6.透明彗星 (香坂陽子)

 図書館のかたすみに、今日もあの人は来ている。

 一般図書のフロアに入って左、奥から四列目の本棚。中学生であの棚の本を読んでいるのは、僕くらいだと思ってた。

 ページに目を落とす彼の顔は、いつも静かだ。ときどき、人差し指がうすい唇をなでるだけで、その表情は晴れも曇りもしない。ただ、本をぱたんと閉じたあと、棚にそれをもどしながら、あの人はいつも唇を噛む。目をすがめるでも、眉根をよせるでもなく、全然困ってなさそうな顔で、唇だけをいつもそっと噛みしめている。

 坂田くんの姿を見かけるようになったのは、三年生にあがって図書館で勉強するようになってからだ。最初は見ず知らずの他校生だと思ってた。でも、あるとき彼が見覚えのある高校生を「なちさん」と呼び、高校生に「なおや」と呼ばれているのを見て、『坂田直也』という名前が記憶の底からふっと浮かびあがった。そうか、あの人が坂田くんだったのか。

「四組の坂田、転校したらしいよ」

「ああ、剣道部のいじめ?」

「先輩に目ぇつけられたんだって」

「かわいそ。三年にやばいやついるって話、本当だったんだ」

「やばいっていえばさ、三年の君嶋那智って先輩、ホモらしいぞ」

「え、あの俳優の君嶋翔馬の弟って人?」

「なんか、修学旅行でフォークソング部の三年に告ったとか」

「だれその告られた先輩、顔見たい」

「怖ぇー、俺、君嶋さんと委員会おなじなんだけど」

「おまえのケツなんかだれも狙わねぇよ」

「なあ、フォークの三年の男ってだれ?」

「この時期に転校ってビミョーだよね」

「友達できなそ。またいじめられるんじゃね」

「なあなあ、フォークの三年の男ってだれ?」

 教室って、うわさ話の渦みたいだ。みんながおなじ方向にぐるぐる回って、どんどんスピードがあがっていく。流れに乗れば乗るほど楽しい。さからうなんて馬鹿みたい。

 四組の坂田、転校したらしいよ。

 流れに乗れなかったその人は、結局、渦の外側に押しやられてしまった。いなくなってからいたことを知った。話したこともない、顔も知らない同級生。だけど、もしかしたら廊下ですれちがっていたかもしれない。三年間のうちにおなじクラスになったかもしれない。友達になっていたかもしれない。そう思うと、彼がここにいないことがふしぎだった。教室から机がひとつなくなろうが、僕たちの学校生活はすこしも速度を緩めなくて、毎日が息つくひまもなく積みあがっていく。いない人の数を数えたってなんにもならない。それなのに、『坂田直也』という名前のひとりぶんの空っぽは、増えていく思い出の一番下に埋もれながら、僕のなかから消えることはなかった。


 帰りのホームルームがおわると、僕は友達と別れてひとり下校する。仲のいい子はみんな部活をやっていて、いっしょに帰れる日はすくない。でも、部活に入らなかったことを後悔してはいない。家に帰って、一刻も早く制服を脱ぎたかったから。赤いリボン、丸襟のブラウス、紺のプリーツスカート。三年目になっても、僕になじまない物たち。

 黒いジャージに着替えて、川沿いを学校と反対方向に走る。金八先生のドラマに出てくる『鶴本直つるもとなお』みたいに。走るのは好きだった。ただ、胸が揺れるのが煩わしい。直がやるようにさらしを巻けたらいいんだけど、何度やってもずり落ちてしまった。妥協のスポーツブラは、ぼんやりとした屈辱。

「わたしは女じゃない!」

 クラスメイト全員のまえで、鶴本直はそう叫んだ。かっこよかったなぁ。走りながら、上戸彩ちゃんの迫真の演技を思いかえす。僕も叫びたい。僕は女じゃない、って。でも、ことばが口のなかで毛玉みたいに絡まって、いつもうまく吐きだせない。カミングアウトが怖いんじゃないんだ。そうじゃなくて、それ以前の問題で、無視できない違和感が僕を引きとめている。

 鶴本直はこうつづける。

「わたしは、男だ」

 僕は?

