13.あめ玉の月(佐藤和久)
姉ちゃん、流産しとったんやて。もう一週間もまえに。
「おなか痛くなってトイレ行ったら、血といっしょに変な塊が出てきて、まあ、そんな感じ」
そう言ってすぐ自分の部屋に引っこんでしもうたけん、僕もなにも言えんかった。
それから姉ちゃんとうまく話せん。怒っとらんよ、べつに。一番つらいのは姉ちゃんやけん。けど、言うてくれたら、僕も余計なこと言わんかったのに。姉ちゃんが僕の剣道の大会観に行きたいって言うたときも「具合、悪ならん?」って聞いてしもうた。あのときにはもう、赤ちゃんおらんかったのに。
「しまったぁ。ポン酢、切らしとったわ」
夕飯の支度を始めたお母ちゃんが、冷蔵庫を覗きながら声をあげた。
「お醤油じゃちょっとねえ。やっぱり豚とモヤシにはポン酢よねえ」
「僕、コンビニで買ってこようか?」
「ほんと? それやったら助かるわぁ」
お母ちゃんはお財布から千円札を取りだし、「ほかに好きなもん買うてきてええよ」と僕に手渡した。
「わたしも行く」
真後ろから声がした。居間でテレビを観とったはずの姉ちゃんが、ケータイを片手に立っとった。
「ちょうどよかった。いまから友達に会うの。コンビニ待ち合わせで」
「え、いまから?」
お母ちゃんが壁の時計を見あげる。
「もう五時過ぎよ。いくら陽が長うなった言うても危ないやろ」
「だから、ヒサ連れてくんじゃん」
僕の肩にぽんと手を置く姉ちゃん。
「ちょっと顔合わせるだけ。夕飯までには帰ってくるから」
そう言い残して、姉ちゃんはさっさと玄関を出ていった。千円札をポケットにねじこみ、僕は急いで姉ちゃんを追った。
空はまだ夏の顔で、山の稜線へむかってほんのりオレンジ色に移ろうとった。穂の出たばかりの青い稲が夕刻の風にさわさわ揺れる。素足に履いたつっかけを姉ちゃんはかっつんかっつん鳴らして歩く。
「なんか、アイス食いたいな」
「うん」
「シャーベット、レモンのやつ。あそこのコンビニにあったかな」
「うん。あったと思う」
「いちご練乳のも食べたいな。炭酸も買っとこ」
「僕、千円しか持っとらんよ」
「ポン酢なんて三百円くらいでしょ? いけるって」
散歩中のおばあさんとすれちがう。だれだか知らんけど、とりあえずお互いに挨拶する。うちのばあちゃんくらいの年齢やろか。ばあちゃんの知りあいやったら、むこうは僕らのこと知っとるかもしれん。姉ちゃんも似たようなことを考えたのか、
「田舎はやだな」
と、つぶやいた。
せまい町やけん。うわさ話は電流みたいにすぐ広まる。姉ちゃんが家出したときもそうやったし、最近戻ってきたことも、きっとあっというまに知れ渡る。
「ごめんね、赤ちゃんのこと」
道端の小石をこつんと蹴って、不意打ちみたいに姉ちゃんが言った。
「ヒサ、楽しみにしてくれてたのにね」
「べつに……姉ちゃんは悪ないやろ」
僕の返事に苦笑いして、姉ちゃんはおなじ小石をまた蹴った。
「わたしさ、死んじゃおうかなって、ちょっと思ったんだよね」
からころからん。
アスファルトのうえを小石が転がる。田んぼの用水路の水音がやけに響いて聞こえた。夕焼けの海みたいな目で、姉ちゃんは前へ前へと小石を蹴って歩いた。
「東京の古いアパートで暮らしてた。壁は薄いし、給湯器はすぐ壊れるし……お風呂なんて旧式だよ、取っ手ガラガラ回すやつ。大洲のおじいちゃんちの風呂もあれだったな。ヒサは見たことないやろ」
「うん、分からん……」
「そんなボロアパートの家賃すら払えなくなってさ。貯金、ほとんど持ち逃げされた。残ったのは自分とおなかの赤ちゃんだけで、なんだかぼんやりしちゃって、窓から遠くの高級マンションをずっと眺めてた。バベルの塔みたいだな、なんて思いながらさ」
バベルの塔を出しよるあたりが姉ちゃんらしいな、とこんな時にのんきなことを思った。ノアの箱舟、イカロスの翼、アトランティス帝国……トシ兄ちゃんに買うた学習漫画を、姉ちゃんのほうが熱心に読んどった。
「堕ろすなんて考えられなくて、最初はひとりで産むつもりだった。けど、友達に電話したら、だったら産むのやめな、どうしても産みたいなら実家帰りな、って。そのときは、なんで応援してくれないの? って喧嘩みたいになっちゃったけど……ま、そのとおりだよね、実際」
もう何も入っとらんはずのおなかを姉ちゃんはそっとさすった。
「覚悟決めたはずだったんだ。何があろうと産むんだ、って。なのに、おなかのなかで育ってるのがだんだん赤ちゃんじゃなくて絶望のような気がしてきた。学費稼いで、大学行って、資格取って……遠回りでも実現できる夢だった。赤ちゃんができるまでは」
かん!
