Ⅳ. 第7話 バルヴェニーと「インペリアル・フィズ」——最上級のフィズを

 『Limelight』の誰もいないカウンターのスツールに、優は腰を下ろした。カウンターからは離れたテーブル席に、男の客が二人飲んでいるだけだった。


「バルヴェニーの十二年ものをロックで」


 優の注文に、榊がオールド・ファッションドグラスを用意した。

 鮮やかな濃い琥珀色は、大きく丸く削られた氷により、宝石のように煌めく。


 まろやかな甘味のある口当たりから、濃厚な後味に変わり、一口で変化が感じられる。カナディアン・ウィスキーやバーボンの甘味とも違い、強すぎないスモーキーさがあるところが、スコットランドのハイランド地方ならではだろう。


 コクのある、わずかにオレンジのような風味も感じられ、複雑な味わいはシェリー樽による熟成のせいか。


「美味いな」


「ああ。美味いからって、飲むペース早いよ。ちゃんとチェイサーも飲めよ」


 榊に小声で言われても、優は黙って味わいながら、考え事をしていた。

 奥の客が話に夢中であるのを見てから、榊が静かに語りかける。


「お前にも、とことん飲みたい時だってあるよな。どうした? 店を始める前に、蓮華ちゃんとケンカでもしたか?」


 優の瞳が揺れた。


「蓮ちゃんなら正しい選択をするはずだって、信じてるから。でなきゃ、ママは務まらない」


「あの子って、年下って感じさせない豪快なオーラがあるよな。実は、ママに向いてるのかもな。綺麗で若くてかわいいママっていうのもいいかもな」


「そう思うよ。実際、彼女が仕事してるスナックにも何回か行ったけど、すごくいい感じのママになれる気がした。僕だけじゃ作れない、いい感じのバーになりそうなのに、もったいなくて……。だけど、友達としては、幸せにはなって欲しいし、そうなった時は祝福してあげたいって思ってる。でも、その相手は、って、今は疑問に思っちゃって」


 榊には、本心を語れた。ウィスキーの力を借りられたせいもあるのかも知れなかった。


「水城さんが、孫には軽い気持ちでは手を出すな、って言ってたなら、軽い気持ちじゃなく、本気で想うんだったらいいんじゃないの? お前が蓮華ちゃんと付き合えば?」


「そういうことじゃないよ」


 優の口調は少し強かった。


「彼女がまだ彼を想ってるのはわかるから。わかってるのに、同情とか慰めとかで無理に付き合っても続かない。特に、共同で仕事していく相手とは、そんなに簡単じゃないでしょ」


「だから、友達として支える道しかないってことか」


 遣る瀬ない視線で優を見下ろすと、榊は、ふっとあたたかい瞳になった。


「要するに、お前は大事にしてるんだよな、蓮華ちゃんのことを」

「同業者としてね」

「そうだな」

「だから、彼女の判断を待つ」


 まろやかなウィスキーの持つ深い味が同調しているように、優には感じられると、榊の声が穏やかに響く。


「じゃあ、俺も、一緒にやきもきしながら待つの、付き合うよ」


「……やきもきはしてないよ。信じてるから」


「ああ、そうだな」


 バーテンダーが救われるのも、バーテンダーを前にした時かも知れない。


 優が強がらなくてはならないのは、唯一、蓮華の前だけであり、それは、今後も変わらない。


 そして、榊には、強がりは見抜かれているだろうと、優にもわかっていた。




「なんか、バーとかで語るんじゃなくて、ここで話すのが自然になっちゃったね」


 蓮華と、馬車道から近い赤レンガ倉庫の港を訪れた優は、普段よりも少しだけ緊張した面持ちになって応えていた。


「お酒抜きで話したい時は……なのかな」


「そうね。飲んだら、自制心なくして泣いちゃうかも。そうなったら、優ちゃんに迷惑かけちゃう。飲んでるお店にも! 何より、自分自身が恥ずかし過ぎるわ」


 蓮華が笑う。


 赤レンガ倉庫の前は閑散とし、片付け途中のものに青いビニールシートが被せてある。それが、数日続いたイベントの終わりを告げ、物寂しい風景として映る。


「楓くん、優ちゃんに随分突っかかっていったでしょ? あたしとの仲を疑う以上に、優ちゃんの音楽的な素質に嫉妬してたように見えたわ。優ちゃんが弾いた時、彼にはすべてわかったのよ。でも、認めたくなかった。曲作りはすぐに浮かぶ時もあれば捻り出しても出て来ない時もあって、〆切り間際にまだ曲数用意しないとならないプレッシャーもあって。自分が若くて経験がないせいだって焦ってる時もあってね。ゴハンも食べずにパソコンに向かって打ち込んで、自分のパートを練習する時間がなかったり……。楓くん、実は一杯一杯だったの」


