14.そこにいるもの (三谷正俊)

 神様なんかいない。祈ったって何も変わらないし、死んでも天国には行けない。まして高価な壺や霊験あらたかな水なんて、すくなくとも俺の人生には必要ない。

 だけど、俺は毎朝、仏壇に手を合わせる。剣道の稽古前には神棚に礼をするし、神社では参拝の手順を守る。自分でも矛盾してるとは思う。俺はだれに祈って、何を信じているんだろう。まして、神様とも呼ばれないやつら、幽霊だとか怨霊だとか、名前もつけられないほどあやふやな「何か」との距離に、俺はときたま、ふいに足を取られることがある。


、あんまし山さ近づぐでねぇぞ」

 畑仕事をしているとき、ばあちゃんは遊んでいる俺の背中によくそう声をかけた。

「連れてかれっちまうからな」

「だれに?」

「ばあちゃんにも分がんね。なぁんかおっかねぇもんにだ」

「むかぁし、ここらで小学生が誘拐されたかんな」

 じいちゃんはそうつけ加えたけど、ばあちゃんの言う「おっかねぇもん」には、人間だけじゃない、クマやイノシシ、山や川、それから生きていない者まで全部含まれているように思えた。

 目に見えない何かを、ばあちゃんは見えないまま受け入れていた。家の近くのお地蔵さんに、夏になれば麦わら帽を、冬になれば俺が赤ん坊のころに着ていた子供服を着せてやる。俺に妹が生まれたときは、山神様を祀っているという近所の神社へ飛んで行って熱心に手を合わせていたし、いつだったか俺が「犬を飼いたい」とせがんだら、

「おきつねさまが嫌がっから、うちで犬は飼えね」

 なんて、まじめな顔で言っていた。庭の片隅にあるちいさなお稲荷さんのことだ。その代わり、猫なら平気だ、と近所の野良猫には餌をやってなつかせる。いまいち理屈が分からなかったけど、まあ、そういうもんなのかな、と俺は思った。

「境目ってもんがあんだよ、なんにでもな。そこを軽く見ちゃなんね。知らず知らずのうちに線を踏み越えっとな、必ずよぐねぇことが起ぎっから」

 相手に敬意をはらい、決して近づきすぎないこと。人でも、動物や自然でも、そのどれでもない何かでも。畑でとれた大玉のトマトを水場で洗いながら、ばあちゃんはそういう話をした。俺は半分も分からないまま、しわくちゃの手からトマトを受け取った。もぎたての、冷水の滴るぴかぴかしたトマトに、がぶりとかぶりつくのが俺は好きだった。

「うめぇが?」

「うんめぇ!」

「だべ。ばあちゃんが作ったかんな」

 霊感と呼ばれるものの類を俺がほんのすこし持っているのは、もしかしたら、ばあちゃんのそういう精神が幼い俺にしみこんでいたからかもしれない。

 家から山沿いに坂を登ったところに、沼尾さんという大家族のお屋敷がある。家主のげんじいはばあちゃんの尋常小学校時代の同級生で、農業のかたわら狩猟もやっていて、たまにシカやイノシシの肉を分けてくれた。俺はこの沼尾家に、ばあちゃんのお供としてたびたび足を運んだ。箱いっぱいの規格外の野菜を抱えて、陽炎の立つ坂道をふたりでうんうん言いながら上る。夏の暑い盛りには、ほんの数メートルの距離でも汗だくになった。

「ごめんくださぁい」

 インターホンは俺の知るかぎりずっと壊れているから、大声であいさつして玄関の引き戸をがらがら開ける。

「おう、シエちゃんにマサ坊か」

 汗っかきの源じいは、いつもうちわで顔をぱたぱた仰ぎながら出迎えてくれた。沼尾の家はいつだってにぎやかだった。源じいと奥さんのミネばあ、息子夫婦とちいさな孫たち、そしてなにより、九十歳を超えたおおばあがいた。

 おおばあは不思議な存在だった。ちゃぶ台を囲んでみんなで談笑しているところに、奥の部屋からぬぅっと現れ、輪に加わるでもなくすぅっとどこかへ行ってしまう。声を聞いたことはほとんどなかった。でも、俺が大人たちの会話に飽きて天井の太い梁をぼんやり見上げたり、扇風機越しに甲子園の中継をぼーっと眺めたりしていると、まるでその様子をどこからか見ていたように現れて、

「まあぐん、これ食べっせ」

 と、いちじくの甘露煮やらっきょうの甘酢漬けなんかを小皿に盛り、震える手でちゃぶ台に置く。そうしてまた、すぅっと廊下の方へ消えたり、からりと引き戸を開けて庭さきへ出て行ったりする。