 僕は、男だろうか。

 ものごころついたころから、僕は自分を「僕」と呼ぶ。怪訝な顔をされるから、だんだん大人のまえでは「わたし」、友達のまえでは「うち」と言ってごまかすようになったけど、それでも僕には「僕」が一番しっくりなじんでいる。

 女の自分のなかにいる男の自分とか、そういう別人格があるわけじゃない。むしろ、そういうものの境目、男と女を分ける境界線みたいなものが、僕にはよく見えなかった。「僕」は男の子のことばだと言われても、そうは言っても僕は「僕」だし、ピンクも、野球も、バレエも、お花屋さんもパイロットも、ふたつある箱のどちらかに周りがすいすい入れていくのを見ながら、だけど友達のエリカちゃんはプラモデルを作るのが上手なんだよねとか、トシくんはバレンタインデーにチョコブラウニーを作ってクラスで配ってたなとか、そんな『例外』を思い浮かべずにはいられなかった。まさかその箱に自分自身を分別しなきゃならなくなるなんて、小学生のころは思いもしなかった。

 中学校にあがると、僕たちは何につけても男女に分けられるようになる。制服も、体育の授業も、グループも、体の成長も。周りの子はその変化をあたりまえのように受け入れていた。それどころか、自分たちのほうから積極的に分かれたがっているように見えた。女の子の適応はとくにめざましかった。片思いしてる男子のこと、こっそり試したマニキュア、雑誌で知ったバストアップの体操、そんな話が毎日、教室のどこかでささやかれる。スカートをはくこと、大きな胸やくびれに憧れること、かわいい下着を身につけること、男の子を好いて男の子に好かれること、つまり自分が「女の子」であることを、彼女たちは自然にモノにしていた。いちいちとまどってるのは僕だけだった。まるで女の子になるためのマニュアルがあって、自分だけがそれを手渡されてないみたいに、僕はほかの女の子たちとうまく同化できなかった。

 男子はみんな気さくで優しかった。どの女子のおっぱいが大きいとか、品評じみた会話に僕が背伸びして首をつっこんでも、いやな顔ひとつせず輪のなかに入れてくれた。

香坂こうさかと話してると、男と話してるみたいだ」

 そんなことばに何度も舞いあがった。居心地がよかった。だけど、彼らは歩調をあわせてくれてるようで、いつだって僕よりずっとまえを走ってた。僕はスタートの時点から、言いかえれば染色体のレベルから彼らに遅れをとっていて、その途方もない距離を会話の端々に感じてしまうかぎり、いくら寛大に受け入れられてもおこぼれにあずかっている感はぬぐえなかった。なにより、下世話な品評会の輪からぬけだせば、僕もまたひとりの女子として男子たちに胸だの顔だのを評価されていると気づいたとき、ことの不毛さに笑ってしまった。

 川沿いから離れ、図書館へむかう。建物のまえをよこぎり、併設された広い公園を通りぬけるのがお決まりのランニングコース。今日は、あの人は来てるかな。本を探しに寄ろうかとも思ったけど、やっぱりやめた。

 『三年B組金八先生』、第六シリーズ。あのドラマが放送されて、『性同一性障害』ということばはあっというまに世間にひろまったと思う。ドラマの影響かはわからないけど、関連の本は図書館にもすこしだけ並んでいた。一般図書のフロアに入って左、奥から四列目、『性・ジェンダー』の本棚。

「小学校に入学するとき、赤いランドセルを与えられてすごくショックでした」

「花柄のワンピースがきらいで、男の子とばかり泥んこになって遊んでいました」

「いつか自分にもおちんちんが生えてくると信じていました」

 本のなかに登場する「女の体に生まれた男」の人たちは、鶴本直によく似ていた。みんな、判で押したように、男の子らしさを強調したがっていた。

 五月の連休まえだったかな。普段は人気ひとけのないあの本棚のまえに先客がいて、めずらしいなと思ったんだ。おなじくらいの年の男の子だった。それ以上は気にかけず、となりに並んで本を探した。そのまま本を読むのに没頭しているうちに、彼はいつのまにかいなくなっていた。

 その日から、図書館で彼の姿をよく見かけるようになった。土曜日は背の高い高校生といっしょにいることが多かった。たまにふたりで小説コーナーの文庫本を選んでいた。君嶋先輩といるとき、坂田くんは絶対にあの本棚のまえには来なかった。彼が僕のとなりに並ぶのはきまってひとりのときで、ページをめくるその顔は、いつもしんと静まりかえった冬の湖みたいだった。

 坂田くんと話せたらな。

 公園で遊ぶ親子連れを横目に、もう何度も考えたことがまた頭をよぎった。聞いてみたいことがある。聞いてほしいことがある。でも、そんな気がするだけかもしれない。本当は話したいことなんてひとつもないのかもしれない。

 公園を出たところで赤信号にひっかかった。立ちどまると足が重くなるから、しかたなくその場で足踏みする。すこし遅れて、となりにだれかの立つ気配がした。なんとなくそちらを見やると、ふさふさの尻尾が目に飛びこんできた。