 蓮華が足を止め、優も止めた。


「優ちゃんから思わぬ返り討ちにあったら、しゅんとして、しばらく大人しかったわ。優ちゃんがさらっとこなしてるように見えるのは、今まで培って来たものや、影ですごく努力してるのが大きいって話したの。そんな彼も若い時には足掻いていたし、すごいことをやってのけたのにコンテストでは失格になっちゃったり、報われないこともあったのよって」


「ああ、そんなこと」


 少しだけ、優が笑った。


「それからは、また練習したり曲作ったりしてたの」


 蓮華は、海に背を向け、ビルの先を、街を越えたずっと遠くを眺めているかのようだった。


「楓くん、今頃、台湾に着いてるわね」


 優は海を向いたまま、黙っている。


「あたしは、一緒に行かない」


 静かな、凛とした声が、優の耳に響いた。


「いつかはこんな日が来るってわかってた。楓くんを傷付けてまで、ついて行くのを断ったわ。彼の音楽人生のために身を引いたというより、あたしが彼より店を――自分の夢を取ったの。ひどいよね。自分の夢のために彼を捨てたなんて。最低なことしたってわかってる。それなのに、後悔はしてないの。彼との付き合いも、この選択も、ということも」


 濡れたように輝く瞳に気が付いた優は、蓮華の方を向いた。


「あたしの居場所は応援するところ、これからお店に来てくれる人のそばなんだって、そういう覚悟でお店をやろうって決めてたしね。優ちゃんが、あたしを信じてくれたから、あたしも自分の決断を信じられたのかな」


 蓮華は台湾に行かずに済み、店は予定通り二人でやって行ける。

 望ましい結果のはずだった。


 蓮華が楓ではなく店を選べば、自分はホッとするとでも思っていたんだろうか?


 彼女の決断に、自分の心も締め付けられるとは、思ってもみなかった。


 支えたい。

 傷付いた彼女を包み込むことが出来たら……


 ふいに抱きしめそうになるが、そんな気持ちを抑え込んだ。


「……背中、貸すよ」


 蓮華の負った傷を一緒に受ける。

 優が貸した背で、蓮華は声を上げずに泣いていた。


 恋人を巣立たせ、そんな想いをしてまで一緒にやっていこうと決めた仕事のためなら、今後も彼女は恋に落ちることがあったとしても、店を優先させるのだろう。


 そんなきみに寄り添う。

 許される域の、一番近くで見守っていくって、決めたから。




 『Limelight』では、優の送別会を兼ねて、蓮華と祖父、速水、榊、真由稀、南結月が集まっていた。

 チーフ・バーテンダーは榊に代わり、東都ホテルのバーテンダーとなっていた真由稀とは、久々の再会であった。

 楓たちのバンドは台湾で契約し、楓はメンバーと台湾に移住して音楽を続けている。ニュースでちらっと映った時は、ボーカリストが一番目に付いた。


 以前は蓮華が新しい門出を祝ったが、今回は優がそれに応えた。


 『インペリアル・フィズ』。


 蒸留酒等に柑橘類の果汁とシロップ等の甘味を加え、シェイクして炭酸で割ったスタイルをフィズという。

 カウンターで作業中の優の所作を、蓮華はわくわくとした目で追っていた。


「インペリアルって皇帝って意味もあるし、『インペリアル・フィズ特上のフィズ』って心して飲まないとならないかと思ったけど、意外にも飲みやすいのね!」


「カクテル言葉は『楽しい会話』だしね。スコッチとラムを合わせてるんだよ」


 榊が、美味しそうに飲む蓮華に説明すると、蓮華の瞳が瞬いた。


「優ちゃんの手にかかると、いつも、あたしの『苦手・嫌い』が『美味しい・好き』に変わって、魔法みたいなの! フィズにすると飲みやすくなるから、離れた国のもの同士でも、確かに会話が弾みそう! 飲みやすいウィスキーよりも、スコッチみたいな個性的でスモーキーな、苦手な人もいる特徴あるウィスキーの方が面白く変化して、楽しいかも知れないわ。クセのあるお客さんにも楽しんでもらえるみたいで」