「なんだか、ごめんね」

 おおばあと俺がささやかな接触をするたび、ミネばあや息子の嫁の夏実さんはちょっと申し訳なさそうな顔をした。育ち盛りの俺は出されたものはなんでも食べたけど、いちじくの甘露煮はどろりと甘くて、一個でも持て余した。なんだかおおばあそのものみたいだな、なんてこっそり思った。

 小学四年生の夏休みのことだった。親戚から桃が送られてきたので、沼尾の家にお裾分けすることにした。出かける直前になって、ばあちゃんに電話がかかってきた。なかなか終わらない電話にしびれをきらした俺は、桃のごろごろ入ったビニール袋を提げ、一足さきに坂を上りはじめた。

 その日はとくべつ暑かった。タンクトップのむき出しの肩に日差しが容赦なく照りつけて、吸いこむ空気までもうもうと熱気をはらんでいた。

 ワシャワシャワシャワシャ。

 山側の雑木林から、クマゼミの大合唱が雨のように降ってくる。それほど長くないはずの坂道が永遠みたいに感じられた。

 沼尾の家に着いたら、きんきんに冷えたジュース飲みてぇな。ミネばあの作る紫蘇ジュース、うまいんだよな。溶けそうな頭でそんなことを考えていたら、坂道のてっぺんからちいさな人影がひょいと現れ、こちらへ向かってくるのが見えた。

「あれ、おおばあ」

 背中をまるめて、でもしっかりとした足取りで、おおばあがすたすた坂を下りてくる。よく見ると花束を抱えていた。濃いピンク色の花だった。房状に寄りあつまってたわわに揺れる花は、カンカン照りの青空によく映えた。

「墓参りにでも行くの?」

 声をかけてもおおばあは足を緩めることなく、ただ、すれちがいざま、俺にちいさくお辞儀をした。

 すたすた、すたすた。大輪の花を大事そうに抱えながら、おおばあは坂を下っていく。

「桃、持ってくから、みんなで食ってね!」

 ビニール袋を持ちあげ、俺はおおばあのまるい背中にそう叫んだ。聞こえているのかいないのか、おおばあはふりかえりもせず、みるみる遠ざかっていった。

 坂を上りきったとき、ふと変だなと気づいた。妙に静かだ。沼尾の家の門をくぐると、いつもなら火がついたように吠えかかってくる猟犬たちが、犬小屋からじっと俺を見ていた。

「ごめんくださぁい」

 がらりと引き戸を開けても、なかなか出迎えがない。もしかして留守かな。もう一度声をかけようとしたとき、ようやく夏実さんが出てきた。目が腫れていた。

「あらあら、まあくん。いつもどうもね。あらまぁ、立派な桃をこんなに……」

 弱弱しく笑いながら、夏実さんはぼんやりと袋のなかを覗きこんだ。それから、そのまなざしを俺に移して、

「あのね、まあくん。おおばあちゃんが……」

「え?」

 廊下の奥からすすり泣きがきこえる。ふすまを開けると、沼尾の家の人たちが布団を取り囲んでいた。薄手のタオルケットをかけられて、おおばあは眠ってるみたいだった。

「さっき、息を引き取ったの」

「え、でも、いま、そこの坂で……」

 あのとき、沼尾の人たちが俺の話を信じてくれたのは、本当に幸運だったと思う。おおばあの持っていたピンクの花の正体は、沼尾家の裏手に立つ百日紅さるすべりの老木だった。幹は朽ちてもう何年も花をつけなかったのが、その夏は満開の花を咲かせ、おおばあは喜んでいたそうだ。

 俺がそういうものの姿をはっきり見たのは後にも先にもあのときだけで、今となっては全部が夢だったんじゃないかって思う。けど、今でも夏になると、沼尾の人たちはこの話をしておおばあを懐かしむから、やっぱり俺は死んだおおばあに会ったんだろう。それに、もしあれが幻覚か何かだったとしても、それで沼尾の人たちの悲しみがちょっとでも和らぐなら、本物かどうかなんてどうでもいいような気もする。


「なあなあ、うちの学校のプール、出るらしいぜ」

 部活を終えた帰り道、富士野がそんなことを言いだした。

「水泳部のやつから聞いたんだけどさ、夜中にパシャパシャ音がするんだって。で、プールを見ると、だれもいないのに水面が波打ってるんだって。まるで人が泳いでるみたいに!」