 中くらいの犬がおすわりして僕を見あげていた。黒と茶色のむくむくの毛、長い鼻、半端に折れた耳。純粋ってことばがぴったりな瞳におもわず頬がゆるんだ。ちいさく手を振ってみると、犬もじっと僕を見つめ返す。長いしっぽがぱったぱったと妙にゆったりしたリズムで歩道をたたいた。そのうち犬はおすわりをやめ、ぬうっと首を伸ばしてきた。浮かしかけた前あしは飛びつきたいサインかな。ひとつひとつの動作がやたらスローな子だ。

「ボク」

 飼い主が犬のリードをやんわり引いた。顔をあげて、僕の足踏みはとまってしまった。

「すいません」

 愛犬をそっと自分のほうへ引きよせて、坂田くんはかるく頭をさげた。

 なんとかって彗星が地球に最接近。すこしまえにテレビで話題になってたニュース。最初に頭に浮かんだのがそれだったから、僕はだいぶ混乱してたんだと思う。

 目のまえに坂田くんがいる。いつだって薄暗い書架の通路でしかとなりあわなかった人が、いま、明るい日差しのしたでのんきに犬なんか連れてすぐそこにいる。鼻の奥がつんとした。赤の他人だ。でも、話がしたいな。話せないかな。だって、僕たちはたぶん、ほかの人が持ってないおそろいを持ってる。

「……かわいいわんちゃんですね」

 のどから声をしぼりだした。犬の散歩中の人にかけることばなんてそれくらいしかない。蚊の鳴くような声だったけど、坂田くんはちゃんと拾ってくれて、「あ、どうも」とへらっと笑った。大丈夫。大丈夫だ。おんぼろの舟を漕ぎだすように、僕は慎重にことばをつないだ。

「この子の名前、なんていうんですか」

「ボクです」

 僕?

「男の子?」

「いえ、雌です」

「女の子なのに、僕なんですか」

 いやいやいや、どの口がそれを言うんだよ。自分で自分にショックを受ける。坂田くんは、けれど、僕の内心など露知らず、けろりと答えた。

「そっちの僕じゃなくて、牧場の牧です」

「牧場」

「はい。牧場からもらってきたので」

「……なるほど」

 信号が青に変わった。なんとなく会話の途切れたまま、僕たちは歩きだした。

 この横断歩道を渡りきったら、きっと僕たちは会釈なんかして別れてしまう。いやだな。でも、もう充分なんじゃないの。これ以上は贅沢だよ。ああ、だけど、もうすこしだけ近づきたいな。足もとの横断歩道の縞模様みたいに、正反対の気持ちが交互によせてくる。青信号が点滅しだした。急ぎたくないのに急ぎ足になる。ここの信号は「待った」ばかり長くて、進む時間はすこししか与えてくれない。

「あの」

 シューズのかかとが歩道についたとき、声が出ていた。

「坂田くん、ですよね」

 坂田くんは足をとめ、こちらをふりむいた。初めてまっすぐ目があった。ふしぎだ。いままでずっと、並んでもお互いまえだけを見ていたから。肩がふれあうほどとなりにいるのに、まるでだれもいないようなそぶりで、ひとり同士、あの本棚のまえにいたから。

「あ、あの」

 鶴本直は叫んだ。

 わたしは女じゃない。わたしは男だ。

 僕も叫びたい。

 制服のスカートがきらいだ。胸のふくらみがきらいだ。陽子ようこの“子”がきらいだ。

 僕は女じゃない。

 僕は、

「あの、おれ、香坂っていいます。香坂、陽です」

 声が震えている。でも、自分では気づかないふりをする。

「覚えてないかな。絹川中でおなじ学年だったんです。おれは一組だったから、話したことなかったと思うけど」

 ハンバーグの具をこねるみたいに、うそとほんとをぐちゃぐちゃに混ぜる。大丈夫だ。いままで何度も男子にまちがえられてきた。背はあんまり高くないけど、坂田くんだって小柄だ。同い年で声変りしてない男子もまだいる。髪は短いし、胸もジャージを着てればごまかせる。大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 坂田くんは僕の顔をじっと見つめた。犬のボクが飼い主を見あげてふらふらしっぽをふっている。なかなか返ってこない反応に、冷たい後悔がじわじわと胸にしみた。ああ、やっぱり背伸びなんかしなきゃよかった。きっとばれてしまう。言われてしまう。きみ、女の子だよね、って。

