14.優しい人(坂田直也)
三谷のおばあちゃんからほおずきをもらいました。
庭に生えてるのを眺めてたらお裾分けしてくれた。ほおずきっておもしろい形してますよね。広い葉っぱに提灯みたいな袋。燃えるような橙色から黄緑に変わっていく色あいも、紙風船みたいなかさかさした感触も好きです。
小学生のころから、たまに三谷に誘われておばあちゃんの農作業のお手伝いをしてます。畑の野菜を採ったり、ビニール袋に商品のシール貼ったり、稲刈り後の田んぼでイナゴ取ったり。三谷って虫が苦手なのにイナゴは平気なんですよ。あれは食材だから大丈夫らしい。
「夏休み、みんな、なにしてんだろうなぁ」
縁側でスイカと梅干と水まんじゅうを食べながら(おばあちゃんが無限になにかしら出してくるので)、三谷とそんな話をしてました。
「坂田、宿題どんくらい進んだ?」
「うーん、とりあえず総整理の問題集は終わらせた」
「早ぇな。俺、まだ社会と国語しか終わしてねえわ。あ、中林はさ、お盆前にみっちり塾の夏期講習だって」
「あー。それ、俺も申しこんでみたんだよね、中林に誘われて」
「マジで? あの駅むこうのとこだべ?」
「そう。ひとりで勉強するのもちょっと不安だし」
「へぇー、坂田が塾ねぇ」
三谷がスイカの種を庭先へフッと飛ばす。吹き方が上手いのか、黒い種は吸い寄せられるように植えこみの影へ飛んでいった。
「でもさ、駅むこうじゃおまえんちからは遠くなるんじゃねえんけ」
「そうなんだよねぇ。夏休み中はいいけど、学校始まったら通いきれないかも」
「いっそ家庭教師とかにしてみれば」
「うーん。まあ、勉強教えてくれる人はいるんだけど……」
ぽろっとつぶやいてしまって。あ、と思ったときには、もう拾われちゃってた。
「え、いるの? だれそれ」
「いや、まあ、絹川の先輩」
「ふうん。あ、もしかしてあの人か。まえに帰り道で会った……ナツさん?」
「那智さん。よく覚えてるね」
「なんか、女っぽい顔してたから。変わった苗字だな」
「名前なんだよ、那智って」
「ふうん。変わった名前だな」
そう言って、三谷はまたスイカの種をフッと吹いた。僕は「三谷のクラスにも変わった名前の女子いるよね」なんて話をそらしながら、小さく震えだした手をそっと握りこんで隠した。
紙の端でうっかり指を切るような、そういう瞬間が、那智さんと出会ってから増えた気がします。
夏休みに入るまえ、英語の授業でイスラム教の文化の話を扱ったのね。ラマダンってあるでしょう、一か月くらい断食するやつ。その説明の和訳を読んだ子が断食を「だんしょく」って読み違えて、そしたら先生がにやにやしながら「それは違う意味になるぞ」ってわざわざ国語辞書を引かせて、調べた子が「うえー!」みたいなリアクションして、で、みんなが笑うっていう。
そういう一連の流れ。
自分に飛んでこなくても、それなりの頻度で周りを飛び交ってる。男同士でちょっと距離が近いと「おまえら、デキてんの?」って冷やかしたり、女の子絡みの話に乗ってこないと「もしかしてコッチ系?」って片手を顔の横に持ってきたり。そんで「んなわけねーじゃん」「キモいこと言うな」みたいな。
そういう一連の、一瞬の、確認テスト。
これが意外と馬鹿にできないもので、たった一言、わずかな表情の動きでも、相手がどう思ってるのか透けて見えてしまうんですよね。とっさの反応だからこそ、よそゆきの顔で言う「差別はよくない」とか「個性を大事に」とかってセリフよりずっと鮮やかで質量がある。そういうのをちらっと見せあうことでお互いを仲間だと確認しあって、もしも違うカードを出しつづければ、ある時を境に「不合格」の判定が下るんだと思う。
だから、みんなとおなじ顔をしなきゃ。
べつに悪乗りする必要はないから、ただ目立たないように、ちゃんと風景の一部でいなきゃ。
