4.さなぎ (三木頼子)

 あ、ゆっこ! こっち、こっち!

 ひさしぶりー。ううん、わたしもさっき来たとこ。このお店の入り口、ちょっと分かりづらいよね。道路、混んでた? え、浅沼の生徒いたの? うわあ、よかった、遭遇しなくて。そりゃあ嫌だよ、学校の外で鉢合わせは。せんせー、こないだベニマルでブロッコリー見てたでしょ、とか言われるんだよ。恥ずかしいわあ。あ、お料理、頼んじゃおっか。とりあえず、サラダと……お、いいね、ローストポーク。マンガリッツァ豚だって、どこの豚なんだろ。え、まって、ここギネスあるの? おっしゃれー、これにしよ。ゆっこはノンアルにする?

 ……そうよー。ちゃんと先生してますよ。いや、ちゃんと、じゃないな。どうにかこうにか。生徒の扱いも難しいけど、ほかの先生との人間関係もね。職員室で一番若いの、わたしなのよ。若いっていうほど若くもないんだけどね。そうなのー。先週、ついに三十歳になりました。あはは、ありがとう。ゆっこも四月に誕生日迎えたもんね。よーし、じゃあ、三十路の大台に乗ったわたしたちに、かんぱーい。

 剣道部の子たち? 元気だよー。みんな待ってるよ、ゆっこのこと。ていうか、赤ちゃん、見たいって。ふふ。えー、部外者じゃないよ、立派に浅沼剣道部のOGじゃない。ゆっこが来てくれて、本当に助かったんだから。大学で薙刀かじってたってだけで剣道部の顧問になっちゃったときは、本気で頭抱えたもん。いやいや、そりゃ同じ武道ですけども、って。もうこのまま監督に就任しちゃってよ、ゆっこさん。

 今日、娘ちゃんは? そっかあ、旦那さんが協力的だと助かるね。仕事は……え、もう来月から? イヤァ、厳しい。わたしならがっつり二年は休んじゃうかも。だって、出産なんて人生の大仕事やりとげたんだよ。正直、残りの人生、全部休みたいくらい……。あはは、そうだよね、産んで終わりじゃないもんね。むしろ、第二ラウンドの始まりか。

 えー、そんなイヤミ言われたの? 衝撃。ゆっこの職場って女の人が多いから、そういうことにも理解あるんだろうなって思ってた。……ああ、お局さま。悲しいねえ。子育てしたことある人に言われたらね。甘えてる、かあ。あれかな、ものすごい苦労を経験すると、他の人にも同じだけの苦労を味わってもらわなきゃ納得いかないのかな。

 なんにせよ、赤ちゃん、無事に産まれてよかったよ。ていうか、ゆっこが何事もなくてよかった。うちの母、わたしを生んだときは陣痛きてから出産まで丸一日かかったし、妹のときなんてソーハクで母子ともに死にかけたもん。あ、そっちの蒼白じゃなくて、早期胎盤剥離。怖がらせると思って言わなかったけどさ。だから、本当によかった。……やだ、泣かないでよ。ほら、もっとお肉食べな。マルガリータ、じゃなくてなんだっけ、そうそれ、マンガリッツァ。

 わたし? あるある、言われたこと。「独身の若い女の先生が、中学生をきちんと指導できるのかしら」みたいな。三年生の担任になったら、今度は「三木先生はおつきあいされてる方はいらっしゃるの?」って。要するに、受験生の担任が産休に入られたら困るって話。「おほほ、まだ相手すらおりませんわ」なんて返したら、「あら、それはそれでどうかしらね」ですって。もー、わたしゃどうしたらいいんじゃー!

 いい人、ねえ……。いまの職場にはいないかな。うちの職員室、おじさんばっかりだもん。ひとりだけ三十半ばの男の先生がいるけど、これがまたさあ! 「三木先生って、どこの大学出身でしたっけ? ああ、あそこね。ふうん」みたいな。そう、学歴主義。筋金入りだよ。「まあ、でも、頭の良すぎる女性は可愛げがないですからね。その点、三木先生はとても魅力的な人ですよ」だとさ。もうね、腹が立つのを通りこして笑いがこみあげてきちゃった。人を見下す人って、自分に自信がないんだよ。だから、学歴やら職業やら、自分を強く見せてくれるアイテムにすがるんでしょうね。どこを出たかじゃなくて、何ができるかが大切なのにね。