姉ちゃんのサンダルのつま先が、ひときわ強く小石を蹴る。いびつな小石は下り坂を転がって、用水路にとぷんと落ちた。
「生活切りつめて働いてもお金はなかなか貯まらない。愛を誓った相手はただのクズだった。全部全部、わたしの見通しが甘くて、まちがったことばっかしてて、じゃあ、わたしの人生どこからまちがってたんだろう。家出したとこから? 高校でグレたとこから? 愛媛に残らなかったとこから? もしかして生まれてきたとこからまちがいだった? ……なんてさ」
「そんなん……」
言いかけた僕のことばを姉ちゃんはふりはらう。
「わたしのまちがいを今度は赤ちゃんに押しつけるんだ。そう思ったら、全部投げ出したくなった。わたしの人生ってなんなんだろう、わたしの夢ってなんだっけ……そんなふうに虚しくなってる自分がいて、その時点でもう、この子が誕生すること、わたし自身が祝福しとらんって気づいてしもうた。入りきらんのよ。私の人生に赤ちゃんが入りきらんの。それでも意固地になって、だれかのせいにしたくて、だから、あの家に戻ってやっぱり居場所がなかったら、もういいや、って。もうどうでもいいや、終わらせちゃえばいいや。そう思ってた」
田んぼ沿いの一本道にふたり分の影法師が長く伸びる。姉ちゃんは歩くのが速くて、それとも僕が遅いんやろか、どんな顔して歩いとるのか、よう見えんかった。
「けど、家のまえで突っ立ってたら、ヒサがおかえりって言ってくれたじゃん。姉ちゃんが帰ってきた、なんてはしゃいじゃってさ。なんも知らないくせに。なんも知らないから笑えるあんたのその顔に、何度救われてきたかも知らないくせに」
なに言いよん。
そう言いたかったのに、ことばが出んかった。
なにを言いよるんよ。
僕はさ。
「僕は、ほんとになんも分かっとらんで、やけん、いままでどんだけ姉ちゃんのこと傷つけてきたやろうって、姉ちゃんが家を出てからようやく、ようやく気づいて……」
馬鹿じゃないの、と姉ちゃんは笑った。
「そんなの気にしなくていいんだよ。あんたは弟なんだから。弟ってのは、そういうもんなんだよ」
コンビニのカラフルな看板が見えてくる。足もとばかり見とった姉ちゃんは、やっと顔をあげて、その電光を見据えた。
駐車場の一角にひときわ目を引くピンクの軽トラックが停まっとった。派手な軽トラもあるもんやと思うとったら、姉ちゃんは挑むような目でずんずんそれに近づいていった。
荷台の近くまで来たとき、運転席のドアがひらいて、車の主が出てきた。農作業用の帽子を片手で脱ぐと、波打つ髪が肩にばさりとこぼれ落ちた。
「久しぶりじゃん、
聞き覚えのある、すこし鼻にかかった声やった。ダボついたツナギを着とっても分かる、すらっとした体型。口にくわえた棒キャンディー。
記憶がぐわんと引き戻される。
キリンの目をした人――セリナさんや。
「あいかわらず好きだね、そのアメ」
硬い表情の姉ちゃんに、セリナさんは見せびらかすようにチュッパチャプスを振った。
「マイブーム再来ってやつよ。いま、農場で同僚のおっちゃんと禁煙対決しててさ。口寂しくなったらなめてんの」
「そのトラックは?」
「かわいいべ。あたしの愛車。廃業した養鶏農家のじいさんがくれたんだ。あたしが色塗ったんだよ。ってかさぁ!」
セリナさんはキャンディーの先を僕に向けて、急に大きな声を出した。
「実枝の弟じゃん! デカくなったなぁ。いま何年生? え、中三? マジかぁ、こないだまでランドセルしょってたのになぁ」
歯を見せて笑うセリナさんは、記憶のなかの姿とはかけ離れとった。どこか気だるそうな目もとは変わらんけど、その目のなかに濡れそぼったキリンはもうおらんようやった。
「セリナ、ごめんね」
姉ちゃんが切りだした。
「わたし、ひどいこと言った。セリナの言うとおり、実家帰ってよかった。結局、赤ちゃんは流れちゃったけど」
軽トラにもたれかかったまま、セリナさんは「うん」と静かにうなずく。
