5.恐竜と見た星 (三谷正俊)
病院にいる夢をたまに見る。
白い廊下を俺は歩いている。ふとあけっぱなしの病室を覗くと、小学校のころの友達があつまってマリオカートをしていた。
「おーい、俺もまぜろよ」
コントローラーを受けとってテレビ画面にむかえば、いつのまにか体は真っ赤なレーシングカーに収まっていて、俺はマリオやヨッシーやピカチュウと、ハリボテめいた世界でレースに興じる。
ナースステーションから花屋のおばさんに手をふられたこともある。呼ばれるままドアをくぐると、長テーブルとくるくる回る丸椅子があった。花屋のおばさんは「わたし、だめだぁ。全然だめ」と言いながら英単語帳をめくっていて、そこで俺はあと数分でテストが始まると気づき、冷や汗をかく。
あるいは、階段だ。廊下のつきあたりをまがると、たいていそこには階段がある。踊り場の窓から、野球部の練習が見える。レギュラーのだれそれがいないから代わりに出てくれと言われ、俺は病院の窓から飛び降り、ユニフォームなんぞを着てマウンドに立つ。
目が覚めたとき、いつもぼんやり虚しくなる。蛍光灯から垂れさがる紐をぼーっと眺めながら、マリカーにピカチュウはいないよなとか、花屋のおばさんとはずいぶん会ってないのになんで出てきたのかなとか、現実との矛盾をたらたら並べあげ、最後に病院の白い廊下を思いだす。
今日もたどりつけなかった。
いつだって夢から醒めなきゃ気づけない。俺は、あの廊下を進んでどこかの病室に行くはずだった。だれかが病室のベッドで俺を待っている。それなのに、今日も寄り道をして会えなかった。いまも待たせてる。きっと、ひとりで待たせてる。夢なんだから正解も不正解もない。でも、そんな気がしてならない。どうにもいたたまれなくて、蛍光灯の輪っかにむかってごめんとつぶやく。その罪悪感も、朝飯を食うころには忘れている。
春の県大会、帰りのバスは行きとおなじく坂田のとなりだった。
「……あ」
もうすぐ出発するというとき、窓側の席に座った坂田がちいさく声をあげ、窓ガラスのむこうに手をふった。
「だれ」
「
となりの大型バスに乗りこんだ学生が数人、ひかえめに手をふりかえしている。坂田が転校前にいた中学の連中だ。うちと比べると部員数が桁ちがいだ。
「気まずくないのか」
「ないことはないけど、暗い顔してるのも、なんか」
「なんか、なに」
「なんか、悲劇のヒロインみたいでアレだし」
発車ぁしまぁす。運転手のおじさんのひとりごとみたいな合図で、バスが動きだす。
急にまぶたのうえに眠気がのしかかってきて、俺は目を閉じた。春の大会が終わった。つぎは夏の総体だ。それで最後だ。とりあえず地区大会を勝ちあがる。そんで県大会へ行って、五人で一試合でも多く戦う。俺は高校でも剣道をつづける。たぶん、一生つづける。でも、いまの五人でやる団体戦は、あと六十日たらずで終わってしまう。
脳みその奥から眠りの糸にひっぱられる。ここちよさとわずかな恐怖を感じながら暗い海に沈みかけたとき、坂田の声が黒い水面にぽちゃんと落ちた。
「俺は逃げてきてよかった」
そうか。そうかもな。
返事をしたいけど、もう意識は海底へとゆっくり沈んでいるところで、俺は遠のいていく水面に丸い波紋が広がっていくのを、ほんの一瞬のあいだ、ずっと見ていた。
町の剣道場に坂田がやってきたのは、俺が小三にあがった春のことだった。
最初の数か月、初心者は
弱ぇな。
半紙にぽたりと墨が落ちるように、視界の端に坂田が映るたび、俺はそう思った。見下しているつもりはなかった。上達のスピードは人それぞれだ。ただ、その弱さは俺をときどき苛立たせた。あいつ、まだ竹刀に振られてら。足が全然ついていってねえぞ。今日は風邪で休みかよ。どんだけ体弱ぇんだよ。