「ほんまにぃ?」

 いぶかしみながらも、きゅうちゃんは半袖の腕をさする。

「けど、いるとこにはいるらしいよね。うちの父親も研修さきの病院で死んだ患者さん見たことあるって」

 てっきり「幽霊なんて非科学的だ」なんて鼻で笑うかと思いきや、意外にも中林は肯定派だった。

「当直のときにさ、女の人が廊下歩いてるの見たんだって。あれ、あの患者さん、こないだ亡くならなかったっけ、って」

「マジで? その人、足あった?」

「そこまでは聞いてない」

 おおばあには足があったぞ。言わないけど。

「いいなあ、俺も一回くらいそういうの見てみたいなぁ」

 両手を頭の後ろで組み、富士野が空をあおぐ。

「あんた、めったなこと言うもんじゃないわよ」

「なによぉ、中林くんったらビビっちゃって。なあ、坂田?」

「一番怖いのは生きてる人間だけどね」

「やめて、おまえが言うと説得力あるから」

 銀行の角できゅうちゃんと別れ、橋のまえで中林と別れ、十字路で富士野と別れて、あとは坂田とふたり、並んで歩く道になる。日がずいぶん長くなった。田んぼの青々とした稲のうえを薄い水色のトンボが飛んでいる。シオカラトンボというのだと、いつか坂田が教えてくれた。

「そういえば、小学生のとき、変な場所に入りそうになったよね」

 坂田にそう言われて、最初はなんのことだか思い出せなかった。

「ほら、剣道の夏合宿で。俺が小六で、三谷が小五のとき」

「ああ。あの、林のなかの」

 夏休みの真っただ中だった。避暑地として知られる県北の高原地域に、二泊三日の合宿へ行った。最終日の前夜に線香花火をやろうということになって、二日目の夕方、俺は坂田と最寄りの商店へ花火セットを買いに出かけた。たしか、低学年のカズヤとトモナリもついてきた。宿泊所のおばちゃんに書いてもらった地図をたよりに、見知らぬのどかな田舎道を歩いた。夕方の五時を過ぎても、空はまだ昼間のように明るかった。

 無事に商店へたどり着き、花火セットを三つ買った、その帰り道。

「ねえ、道があるよ」

 二年生のカズヤが歩道沿いの雑木林を指さした。こんもりとした小山のなかに細い道が伸びている。

「緑のトンネルだ!」

 小道の入り口に立ち、一年生のトモナリが頭上を見あげてはしゃいだ。たしかに、道の両側に生い茂る木々が空を覆い、まるでトンネルみたいだった。柔らかな木漏れ日が全身に落ちてくる。好奇心旺盛なちびたちは、きゃっきゃと笑いながら小道を進んでいった。夕飯まではまだ時間があったし、俺と坂田もちょっとした冒険気分であとにつづいた。

 しばらく歩くと、平坦な地面が突然終わり、目の前に急な斜面と石の階段が現れた。そのへんの石を適当に積んだようなでこぼこの階段。おおよそ百段はありそうだ。上ったさきには何があるんだろう、そう階段のてっぺんを見あげたとき――。

 こつん、と何かがうなじに当たった。硬くて冷たい、小石のようなもの。勘違いじゃない。思わず「いてっ」と首筋を押さえるくらいには、はっきりとした感覚があった。でも、ふりむいてもだれも、何もいなかった。

「どうしたの?」

 となりに並ぶ坂田が、ふしぎそうに俺を見る。

「いや、なんか、今……」

 首をさすりながら正面に向きなおる。カズヤたちはもう階段を上りはじめていた。

「転ばないように気をつけろよ」

 ちびたちに声をかけ、階段の一段目に足をついた、その瞬間、足の裏から強烈な違和感が這いあがってきた。

 ――境目だ。

「おい、帰るぞ」

 とっさにそう叫んだ。階段の途中でカズヤが「ええ、なんで?」とふりかえる。なんで、って。ダメなんだよ。ここからさきは行っちゃダメなんだ。

 首筋が急に痛みだした。さっき、石ころが当たったから? ちがう。視線だ。だれかが俺を見ている。喉がからからに乾いていた。戻れ、戻れ。そう何度も叫んでいるのに、なぜだかちっとも声にならない。耳のなかでちびたちの甲高い笑い声が反響する。階段のむこうに薄く水で伸ばしたような空が見える。なんでこんなに寒いんだろう。ダメだ、行っちゃダメだ。だって、このさきは――。