そう頭では分かっていても、自分がきちんと「正解」の顔をできてるか自信はないです。表情筋が上がるたび、笑い声が喉を通過するたび、いつかのひどい落書きを那智さんに貼ってるような気分になるから。
それでいい、って那智さんは言うの。
那智さん自身が、白い紙をぺたぺた自分に貼ってるようなところさえある。だけど、そんなことしてたらいつか那智さんの全部が白い紙に覆われて、真っ白な背景のなかに消えてしまいそうで、だから、僕は那智さんに貼られた紙を剥がしてあげなくちゃいけないのに、一枚剥がそうとする間に紙はどんどん貼られていく。たまに突風が吹くと白い紙が鳥の大群みたいにバタバタ巻きあがって、前も見えないくらいになる。ようやく目を開けて、なんだかチクチクするな、って自分の体を見下ろすと小さな切り傷がいくつかできてて、そこに那智さんが「大丈夫?」って絆創膏を貼ってくれようとするんです。那智さんのほうが、もう絆創膏じゃふさげないくらいの怪我をしてるのに。
このあいだ、那智さんに久しぶりにあったら、髪が短くなってました。短いって言っても僕よりは長いんだけど、顎まであったのが耳たぶ出るくらいの長さになってて、那智さんにしては短いな、って。
「まあ、気分っていうか。夏だから涼しくしてみた」
「ふうん。いいじゃん、さわやかで」
「変じゃない?」
「似合ってるよ。俺は長いのも好きだったけど」
なんとなく言っただけだった。そしたら、急に泣き笑いみたいな顔になるんだもん、ドキッとしました。
学校でちょっといろいろあったらしいです。だれかにホモがどうたらオカマがうんぬんからかわれて、それ自体はいつものことだから無視したんだけど、その現場をたまたま見かけて注意してくれた先生に、
「君嶋も紛らわしい髪型はやめなさい。そんな長さじゃ根も葉もないことを言われても仕方ないぞ」
って言われちゃったんだって。
「結べばいいですか、って聞いたら、そういう問題じゃない、女っぽいことをするから疑われるんだ、って。わりと好きな先生だったからさ。あ、好きっていうのはもちろん、リスペクトの意味でね。授業もおもしろいし」
「うん」
「根も葉もありますけど、なにか? って、開き直れたらよかったけど。でも、先生は俺をかばうつもりでそう言ったわけで、優しいことに変わりはないんだよね。俺が勝手に、この人なら大丈夫だろう、ってどこかで期待してたのがいけなかったんだ。べつに先生はなにも悪くない。ていうか、嫌いになりたくないから、そう思うことにした」
「それで、切っちゃったの?」
「まあね」
「那智さんだって、なにも悪くないんだよ」
分かってるよ、と那智さんはうなずいた。
「俺はなにも悪いことしてない。髪は長いけど校則違反じゃないし、授業態度はまじめ。クラスの男子に熱い視線を送ることもなければ、きわどいかっこうをするわけでもない。人権だの多様性だのって話を自分からしたこともない。ただそこにいる。それだけ」
「うん」
「それでも、やっぱり揺らいじゃうんだよ。どうでもいいやつのことばは聞き流せても、憧れの人や親しい人から否定されると、この人がそう言うならそうなのかな、って。俺の在りようが悪くなくても、それで周りを混乱させるなら、やっぱり俺が悪いのかな、って」
でも、直也がそう言うなら、やっぱり切らない方がよかったかな。
そう笑って短くなった髪を撫でる那智さんに、「それでも那智さんは悪くないよ」って、喉まで出かかって、言えなかった。
――いじめられる方にも問題があったんじゃないの。
――そんな服装してたから狙われたんじゃないの。
――だまされる方がバカなんじゃないの。
――はっきり言わない方も悪いんじゃないの。
――どうして助けを呼ばなかったの。
――どうして反撃しなかったの。
――それで屈するくらいなら、所詮はその程度だったんじゃないの。