ところが、この箸にも棒にもかからないモヤシっ子をいたく気に入った先生がいた。塩ジイこと塩手先生は、坂田を孫のようにめっぽうかわいがった。
「坂田はまっすぐだからいい。名前のとおり、まっすぐだ」
塩ジイの言う「まっすぐ」がなにを指しているのか、俺には分からなかった。ようやく経験者の稽古に仲間入りしても、坂田はやっぱり数ミリ伸びたモヤシにすぎなかった。
まぁ、でも、仕方ないのかな。見るからに虚弱そうだし。そういうふうに生まれてきたなら、まわりとおなじペースで進めなくても、仕方ないよな。
なんか、かわいそうだな。
そんなふうに、いまふりかえれば穴があったらなんとやらってくらい俺は高慢だったから、初めて坂田に試合で一本取られたときは、全身が粉々に砕けてしまいそうだった。きれいな出小手だった。打たれたのが自分じゃなければ、ビデオカメラに撮って何度でもリプレイしただろう。俺はすぐに二本取りかえして試合に勝った。でも、勝敗なんてどうでもよかった。強く打たれたわけでもない右手首が、いつまでもじんじんと熱かった。
植物がゆっくりゆっくり育つように、坂田は塩ジイの言うとおりまっすぐ伸びつづけ、いつのまにかちっちゃな花をいくつも咲かせていた。坂田の剣道は、きれいな剣道だ。打ったあとも崩れない構え、あめんぼが水面をすいすいっと滑るような足さばき。力はない、速さもない。なのに、ときどきハッとするほど鮮やかにくりだされる、夜空に音もなくひかった白い稲妻みたいな技の数々。人の倍以上かけて積みかさねた基礎が、土のなかで深く広く根をはって坂田を支えていた。試合に勝てる剣道ではないかもしれない。でも、背筋をスッと伸ばして竹刀を構える坂田の姿は、いつまでも見ていたいと思えた。
坂田が変な咳をしたのは、俺が五年生の冬、十二月の市民大会の帰り道だった。俺は個人戦で優勝、坂田は自己ベストの三位に入賞して、互いにはしゃいでいた。
「年明けのさ、初稽古、楽しみだよね」
「やだよ、道場の床、めっちゃ冷てぇべな」
「え、でもさ、おしるこ出るじゃん。俺、あれ好き」
のんきに笑っていた坂田は、ふと口もとを押さえて咳きこんだ。嫌な感じの咳だった。体の内側からなにかが剥がれていくような。
「だいじ? 風邪ひいたんじゃねえの?」
「ううん、大丈夫」
そう言いながら、坂田はもう何度か、くすぶった咳をした。あんまり心配すると嫌がるから、俺はわざと話題を変えた。
「坂田くんって、中学どこ行くの?」
「絹川中」
「マジ? あそこ剣道部すげぇ強ぇべ」
「そうなの?」
「知らないで行くのかよ。いいなあ、俺、学区、
中学行っても、道場来いよな。そんで、俺が中学入ったら、いつか試合で戦おうな。
「約束だぞ」
そのとき俺は、自分でもふしぎなくらい強く念を押した。坂田は笑ってうなずいた。じゃあ、またね。来週の稽古でね。手をふって別れた次の週、坂田は稽古に来なかった。次の週も、その次の週も、年が明けて、楽しみにしていた初稽古の日になっても。ちらちらと降る雪を道場の窓から眺めながら、甘い小豆におぼれた餅を、俺はたいしてよく噛みもせず飲みくだした。
「坂田くん、具合、よくないらしいの」
近所の公園に梅の花が咲くころ、母さんにそう聞かされ、俺はようやくことの重大さに気づいた。
「死んじゃうの?」
きっとひどい顔をしていたんだろう。母さんは、そんな重い病気じゃないから、と笑ってみせた。
「いま、ゆっくり治してるところだから。落ち着いたらお見舞いにいこうね」