「あたしこそ、百パー応援できなくてごめん。産んじゃえばなんとかなる部分もあるんだろうけどさ」
「ううん。セリナが正しい。わたしはなんにも分かってなかった」
僕だけ話についていけんのを察したんやろう。セリナさんはくすりと笑い、僕のほうに顔を向けた。
「あたしんち、大家族なんだ。あたしが一番上で、下にきょうだいが十人いんの。けど、ほんとに血が繋がってるのはふたつ下の弟だけ。ママはあたしが小三のとき出ていった。おやじは子連れの女と再婚して、さらにぽこぽこ赤ん坊が産まれて、気づけばあたしがベビーシッターよ」
おどけた口調で肩をすくめても、セリナさんの顔にはあきらめの色がにじんどった。あきらめと、乾いた怒りと虚しさと、あとなんやろう。日に焼けて変色した古い本みたいに、長いあいだ晒されて染みついてしもうた色やった。
「家は貧乏火の車、なのにこどもは増えてく一方。きょうだいの世話に追われる毎日で、ただ漠然と、将来の夢とか希望とか、そんなものは端から持たない方がいいと思った。どうせ底辺から抜け出せないなら、せめて早く大人になりたかった」
セリナさんの長い指先がアメの棒をくるくる回す。
「高校入ったら周りも似たような連中ばっかで、なんつーか、あったかい泥の中に浸かってるみたいだった。合言葉は『ウチら馬鹿だから』。金なし、愛なし、学も教養もなし。ないものが多いほど結束して、そういうの持ってる恵まれた同世代を冷めた目で見てた。だから、実枝が転校してきたときはびっくりしたよ。あんたは見るからにこっち側の人間じゃなかったもんね」
転入したての姉ちゃんの姿がよみがえる。髪をふたつに結び、制服をきっちり着て、かばんには教科書をみっちり詰めとった。
「みんな、実枝をマジメちゃんって呼んでイジッた。そうしなくちゃ苦しかったんだ。あんたを見てると胸がヒリヒリした。あんたの存在は、あたしたちの残酷な現実そのものだった」
「けど、セリナはわたしを馬鹿にしなかった」
姉ちゃんが口をはさんだ。セリナさんは視線を外し、記憶を反芻するようにちいさくうなずいた。
「調理実習のときだったよね、初めて話したの。みんなふざけてたのに、実枝だけすごい速さで玉ねぎ刻んでてさ。できあがったオムライスがおいしすぎて、あたし、ひとりでパクパク食べちゃったんだよね」
照れ笑いするセリナさんに、姉ちゃんもつられて笑う。
「あのときのセリナ、ちょっとかわいかった。ずっと目をキラキラさせて、すごいすごいって言ってくれるんだもん」
「ほんとのことじゃん。それから、たまに調理室借りて一緒にお菓子とか作ったよね」
「セリナはほとんど見てるだけだったけどね」
「お弁当もよく作ってきてくれた。あの頃のあたし、菓子パンばっか食ってたもんな」
朝のひかりの射す台所に姉ちゃんの背中が浮かびあがる。そうやった。あの頃、全身からトゲを生やしとった姉ちゃんが、セリナさんへのお弁当を作るときだけはビー玉みたいに澄んだ目をしとった。
「あたしにとって懐かしの味は、カップ麺と冷食のチャーハン」
前髪をざっくり掻きあげて、セリナさんは言う。
「それだって充分うまいんだよ。いまでも好きでよく食べるし。手作りが一番とか、ひとりより大勢で食べた方がおいしいとか、あたしはあんまり思わなくてさ。騒がしい食卓しか知らないからかな。すこしでもひとりの時間がほしくて、夜こっそり家を抜けだして、お月見しながらカップ麺すすったりしてた」
「うん」
「けど、実枝の作る弁当は、あの頃食べたなによりもおいしく感じた。実枝の弁当が食べられると思ったら、それだけで明日が待ち遠しくなった。一日のなかで弁当箱の蓋を開ける瞬間が一番楽しみだった。そっか、食べることは生きることなんだ、ってわりとマジでそう思った」
気恥ずかしいんやろうか、目を伏せたままそう話すセリナさんに、姉ちゃんが一歩踏みだした。
「セリナ。わたし、やっぱり管理栄養士を目指そうと思う。学費はおじいちゃんが出すって言ってくれた。高卒認定受けて、受かったら来年、大学受験する」