那智さんを見てると、「堂々と生きればいい」ってセリフにかえってじわじわ首が締まっていく。ラブ&ピースって言ってりゃ世界が平和になるみたいな、優しいけど優しいだけで中身のないことばに聞こえる。
自分は悪くないなんて、そんなこと本当は分かりきってんの。
それでも、だれかを困らせたって思うと、どれだけ「迷惑なんかじゃない」って言われても、もう罪悪感で身動きが取れなくなってしまう。
少なくとも僕はそうでした。お母さんが学校に呼び出された、先生たちが会議をひらいた、教室に空席を作ってしまった。自分のいないところで慌ただしく事態が動いたんだ、って、そう思うだけで体のなか全部が申し訳なさであふれかえりそうだった。いくら先生や友達から真綿にくるまれたことばを送られても、こころのどこかで「もうみんなの期待する筋書きどおりには動けない」って気づいてたから、優しさに触れるほど苦しかった。
「ターミネーター2の美少年みたい」
だしぬけにそう言ってみたら、那智さんはぶはっとふきだした。
「ジョン・コナー? あれはさすがに美少年すぎるでしょ」
「いや、目指そう。和風ジョン・コナー」
「まって、ほんと恥ずかしくなってきた」
赤くなった顔を両手で隠す那智さんに、せめて髪が伸びるまで鏡を見て悲しくならないでほしいな、って。そんなことを願いました。
「そういや、今年も花火大会あるよな」
庭に出てほおずきの群生を眺めてたら、三谷が縁側からそう声を張った。
「去年はさぁ、部活帰りにみんなで行ったけど、今年は部活もないし受験だべ? 俺は息抜きに行きてぇけど、坂田と中林は勉強忙しいかなぁって。きゅうちゃんは屋台の手伝いに回るみたいだし」
「おいしかったよねぇ、きゅうちゃんとこの白玉あんみつ」
「富士野は行きたいって言ってたけど。あいつ、勉強したくないだけなんじゃねえかな」
「今年はきゅうちゃんのお姉さんが新メニュー作ってくれるんだって。あんみつもバージョンアップするって言ってたなぁ」
「おまえ、あんみつの記憶しかねえんけ」
花火を見ろ、花火を。と、三谷がやいやい言う。僕は僕で虫に食われたほおずきに気をとられていて、テントウムシかなぁと思いながら、「そうだねぇ」なんておざなりに返してました。
「夏期講習のとき、中林に聞いてみるよ」
「おう、そうして。……なあ、おまえさぁ」
「なにー?」
「那智さんと行きたかったら、そっち優先していいからな」
ほおずきをつついていた指が思わず止まった。びっくりして、なんか、変な笑いが出ちゃった。
「なんで?」
わざとゆっくり立ちあがって縁側へ戻る。三谷は皮だけ残ったスイカのお皿を後ろへやって、僕の座る場所を広げてくれた。
「なんで、って、仲良さそうだから。なんか、おまえの話聞いてっと、先輩っていうより年上の友達みたいな感じだし」
「あー、まあ、そうかも。ていうか、俺、そんなに那智さんの話してたっけ」
「いや、そんなにはしてねえけど。おまえ、よく図書館で友達と待ちあわせてるとか言ってたべ。あれ、あの人のことだろ。おなじ学校のやつだったら、そう言うだろうし」
松の木のかげからアブラゼミの鳴く声がする。縁側から眺める庭は日差しで白く霞んで見えて、飛び石のうえの蚊取り線香が青い空へ煙をくゆらせてた。
「そういう縁はさ、大事にした方がいい、ってじいちゃんが言ってたんだ」
使いこまれたうちわを仰ぎながら、三谷はなんだか急に大人びた顔でそんなことを言いました。
「俺とおまえがそうだったべ。小学生のときは意識しなかったけど、中学に上がると急に上下関係厳しくなるじゃん。おまえが中学入ったら、もう気安くタメ口きいて遊べねえのかな、とか思ってたからさ」
あっ、とうちわで膝を叩いて、ひらめいたって顔でふりむく三谷。
「それとも、那智さんも誘ってみんなで行くか? 俺はべつにかまわねえぞ」
「いやぁ……あの人、けっこう人見知りだから」
「そっか。そうだな。それ言ったら、こっちも中林が人見知りだもんな」
