だけじゃない。いつもおちゃらけてる富士野も、弱気になりがちなきゅうちゃんも、どこか冷めた感じの中林も、肩を並べて白線に立てば、まっさらな本心をさらけ出してくる。

 単純に強い順で二年生を入れることも考えた。でも、それぞれの能力と性格、それらが合わさったときの信頼関係を考えて、地区大会からこの五人でチームを固めた。三年生だから花を持たせてもらったわけじゃない。思い出作りに来たわけでもない。胸を張って言える。俺たちは間違いなく、今年の浅沼中のベストメンバーだった。

「三谷は、どこ行くの」

 ふいにそう聞かれた。となりに目をやると、坂田は静かな目で俺を見ていた。

「高校」

「ああ、俺は……」

 言いよどんで、乾いた笑いがもれる。べつにおかしいことなんかない。ただ、優柔不断な自分を笑ってごまかしたかった。

「最近、ちょっと迷ってんだ。まえは単純に強豪校へ行きたいって思ってたんだけど……」

 ひたいの汗をぬぐう。空はペンキで塗ったように真っ青で、浮かぶ雲までまぶしくて、かえって胸苦しくなるようだった。

「坂田はさ、強さってなんだと思う?」

「強さ?」

 何度目かの噴水が上がる。聞きかえす坂田の声が水の音とかさなり、カエデの葉の透きとおった緑に吸いこまれていく。

「菊地はさ、試合で勝つことが強さの証明だって言うんだ」

「なんでいま、菊地が出てくんのさ」

「いや、こないだの市民大会で偶然会って、ちょっとなかよくなったというか……おい、しょっぱい顔すんな」

 坂田の立てた膝小僧をかるく小突き、俺は話をつづけた。

「菊地んちって、剣道一家なんだな。お父さん、高校も大学もスポーツ推薦で強豪校行って、インハイにも出たって言ってた。菊地も強豪校で剣道つづけるつもりで、なんなら県外に越境入学も考えてるらしい」

「ふうん」

「でも、俺はさ……」

 考えがまとまらない。ただでさえまとまっていないのに、ことばにするともっとこんがらがってしまう。それでも、いまはひとつひとつをそのまま並べるしかない。

「俺は、剣道、好きだよ。一生つづけたい。もっと強くなりたいし、たくさん試合もしたい。なのに、どうしても地に足がついちまって……なんていうか、飛ぶのが怖いのかもしれない」

 生いしげる木々の葉が明るすぎて、目を細めた。坂田はだまって俺のことばに耳を傾けている。

「私立に行くならそれなりに金もかかる。勉強だって、俺はとくべつ頭のデキがいいわけじゃないから、なおさら手は抜きたくない。じいちゃんとの約束でもあるんだ、勉強がんばるってのは。うちのじいちゃん、ほんとはもっと勉強したかったけど、戦争あって、きょうだい食わせるのに必死で、戦後は農家を継ぐのでせいいっぱいだったから」

 小学生のころ、壊れたラジオをじいちゃんが直してくれた。こまかな部品をていねいに分解しながら、「じいちゃんな、こういう仕事がしたかったんだよ」とすこし照れ臭そうに笑っていた。

「もし強豪校へ行って、結局どれも中途半端になったら、俺にはなにが残るんだろう、って。けど、菊地を見てると、それって根性なしの言い訳じゃないのか、強豪の稽古を経験しないで強くなったって言えんのか、とも思えてくる。実際、強いのに強豪行かないのはもったいないって言われることもあるし、文武両道でがんばってる人もたくさんいるだろうし……」

 結論にたどり着かないまま、ことばが切れる。長い沈黙が流れた。あんまり長いので寝てるのかととなりを見たら、坂田は首をひねってなにか考えていた。

 目をしばたたかせたあと、坂田はようやく口をひらいた。

「三谷の“強くなりたい”は、剣道の強さなの? それとも、人間的な強さなの?」

「……あ、そっか」

「うん。そう」

 灯台下暗しとでもいうのか。なんでいままで気づかなかったんだろう。そうだった。強さにもいろいろあるんだ。

「剣道の強さにしたって、ひとつではないじゃん。競技剣道だけを言うなら、単純に試合で勝った方が強いっていう菊地の考えも正解だと思うし、その点、強豪校の稽古では勝つ方法をみっちり教えてくれる。強豪でしか味わえない空気はあるよ。俺は半年だけでも絹川で稽古できてよかったと思ってる」

 意外なことばを聞いた。あんなに苦しんでいたはずなのに、無駄じゃなかったと坂田は言いきる。

「でも、強いなら強豪校に行くべきだ、とは思わないな。強豪にはバケモノみたいなやつがごろごろいて、稽古も中学とはレベルがちがう。三年間、一度も試合に出られず終わるかもしれないし、勉強と両立できなくて苦しむかもしれない」