見舞いの許可がおりたのは、六年生の夏休みも終わろうというころだった。母さんに連れられ、名前だけは聞いたことのある県内の大きな総合病院を訪れた。病院という場所に足を踏みいれたのはそのときが初めてだった。あんまりおだやかで驚いた。病人のあつまるところだから、もっとよどんだ空気が漂っていると思っていた。
坂田は思いのほか元気だった。てっきりリンゴの芯みたいになってると思いこんでいた俺は、けろっとした顔で「あ、三谷くんだ」と手をふる坂田に、おう、とクールに片手をあげ、直後、だばだば泣いてしまった。
「あの、よかったらこれ……」
となりのベッドの男の子がティッシュを箱ごと渡してくれた。
「コータくんだよ」
坂田に紹介された男の子は、
「やっ、どうも」
と、町内会のおっさんみたいなあいさつをした。坂田と同い年だという、ちいさな鼻に眼鏡をのせた、顔も体もころっとした感じの子だった。
「いまね、コータくんと恐竜飼う話してたの」
ふたりは恐竜図鑑をひらいて、ナントカサウルスだのナンチャラドンだの呪文のような名前を口々に言いあった。ティラノサウルスとトリケラトプスくらいしか知らない俺は、外国に来たみたいな気分だった。ふたりともベッド脇の机に図鑑や本をたくさん並べていた。坂田の机には、小学校のクラスメイトたちが書いた色紙が飾ってあった。「待ってるから早く来いよ!」「中学校で会おうね」放射状にひとり一言つづられたメッセージ。コータくんの机に色紙はなかった。
三十分くらい話したあと、母さんと病室を出た。次は道場で会おうな、とかっこつけた俺に、坂田はあの日の帰り道とおなじ笑顔でうなずいた。バイバイ、とコータくんが手をふる。病室の扉が閉まり、ふたりの姿が見えなくなる。白い廊下を俺は歩きだす。バイバイ。窓のない明るい廊下にコータくんの声が響く。いや、坂田の声かな。看護師のお姉さんが足早に俺を追いこした。点滴台を押して歩くおじいさんとすれちがう。母さんはどこへ行ったんだろう。俺はどこの病室へ行けばいいんだっけ。長い廊下だ。ずっとむこうにつきあたりが見える。あそこまで行ってみよう。あそこをまがって、そして、それから……。
ブレーキのやわらかな揺れで目が覚めた。いつのまにか、バスは学校近くの交差点まで来ていた。
となりで坂田が寝ぼけ眼をこすっている。同級生になった坂田。そうだった。俺たち、いま、中三なんだ。
「寝てたらあっというまだったな」
「うん。なんか、夢みてた」
「俺も。なあ、コータくんっていたよな」
坂田は目をぱちりとさせ、ふしぎそうに俺を見た。
「ほれ、おまえが入院してたときの、同室の」
「ああ、うん」
「いま、どうしてるんだろうな」
「さあ」
「連絡とってねえの」
「とってないよ。コータくん、途中で病室移動しちゃったから」
ふわりとあくびをして、坂田は言った。
「どっちが早く退院できるか競争ねって、住所書いたメモ、交換っこしたんだ。退院したら手紙で教えてね、って。俺のほうが絶対早いって分かってたけど」
「そうなの?」
「うん。俺は、ちゃんと治療すれば治る病気だったから」
一瞬、意味が分からなかった。なんとなく見当がついてもまだ半信半疑で、ああー、と薄っぺらな相槌しか打てなかった。
「手紙、書かなかったのか」
「書いたけど、出さなかった。まだしまってあるよ、机のなかに」
信号が変わり、バスが重い腰をあげて動きだす。まっくらな夜の道路に青いひかりがじんわりにじむ。
「案外、しれっと返事かえってくるんじゃないか」
「それもそうだね」
いや、それがいいな。そうしよう。そういうことにしよう。