「あのふたり合わせたら、たぶん最後まで一言もしゃべんないよ」
借りてきた猫みたいな中林と那智さんを思い浮かべて、ふたりで笑った。
それから、持ち寄った宿題を一時間くらいやって、ふらっと帰ってきた猫におやつをあげて、三谷に教えてもらいながら、すこしだけ将棋を指しました。
「直也くん、ほおずき持って帰っかい?」
「え、いいんですか」
「たくさんあっから、好きなだけ持ってかっせ。待ってな、いま、ばっぱが切ってやっがら」
一、二本のつもりだったのに、おばあちゃんが気前よくちょきちょき切るもんで、結局、両手で抱えるほどの束をもらってしまいました。おまけに今日収穫したトマトとオクラとラグビーボールみたいな大きさのゴーヤまで持たせてくれて、帰りは途中まで三谷が自転車のカゴに入れて運んでくれた。
「そんじゃ、またな」
「うん、また」
ガソリンスタンドのまえで手をふって別れる。歩きだして、少し経ってふりむいたら、三谷はもうずいぶん離れたところで自転車を立ち漕ぎしていて、トンボみたいにすいすい遠ざかっていった。
車通りの少ない交差点で、それでも律儀に信号を待ちながら、わさわさ揺れるほおずきのひとつを空にかざしてみる。
美術の絵の宿題、これ描いてみようかなぁ。
陽に透けた橙色に、ぼんぼりみたいだな、と目を細めて、そうしたら急に、まるで通り雨に襲われたように、ああ、三谷には嫌われたくないなぁ、って。
そう思った。
那智さんの言う通りかもしれません。どうでもいい人からのことばは、べつにどうでもいい。傷つかないって意味じゃなくてね。傷つくけど、それでも頭のどこかでは「相手にする必要ないぞ」って自分に言い聞かせられる。
でも、どうでもよくない人からのことばは、どうでもいいなんてとても思えない。ただ悲しいだけ、痛いだけで、深く刺さったままきっと抜けない。
こころを強くする、ってどういうことなんだろうなぁ。
だれに石を投げられても、親しい人が離れていっても、いつも明るくポジティブに笑う。それがありのまま堂々と生きるってことなら、そんなのもう感情をコンクリートで固めでもしなきゃできないんじゃないの、って思います。
明確なことばじゃなくても、たとえばほんの小さな舌打ち、ため息、忍び笑い……そんな取るに足らないものにさえ、かんたんに芯は揺らいでしまう。そういうものを踏み倒してでも我を通せるほど他人の顔色に無関心にはなれない。俺は友達に「縁切る」なんて言われたら悲しいよ。ちゃんと苦しいし、どうしたって自分を責めてしまうと思う。
それとも、なにも失わずにいたいなんて虫がよすぎるんだろうか。
そうかもしれないよね。
でも、代償がいるって言うなら、それはなんでなんだろう。那智さんを好きだっていう気持ちは、友達や家族を大事にするとか、人に親切にするとか、そういうほかの気持ちとおなじように並べたらだめなの? どうしてこれだけを選り分けて、天秤にかけないといけないんだろう。
青になった信号を渡る。歩道沿いに背丈より高いひまわりが立ち並んでいたけど、ほとんど枯れてしまってました。だらりと葉っぱを垂らして、真っ黒い顔でうなだれる姿はまるで戦いのすえ朽ち果てた老兵みたいだった。抜け殻になってもこちらをじっと見下ろしてるようで、なんとなくほおずきを隠すように抱えて、足早にまえを通りすぎた。
覚悟とか、こころを強く持つとか、ちゃんとできたらいいけど。しっかり武装したつもりで、結局は幼稚園児の作った新聞紙の鎧みたいにあっさり破れてしまいそうな気もします。
もし、三谷におかしいって言われたら、口に出さなくてもそう思ってると分かってしまったら。……どうなるんだろう。そのときになってみないと分かんないな。
ただ、俺はずっと友達でいたい。
友達でいたいな。
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