 坂田はそこでことばを切り、それから、シャボン玉を吹くみたいに言った。

「俺は、三谷がずっと剣道を好きでいられるなら、どこ行ってもいいと思うよ」

 陽だまりに溶けてしまいそうな声だった。それなのにたしかに胸が震えた。ああ、そうだ。好きなことを嫌いになるのは驚くほどかんたんで、そのことを坂田はよく知っている。

「剣士の数だけ剣道があって、目指す強さがある。塩手先生はそう言ってたし、俺もそうだと思う。菊地がやたら三谷にかまうのも、あいつだって本当は試合に勝つだけが強さじゃないって気づいてるからじゃないかな」

「どういう意味だ」

 怪訝な顔をする俺に、坂田も怪訝な顔を返してきた。

「おまえはそうやって平然としてるけどさ、弱小に落ちた剣道部を二年ちょっとで県大会出場まで立て直したんだよ。でこぼこの荒れた土地を一から耕して、売り物にできるくらいおいしい野菜を作ったの。それって強くなきゃできないことだべ。初めから環境の整った強豪校で稽古するのとは全然ちがう」

「それは……」

 ことばに詰まる。とまどう俺にかまわず、坂田はつづける。

「どっちがすごいとか、そういう話じゃないんだ。強豪校で腐らず努力して、レギュラーにまで登りつめた菊地はまちがいなく強い。でも、もし菊地が浅沼中の剣道部に入ってたら、たぶん今日、ここにはいなかったんじゃないかな。俺だって三谷がいなければこんなにがんばってなかったし。みんなそうだよ。三谷だからついて行こうと思えて、そうやってここまで一緒に来たんだ」

「買いかぶりすぎだべ。俺はただ、仲間に恵まれてただけだ」

「そうやって天狗にならず周りに感謝できるのも強い」

「やめろ、照れんだろうが」

 本当に顔が熱くなるのを感じて、俺は坂田の膝をぐらぐら揺すった。坂田は揺さぶられるまま「んははは」と気のぬけた声で笑った。

 ギェーイ、ギェーイと濁った声がして、噴水のうえを鳥が横切った。オナガだ。俺は鳥には詳しくないけど、いつかばあちゃんが畑近くの木で群れているのを指さして「尾が長いからオナガだ」と教えてくれた。灰色と青の優雅な姿なのに、声はひどくしわがれていて衝撃的だったのを覚えてる。

「おまえは迷うな」

 ふいに背中をおもいきり叩かれた。「イテッ」と声をあげてふりむくと、木漏れ日を映した坂田の目とぶつかった。

「いや、迷ってもいい」

「どっちだよ」

「迷ってもいい。けど、他人にひっぱられんな。だいたい菊地は剣道エリートの家で育ってきたんだから、見てる世界も目指す場所もおまえとちがって当たり前」

「そりゃ、まあ……そうだな」

 しぶしぶうなずく。改めて考えてみれば、俺と菊地の共通点なんて「剣道の実力が同程度」くらいしかないんだ。

 青葉のかげにずいぶん隠れていたらしい。一羽また一羽と仲間を追って飛んでいく鳥たちを眺めながら、坂田は言った。

「飛ぶも飛ばないも、羽があって飛べるやつなんかひと握りじゃん。地に足がつくなら、地面を踏みしめて歩けばいい。それでおもしろい景色が見られたら、羽がなくても問題ねぇべな」

 今度は胸にすとんと落ちた。

 俺はそう強くない。あらゆる面で凡人の域を出ないし、弱い部分の方がきっと多い。坂田だってたぶんそうだ。けど、ぽっきり折れてあっけなく風に飛ばされても、落ちた地面にまた根をはって、また上を向いて笑っている。

 飛べなくていい。

 問題ない。

「あー、ほら、やっぱミイラ取りがミイラになってた」

 うしろから知った声がした。ふりむくと、中林が袴に手をつっこんで俺たちを見下ろしていた。

「レッドとブルーが抜けがけデートってか。やだやだ、部内の風紀が乱れるね」

 見つかっちゃった、と舌を出して、坂田が勢いよく体を起こす。

「女子の試合、もう始まる?」

「あと五分もねえわよ。もー、絶対こうなると思った。時計を見なさいよ、あんたたちは」

「ホタルちゃん、こわぁい」

「こわぁいじゃないっつの。こんなに草くっつけて、もー」

 坂田の背中についた芝生を中林が乱暴に払い落としてやる。そういえば、坂田は菊地から鍔止めを返してもらったんだろうか。尋ねようか迷ったけれど、俺が詮索することでもないと思い直し、立ちあがって袴の土埃を払った。

「三谷、ビリだったらジュースおごりね!」

 すでにスタートダッシュを切った坂田がふりむいて叫ぶ。「主将、ゴチでーす」と中林がつづく。

「おい、ずりぃぞ」

 手をついて斜面を駆けあがり、俺はあわててふたりの背中を追いかけた。全力で走る俺たちの頭上を、オナガの群れがひらりと追いぬいていった。

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