 うん、生徒はかわいいよ。毎日、事件の連続だけど。中学生って、さなぎだと思うの。小学生はまだ自分の形もうまく認識できないもぞもぞの芋虫で、高校生は羽を手に入れていよいよ飛び立とうとするチョウチョ。でも、中学生の三年間は、色も形も一秒ごとにぐんぐん変わっていく。ほんのすこしまえの「自分」はいったいだれだったのか、ほんのすこし先の「自分」は何になろうとしているのか、ほとんどのことをちゃんと言葉にできないまま、白黒で鮮やかな世界を急降下で昇っていくの。わたしたちもきっとそうだったんだろうけど、もう、うまく思いだせないよね。……え、なに? 表現力? やだあ、恥ずかしい。だめね、国語教師やってるとこういうところに弊害が……。ちょっと、ミキポエムってなによ、ダサいわ。

 そういえば、このまえ、まさに剣道部で事件があったよ。ゆっこが産休のあいだ、稽古には塩手しおて先生がいらしてくださってたのね。うん、あのおじいちゃん先生。でさ、五月の終わりに、いっとき真夏日みたいな暑い日がつづいたじゃない。わたし、生徒より塩手先生の方が熱中症になるんじゃないかと思って、まめに様子を見に行ってたの。そしたら、火曜日だっけかな、体育館に入ったとたん、人だかりが目に飛びこんできて。焦ったよぉ、ついに塩ジイが倒れたのかと思った。でも、よくよく見たら塩手先生はぴんぴんしてるのね。まあ、それはそれでなによりだったんだけど。

 じゃあ、だれが具合悪いのかしらって寄っていったら、川真田かわまたさんだったの。そうそう、二年生の女の子。周りの子に聞いたら、基礎練中に突然うずくまっちゃったらしくて。とりあえず、防具を全部外して、「どうしたの? 気持ち悪い? おなか痛い?」ってみんなで声をかけるんだけど、川真田さんは、こう、腰を抑えて呼吸するのも精いっぱいな感じで。正直、わたしもけっこう動揺したのね。これ、救急車呼ぶべきかしら、って。

 そしたら、三年生の中林くんが——そう、あの背の高い眼鏡の——彼がススッとわたしの後ろに寄ってきて、ちいさい声で言ったのよ。「先生、これ、生理痛なんじゃないの」って。

 いや、たまげたさ。男子がふつうそこに思い当たる? しかも、実際その通りだったんだから。紺袴だったのが不幸中の幸い。保健室で事情を聞いたら、稽古が始まってすぐに生理がきたって気づいたものの、言いだせなかったんですって。二年生って、女子部員、ふたりしかいないでしょう。もうひとりの子がたまたま風邪でお休みしてたの。三年生に女子はいないし、一年生に頼るのも申し訳なくて、どうしようどうしようって思ってるうちに、どんどん体調が悪くなって倒れちゃった、って。うん、ゆっこやわたしがその場にいたら、結果はちがったと思う。みんなのまえでこんなおおごとになって恥ずかしいって、川真田さん、全然泣きやんでくれなくて。

 そのときね、ガラッと保健室の扉が開いたの。だれが入ってきたと思う? そう、中林くん。あの背の高い眼鏡の。胴着姿のまま、はだしでぺたぺた入ってきたと思ったら、「あの、これ、川真田の荷物」ってキーホルダーじゃらじゃら付けたかばんをドサッと机に置いてさ。いやもう、落ち着いてるっていうか、「はいこれ、今日の朝刊」みたいな口調よ。「あ、俺が女子更衣室入ったわけじゃないから」なんて、笑ってるのか笑ってないのかよく分かんない顔で言ってさ。で、そのまま戻るのかと思ったら、彼、川真田さんの近くにすたすた寄っていって、「川真田、薬とか飲んでるの?」「薬飲んでてもそんなに重いって、それ、なんか病気になってんじゃないの」

 あのねえ、お医者さんちの子なのよ。……そう! 中林レディースクリニック! ゆっこ、知ってるの? へぇ、けっこう有名なんだ。そのうえ、お姉さんがふたりいて、そういう話もおうちでかなりオープンなんですって。「生理用品、しょっちゅう買いに行かされますよ。テキトーなの買ってくるといっしょに顰蹙ひんしゅくまで買っちゃうんですよね」なんて、淡々と言うんだから。もちろん、あんな子はかなりのレアケースだとは思うけどね。いくら家が医者でも女きょうだいがいても、ふつうはあそこまで理解力育たないもの。