 カウンターから自分の分のタンブラーを持ち、やってきた優が、きゃっきゃ楽し気に語る蓮華を見て微笑んだ。


「僕たちの店が目指すのは、どんな背景のあるお客さんにも楽しんでもらえるように、だから。『Something』みたいに気軽に来てもらえて、『Limelight』のように本物志向のお酒を出す。時々学生に解放したり、それ以外はプロやアマチュアに演奏してもらって、演奏のない日もあって」


 優が皆を見渡し、続けた。


「お客さんは、バーテンダーやママと話すだけじゃなく、音楽を聴いていてもいいし、黙って一人で飲んで、お酒と対話してくれてもいい。お客さんだけじゃなく、従業員、ママもバーテンダーも、嫌なことがあっても、お客さんや仕事が自分との『楽しい会話』になればいいな、って思うよ」


 「素敵ですね」と結月が微笑み、「桜木さんらしいですね」と真由稀も笑顔になる。


 水城も感慨深気に頷いた。


「酒と対話する——確かに、私がウィスキーを飲む時は、どこから来たのか? どんな旅をしてきたのか? 長い年月、樽の中ではいろいろあっただろう? などと心の中で話しかけているようなものだった。ウィスキーからも、旅の話を聞いている気にもなっていたよ。そうかい、それで、このような味になったんだな? ってな」


「そうよね! お祖父ちゃん、家で飲んでる時も、ジャズ聴きながらいつも静かに飲んでて、まさに、お酒と対話してるみたいに見えたわ!」


 蓮華が手を打ち、すぐに「あ、これからは、会長……でもないし、オーナーって呼ばないとね」と、首を引っ込めて笑った。


「榊くんも、時々優ちゃんと情報交換して研修とかしてくれたら嬉しいわ。『Limelight』の定休日で身体空いてる時に、もし、優ちゃんが風邪とか引いたら手伝いに来てね。よろしいかしら、速水オーナー」


「いつでも貸し出し致しますよ」

「貸し出しって、俺、図書館の本ですか?」


 口の端を上げ、微かに笑った速水と、即座に突っ込む榊を、笑い声が取り囲む。


「優ちゃんが即興で作って金賞を取った『ウェディング・ギフト』は、六月のオススメ・カクテルにしたいわね」


「ああ、俺のブリティッシュ・マーチもメニューに入れてくれていいよ!」


「それなら、私のナイトフォールだって!」


 蓮華の提案に、榊と、それに張り合うようにして真由稀も、身を乗り出した。


「北埜さんのナイトフォールは、難しいからなぁ」


 困ったように、優が笑った。


「ウェディング・ギフトだって俺が作ることになるんだから練習しないと」


 優と榊、真由稀で賑わう横で、速水と水城は静かに見守りながら飲み、結月が「『Limelight』も随分雰囲気が若返ったわ」と呟き、蓮華と顔を見合わせて微笑んだ。




「やっぱり、お店の名前、考え直したいわ」


 帰りがけに、夜空に浮かぶ三日月を眺めながら、蓮華が言い出した。


「お店にはいつもジャズが流れてて、夜のお店だから夜の月だとか、そんなイメージを名前にしたいなぁって、思って」


「それなら、う〜ん、夜のジャズとか、ジャズの月……他には……」


 月を見上げた優が、思い付くままに挙げていく。


「ジャズの月って、なんだかいいわね!」


「だったら、ジャズの頭文字を取って……」


「あ、だったら、『月』の『moon』と合わせて……いいかも! ねえねえ、お祖父ちゃんはどう思う!?」


 二人の会話を背で聞いていた水城は、頷きながら微笑んでいた。




【インペリアル・フィズ】12~18度

※炭酸水以外をシェイクして、氷を入れたタンブラーに注ぎ、炭酸水で満たす。


 スコッチ・ウィスキー(他ウィスキー) 30ml

 ラム 10ml

 レモンジュース 15ml

 シュガーシロップ 10ml

 炭酸水 適量

 スライスレモンとレッドチェリーを入れる。


特上のフィズ。カクテル言葉は「楽しい会話」。

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