セリナさんは顔をあげ、ちいさくうなずいた。それから、おもむろに軽トラから体を離して、姉ちゃんを抱きしめた。
「実枝、あんたはあたしの希望」
姉ちゃんの細い金髪に頬をうずめ、セリナさんは愛おしそうにその頭を撫でた。
「あたしが与えられなかったものも、自分から遠ざけちゃったものも、実枝はちゃんと持ってる。賢くて、頑張り屋で……あんたは最高。そうでしょ? 実枝と友達になれて、あたしは誇らしい」
「なにそれ」
怒ったように返す姉ちゃんの声がみるみる潤んでいく。
「わたしだって、セリナがいたから学校行けたんだよ。セリナに会いたくて、セリナと一緒なら他はどうでもよかった。ちょっとでもセリナに近づきたくて、だから化粧覚えて、髪も染めて……」
そうだったね、とセリナさんが苦笑いする。
「見た目ばっか派手にして、中身はわざとドロドロに汚して……あたしたち、どうしようもなくガキだったよね。けど、それだって全部が無駄なわけじゃなかったべ。これからはきっとうまくいく。だから、実枝はやりたいこと本気でやんな。そんで、あたしが行けなかったところまで行くんだよ」
「やだ。セリナと離れたくない」
駄々っ子みたいに首をふる姉ちゃんに、セリナさんは「なに言ってんの」と背中を優しく叩いた。
「あたしら、もうとっくに離れて自分の足で立ってんじゃん。あの頃みたいに一心同体になろうとしなくていいの。大人になったんだよ、あたしたち。あんたが地味なマジメちゃんに戻ろうが、うちらの仲は変わんない。それに、あたしだってあの家に人生吸われるつもりはねえから。下の子たちがもうすこし大きくなったら、夜のバイトはやめて農場の仕事一本でやってくつもり」
「夜の、って?」
「まえにも言ったべ? 物流の仕分け作業だよ。実枝が心配するようなことはしてないから。まあ、キャバ嬢もちょっとだけやってみたけどさ、あたしには向いてなかったわ」
あたし、思ったことすぐ顔に出ちゃうもんな!
体を離して、セリナさんはあけすけに笑った。鼻をずびずびすすりながら、姉ちゃんも「向いてなさそう」ときっぱり言いよった。
「農場の仕事、きつくない?」
「きついけど楽しいよ。みんな親切だし、あたしなりに役に立てることもあるしね。品物のポップ描いたり、農場のサイト作って情報発信したりしてんだ。ほら、ジジババは電子機器分かんねえから」
「セリナ、なんでもデコるの上手かったもんね」
「あたりめーよ。ギャルの底力なめんな」
指のあいだに器用にアメの棒を挟んで、セリナさんは自分の胸を叩いてみせた。
別れ際、セリナさんは「ワケありで悪いけど」と言いながら、農場で採れた野菜をくれた。大量買いしたというチュッパチャプスも、ファミリーパックの袋をその場で開けて選ばせてくれた。遠慮して一本しか取らんかったら、セリナさんは「もっと持ってきな」と数本わしづかんで僕のズボンのポケットに無理やりねじこんだ。
「あたしら、こうやっておばさんになってくんだね」
横でしみじみつぶやく姉ちゃんに、セリナさんは、
「ババア上等!」
と、豪快に笑うとった。
西日の射す帰り道を辿る。コンビニ袋をゆらゆら振りながら、半歩先を姉ちゃんが歩く。僕の持つビニール袋には、つやつやのナスやピーマン、土のついたじゃがいもがごろごろ入っとる。
「遅くなっちゃったな」
「ほうやね。でも、夕飯には間に合うやろ」
「ヒサ、お母さんに連絡入れといて」
「えー、姉ちゃんが電話すればええやん」
「だめ。あんたがやんの」
「えー」
ぶつくさ言うても、姉ちゃんには逆らえんけん。ケータイを取りだそうとポケットを探ると、さっきもらったばかりのアメがコロコロ指にあたった。
「髪、もとの色に戻そっかな」
包み紙をピリピリ剥がして、姉ちゃんはまんまるのアメを高く掲げた。何のフレーバーやろ、青りんごかな。薄緑色のあめ玉は、夕焼け空にぽっかり浮かぶお月さまみたいやった。
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