 川真田さんね、たしかに稽古を休みがちだったんだよね。欠席の理由はいつも風邪か体調不良で、わたしも額面通りに取ってしまってたけど、ほとんど生理痛かPMSが原因だったんですって。わたし、自分が中学生のころはそんなにひどくなかったから、症状の重い子がいるって思い至れなくて。うん。保健室の先生が話してくれた。「そこまで症状がひどいなら、明日にでも病院に行った方がいい」って。

 そしたらね、川真田さん、首をぶんぶん横にふって、親にも言わないでほしいって訴えてきたの。そう、それ。産婦人科に行くのがイヤ。制服姿で入ったら、どう思われるか分からない、って。実際はさ、妊婦さんだけが行く場所ではないじゃない。それでも、そういえばわたしも、たしかにあの科だけはなんとなく行きづらかったな、って自分の若いころを思いだしちゃったのよね。うしろめたいような、恥ずかしいような。なんなんだろうね、あの気持ち。

 どうしようかしらって保健室の先生と顔を見合わせてたら……そう、また扉がガラッと開いて、今度はだれが入ってきたと思う? うふふ、はずれー。部長の三谷くんと、坂田くん。いつのまにか稽古も終わってたのね。三谷くんが「ほれ」って中林くんにかばんと着替えを押しつけて、そこまではいいのよ。そのあとね、彼、くるっと川真田さんの方をふりかえって、いきなりがばーっと頭を下げたの。「川真田、すまんかった!」って。

 でしょ? さすがに限界があると思うのよ、男子が女子部員の体調まで気遣えっていうのは。だけど、三谷くんは実際に倒れた後輩を見て、部長として責任を感じたみたい。これには川真田さんの涙もひっこんじゃってさ。「すまんかった」「いいえわたしこそ」「いいや俺の方がすまんかった」のくりかえし。ちょっとコントみたいだったよ。笑っちゃいけないけど。

 そんなことしてたら、今度はふたりの謝り合戦を見守ってた坂田くんが、ふらーっと机に近づいて、置いてあったナプキンの袋をひょいっと手に取ったの。「先生、これどうやって使うんですか?」って。「一個出していいですか?」「開けていいですか?」「これぺたぺたしてる方が裏ですか?」「羽つきってなんですか?」「多い日ってどれくらい?」

 吸収力がすごいのよ。いや、ナプキンの話じゃなくて。坂田くん、あの子はねぇ、気取らないんだよね、疑問を持つことに対して。もう、保健室の先生が喜んじゃってさ。急きょ、保健の授業が始まっちゃったわけ。けっこう盛りあがったよー。みんな真剣だった。自然と病気の話にもなって……そうだ、それで川真田さんの説得に戻ったの。

 先生がね、話してくれたの。「先生のお友達で、病院へ行かなかったせいで、十九歳で亡くなった子がいたよ」って。そのお友達もなんとなく産婦人科を受診しづらくて、ずるずる放置してたら、あっというまに。子宮癌だった、って。まあ、その話を聞いて一番うろたえてたのは三谷くんだったけどね。「川真田、頼むから病院行ってくれー!」って、もう土下座するいきおい。川真田さんも最後は笑顔になってたな。あれはどっちかっていうと三谷くんに説得されたようなものかも。

 わたしね、あの日の保健室で思いだしたことがあるんだ。小学六年生のころ、女子だけ保健室にこっそり呼ばれて、生理について教えられたでしょう。そのとき、ナプキン一枚ずつ配られなかった? わたしの小学校では配られたのね、ちっちゃい巾着袋に入れられて。

 その日、わたし、日直当番でさ。ライガくんっていう、クラスではお調子者キャラの男の子とペアで……あ、名前なのよ、ライガっていう。めずらしいからみんなそう呼んでて、苗字は、なんだったろう、もう忘れちゃった。で、そのライガくんと放課後、教室に残って日誌つけてたの。日誌にコメント欄ってあったじゃない。ライガくんは大きな文字で「今日も一日がんばりました」とかテキトーに済ましてるのに、わたしはついいろんなことを長々と書いてしまってて。ライガくんはライガくんで、なんだっけあの、チョコレート菓子に付いてた四角いキャラクターシール。神様とかモンスターの絵が描いてある、あったよね、男子がよく集めてたやつ。あのシールをわたしの机の端に並べて、「これ、なんて名前でしょー?」って日誌のうえに一枚一枚置いてくるの。「ぶぶー、ナントカゼウスでしたー」とか言って。ちょっかい出さなきゃ早く帰れるのにね。