遊びの予定を手帳に書きこむように、坂田は、ふふ、と笑った。
きっと、坂田はコータくんのためにきれいな便箋を買っただろう。こいつは絵がうまいから、季節感のある気の利いた便箋を選んだだろう。まるで自分自身のような、細くて尖った冬の木の枝みたいな字をつづっただろう。たくさん考えて、何度も読みかえして、もらったメモの住所を封筒に書いて、それから、結局、ポストのまえでひきかえしたんだろう。そうして、その行動が正しかったのかいまもまだ分からずにいる。破ってしまった約束をずっと机にしまいつづけている。
「マイアサウラ」
唐突に坂田がつぶやいた。
「……ハリー・ポッターの呪文?」
「コータくんが好きだった恐竜」
記憶のなかのコータくんが、ベッドのうえで恐竜図鑑を指さしてなにかしゃべっている。声はもう思いだせない。顔も、ずいぶんぼやけてしまった。
「いいお母さんトカゲって意味の名前で、宇宙にも行ったんだって」
「恐竜が?」
「化石持ってったんだよ、もちろん」
「はぁー」
驚いてみたものの、その壮大さは俺にはいまいち漠然としすぎていた。
「人間ってのは、なんでも宇宙に持っていきたがるんだな」
「見せたかったんだよ、きっと」
まるで化石を持ちこんだ宇宙飛行士本人のように、坂田は言った。
「これがおまえの生まれた星だぞってさ。六千……六千六百万年前だったかな、それくらい前まで、ここにおまえたちがいたんだぞって」
宇宙船の丸い小窓から、坂田とコータくん、それからへんてこな顔の恐竜が、肩をよせあい、手をふっている。青い地球を指さして、そのどこかにいる俺に信号を送る。
「なあ、もう一回言って。その、恐竜の名前」
「マイアサウラ」
まいあさうら、まいあさうら。ティラノとトリケラトプスから一向に更新されていない恐竜の知識に、俺はこいつを入れようと決めた。覚えたぞ。マイアサウラ。
「坂田の好きな恐竜はなんなんだ」
答えられても分からないだろうが、気になってそう聞いてみた。坂田は、すこし考えてから、言った。
「
俺の頭のなかを、トカゲに翼をはやしたような生き物がひゅーっと横切る。
「始祖鳥って、鳥じゃねえんけ」
「まだ分かってないんだって。恐竜なのか鳥なのか、どっちでもないのか」
「はっきりしないやつだな」
「うん。いいよね」
「いいのか?」
「うん。いいよ」
こういうとき、俺は坂田と入れ替わってみたくなる。俺の体は、勝手に俺についてくる。心臓は自動で動く。息は滞りなく吸って吐かれる。その音に、リズムに、立ちどまって耳をすましたことなんかない。だから、軍艦みたいな体に守られてきた俺の心は、がたがたの小舟の体にしがみついてここまで来た坂田とは、きっと全然ちがうものを見ている。そのことが、ぼんやりと怖い。俺は自分を乗せた舟のきしむ音を知らない。突きあげる黒い波を知らない。その怖さを、知りようのないことが怖い。
校門をくぐり、バスは学校に到着した。暗闇にぼうっと浮かびあがる校舎は、昼間とまったく別の建物のように見えた。あくびや伸びをする声が車内のあちこちから聞こえる。財布が無い無いと騒いでいるのは富士野か。荷物をまとめていると、ふと頭のすみに輪郭のあやふやな恐竜が現れ、舞台袖へはけるようにしっぽをずるずる引きずって去っていった。
「坂田」
「ん?」
「まい……。なんだっけ?」
坂田は、おかしいのをこらえきれていない顔で、人間と宇宙へ行ったそいつの名前を呼んだ。
「マイアサウラ」
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