 真顔で固まっていた坂田くんは、コンビニのレジがジジジッとレシートを吐きだすように、ようやく口をひらいた。

「……幸次郎、元気ですか」

「コウジロウ?」

 拍子抜けしておもわず高い声が出てしまった。あわてて咳払いする僕のことなどおかまいなしに、坂田くんはこちらへ歩みよった。

菊地きくちくん。菊地幸次郎くん。剣道部の」

「ああ」

 話がつながって、僕は首をぶんぶんたてにふった。声も体もデカくて暑苦しい菊地がクラスメイトであることに、いまほど感謝した瞬間はない。

「元気ですよ。おなじクラスです。剣道部の副部長やってますよ」

 僕のことばを聞いて、坂田くんは、

「そっか」

 と眉尻を下げた。嬉しいのか悲しいのかよくわからない笑い方だった。

「受験勉強ですか」

「え?」

「よく図書館に来てますよね」

 僕のことをきいてるんだと気づくのに数秒かかった。急な方向転換にふり落とされそうになる。菊地のことはもういいのかな。

「あ、はい、まあ」

「ですよね。俺もです」

「えっと、坂田くんは、志望校どこですか」

「俺、瀧高です」

 公立の男子校だ。県内の男子校のなかで一番難しい。いいな、と思った。そこに僕も行けたらいいのに。

「あ、おれも、瀧高、目指してます」

 舌のうえがざらざらする。なんでだろう。うそをついてるからかな。でも、これって本当にうそなんだろうか。自分のことも自由に呼べない、スカートをはいた女の子の「香坂陽子」のほうが、よっぽどうそなんじゃないのか。

「じゃあ、合格したら今度こそ同級生だね」

 そう言って屈託なく笑う坂田くんに、僕はうなずいた。うなずくだけでせいいっぱいだった。

「あの、おれ、あっちなんで」

 でたらめな方角を指さして走りだそうとすると、

「あ、うん」

 坂田くんは犬の頭を撫でながら、ちいさく手をふった。

「じゃあ、また、図書館で」

 ろくに返事もせず、僕は駆けだした。ふりかえることもできなかった。走った。ペースなんか考えず、川沿いの青々とした桜並木のしたを全力で走った。

 息が切れて、足をとめたら、涙があふれた。土手に下り、芝生のうえに倒れこむようにして寝転がる。ぼやけた視界に真っ青な空がひろがった。草の香り。川遊びをする小学生たちの声がかすかにきこえる。

「おれ」

 涙をぬぐい、僕はそっとつぶやいた。男子たちが呼吸をするように使うその一人称は、ぶかぶかの真新しい学ランみたいで、でも、「わたし」よりずっと着心地がよかった。

 ありのままでいいってみんな言う。あなたはあなただからってみんな言う。かんたんに言う。だけど、ありのままってなんだ。自分らしくってどういうことだ。テレビ画面のなかの鶴本直は、僕の疑問にまでは答えてくれなかった。教室を見まわしても仲間らしい人は見あたらない。だから、本を読んだ。僕を表す名前がほしかった。自分の立っている場所に本当に地面があるのか知りたかった。

「赤いランドセルを与えられてすごくショックでした」

「花柄のワンピースがきらいで、男の子とばかり遊んでいました」

「おちんちんが生えてくると信じていました」

 僕は、男の子と泥んこになって遊ばなかった。野球にも電車にもプラモデルにも興味がなかった。おちんちんが生えてくると信じてもいなかった。田舎のおばあちゃんに買ってもらった赤いランドセルが好きだった。ピンクのクレヨンが好きだった。花柄ワンピースがお気に入りだった。そこにコテコテの「女の子」のラベルが貼られていると知るまで、僕はたしかにそれらが好きだった。

 それでも、僕は男だろうか。自分を女じゃないと感じる人は、イコール男ってことになるんだろうか。鶴本直とおなじように『性同一性障害』を名乗ってもいいのか。それともただの「ナンチャッテ」なのかな。もしそうだとしたら、僕はどこへ行けばいいんだろう。性はグラデーション、なんて言うけど、結局は男と女ばっかりだ。どっちにもなりきれないこころは、いったいどこに置いたらいいんだろう。

 オレンジ色のちょうちょが鼻先をひらひらよこぎって、僕は体を起こした。春がおわってもまだ飛んでるんだな。ちょうちょは芝生のうえを遊ぶように舞い、そのうち見えなくなった。目のまえを流れる川は、なにも知らない顔で空を映している。

 男に告白した男の先輩のとなりで、坂田くんは笑ってる。笑ってるのに、あの本棚のまえに立つときは、いつもひとり、唇を噛んでいる。

「どこにいるんだろうね、僕たちは」

 川にむかってつぶやくと、僕は立ちあがった。

 なにを打ち明ければいいのか、それすらまだ、ことばに直せない。だから、やっぱり話したいことなんかないんだと思う。でも、それならせめて見せてほしい。触れさせてほしい。みんなが持っているものを持たない僕たちが、みんなのなかにいると透明になってしまう僕たちが、空っぽの手に抱えたものを。

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