 ようやく日誌を書き終わって、先生に出しに行こうかってなったときに、ライガくん、急にもじもじしだしてさ。どうしたの、早く提出して帰ろうよ、って急かしても、へらへら笑うばっかりで。不思議に思いながら、ランドセルに筆箱を入れたとき、彼、机のうえのシールに目を落としたまま、ぼそっと言ったの。「それ、セーリのやつ?」って。

 保健室でもらった巾着がランドセルからのぞいてたんだ。いまでも覚えてる。新品なのにしわしわの、しなびたリンゴみたいな巾着。「それ、見せて」って言われて、わたし、「ダメだよ」って咄嗟にランドセルを閉めちゃったの。

 ライガくん、机から顔を上げずに、ずーっとへらへら笑ってた。笑いながら、真剣にわたしに聞いてた。「なんでダメなの」「血がドバーッて出るんでしょ」……いまなら分かるんだ。そうやって笑ってごまかしでもしなきゃ聞けないことだったんだって。キラキラ反射するシールを指ではじきながら、机の傷や落書きを気にするふりして、あのとき、ライガくんのこころの目は、わたしがランドセルに隠した巾着の中身だけを見つめてた。

 だけど、わたしも必死だったんだよね。突然大人から手渡された、自分自身よく分かってない秘密を守ることに。「ダメだからダメなんだよ」「男子はその話、しちゃいけないんだよ」って、彼と同じように一生懸命笑ってごまかして。

 あのときのことを保健室で思いだして、わたし、いまここにライガくんがいたらなって思った。生理用品を取り囲んであけすけに質問する男子中学生のなかに、黒いランドセルが背伸びしてる姿を重ねちゃった。わたしたちがこどものころは、触れようとすることさえ恥ずかしいって感じさせる空気が漂ってて、わたしは当たり前にそれを吸ってたけど、いつのまにかずいぶん薄れていたんだなって。

 うん、ちょっとショックだったかも。でも、救われた気もする。わたしたちの世代がからがってることさえ気づかなった空気を、いまの子たちはあんなにあっさりほどいてしまえるんだね。ああ、あの息苦しさは気のせいなんかじゃなかったんだなって、彼らが目のまえで証明してくれた。あの子たちの背中を見てね、わたしたちは、時代っていう途方もなく大きなさなぎのなかを生きていて、いろんなことが少しずつ移り変わっていってるんだなって、そう思った。そして、これから時代のてっぺんへ飛び立っていくのが彼らなんだよね。きっと見たこともないチョウチョになるんだろうな。……え? なに、ポエム? うそ、ミキポエム出てた? やだぁ、もう、忘れて忘れて。

 そうそう、ゆっこが教えてくれた鍔止つばどめ。こないだ、剣道部の三年生にプレゼントしたよ。あれ、素敵ねえ。わたし、鍔止めって茶色いプラスチックのやつしか知らなかったから、あんなしゃれたのがあるとは思わなかった。刺繍の糸が黒地によく映えて。けど、派手じゃないから今度の大会でも使えるね。刺繍糸の色、たくさん種類があって迷っちゃった。和名表記なのがまたかっこいいよね。どの色を買おうか、三年生の顔を思い浮かべながら三十分くらい悩んだよ。店主のおじさん、絶対不審がってたと思う。

 ううん、好きな色、選ばせた。でも、結局、わたしがイメージしたとおりの色をそれぞれ選んだからびっくりしちゃった。三谷くんはくれない色、坂田くんは青、富士野くんは向日葵ひまわり色……ふふ、っぽいでしょ? それから、きゅうちゃ、じゃない、佐藤くんがうぐいす色で、中林くんが藤紫。みんな喜んでくれたよー。戦隊モノみたいだってはしゃいでた。男の子だよねぇ。でも、富士野くんが「戦隊シリーズに紫っていなくない?」って言ったら、中林くんったら、「セーラームーンではほたるちゃんだよ」なんてさらっと返してんの。ほんと、お姉さんたちの英才教育は見事に成功してるわ。

 ごめん、わたしばっかり喋っちゃった。そうだね、なにか追加で頼もうか。あ、これなんてどう? えーっと、うめ、やま、ぶたの煮込みハンバーグ。メイシャントン? これで梅山豚めいしゃんとんって読むの? さっすが、お肉大好きゆっこ先生。わたし、もう一杯飲んじゃお。すいませーん、注文お願いしまーす。

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