「帰ろう」

 坂田の声がした。凛とした、柏手を打つような声だった。途端に周りの音が、色が、匂いが全身にわぁっと流れこんだ。小鳥のさえずり、植物の緑、土の香りにひたいを伝う汗の感覚も。

「先生が、夕飯までに戻らなかったら素振り百本だって」

 追い打ちをかけるように、坂田は言った。うそっぱちだ。でも、ちびたちには効果的だったようで、ふたりとも「えー」と抗議の声をあげながらもしぶしぶ階段を下りてきた。

「じゃあ、歩道まで競争」

 坂田のスタートの合図に、ちびたちは条件反射でもと来た道を駆けていく。俺たちも急ぎ足でそのあとを追った。

 雑木林を抜け、歩道まで戻ってきたとき、

「もう離していいよ」

 と坂田に言われ、俺はようやく、自分がずっと坂田の腕をつかんでいたことに気づいた。日焼けしてもなお白いその腕に、俺の生々しい手形が赤く残っていた。首の痛みは、いつのまにか引いていた。

 夕飯はすき焼きで、最高にうまかった。線香花火も楽しかった。楽しまなくちゃって思ってたんだ。あの説明のつかない出来事に、せっかくの合宿の思い出を台無しにされたくなったから。

 でも、風呂を済ませてあとは寝るばかりになったとき、やっぱりどうにも落ち着かなくなって、坂田に話したんだ。あの階段のまえでだれかに石を投げられたこと。それから、以前、死んだはずのおおばあを見たことも。

 あのとき、坂田はなんて言ったっけ。すごくホッとしたのは覚えてる。そうだ、何も言わなかったんだ。「そっか、ふしぎだね」って笑っただけで、うそだとか夢まぼろしだとか、そういうことは言わないでくれた。つまり、俺はここでもラッキーだったわけだ。翌朝にはすっかり気が晴れて、無事に合宿を終えることができた。

「結局、あの階段を上りきったら、何があったんだろうね」

 坂田がのんびりと懐かしむ。そういえば、あのころはまだ坂田の方がすこしだけ背が高かったな、なんて思いながら、

「さあ。廃れた神社とか墓地とか、そんな類じゃないか」

 と俺は答える。

「俺に石を投げたやつが忠告のつもりだったのか、それとも攻撃しようとしてたのかも分からないままだしな」

「それかでっかいカナブンがぶつかってきたか」

「よせ、そっちの方が怖ぇわ」

 あのあと日常に戻っても、とくに変わったことは起こらなかった。ただ、騒がしい教室や人通りの多い街中にいると、ふと「ああ、生きてるやつらのエネルギーってこんなに強いんだな」と思うようになった。色も音も匂いもむせ返りそうに濃くて、生きていないやつらの気配なんて簡単にかき消されてしまう。もし、そこにいるのに気づいてもらえないなら、それはどれだけの孤独だろう。

「俺が死んで幽霊になったら、おまえは気づいてくれるかな」

 とくに深い意味はなくそう言ってみたら、坂田は、

「えー、無理だよ」

 とけらけら笑った。

「俺、そういうの全然感じないもん。三谷なら、俺が幽霊になったら気づいてくれそうだけど」

「馬鹿、気づかねぇよ」

 俺は言った。

「坂田は死んでも幽霊にはなんねぇべ。この世に未練なんか残さず、あっさり次に行くだろ」

「えー。すこしくらい現世の余韻に浸らせてよ」

「なんなら死ぬ間際に、次は何に生まれ変わろうかなぁとか考えてそうだぞ」

「そういう穏やかな死に方ができたらいいよね」

「まぁな、でも、だれにも分かんないことだからな」

 生きている俺は、生きているやつらの放つものに日々もみくちゃにされて、それを信じたり疑ったりするので精一杯だ。見えない、聞こえない神様の存在なんて、知りようがない。そんなふうに思うとき、タオルケットをかけられたおおばあの皮膚の冷たさを思い出す。陽炎のゆらぐ坂、降りそそぐセミの声、玄関に漂う桃の香り、目の覚めるような百日紅の花の色。俺にとっては、そういうものたちの方がよっぽど確かな存在だ。だから、神様なんかいない。すくなくとも、心から信じきれるほどの神様は俺にはいない。いないけど、俺は明日もまた仏壇に手を合わせるし、神社や神棚には礼をして、ときどき境目を踏み越えないように気を配るんだろう。勝手かな。でも、それくらいの距離がちょうどいいんだ。

 田んぼの稲のさざめく音がする。薄らいだ空に白い月が見える。明日も暑くなりそう、と坂田がつぶやく。

 もうすぐ夏休みだ。

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