Ⅳ. バディ
Ⅳ. 第1話 カナディアン・クラブ・ウィスキー
静かな夜だった。久しぶりに、独りでゆったり飲めそうだ。
こういう時には、不思議と、蓮華たちは乱入したりしないものだった。
男友達はともかく、蓮華がいると完全には酔えない。みなとみらい線で二人で眠りこけた時から、心地良い相手であっても、意識がなくなるほど酔うわけにはいかない、と思うようになっていた。
テレビは点けず、お気に入りのジャズ・ヴィオラ奏者である香月ゆかりの演奏をスピーカーから流し、オールド・ファッションドグラス(ロックグラス)の透明な氷の上からカナディアン・ウィスキーを注ぐ。
隣には、一度ウィスキーを注いだグラスに、ミネラルウォーターを用意する。
カナディアン・ウィスキーの代表であるカナディアン・クラブは、コーンを主原料としたウィスキーをベースに、ライ麦を主原料としたフレーバリング・ウィスキーを合わせる。そこで生まれた飲み口はライトに仕上がっていた。
スモーキーさもなく、癖のない味と、香りも個性を主張しないため、炭酸水を足すハイボールや、マンハッタン等のカクテルのベースに使われていることも多いが、そのものだけを飲んでも充分美味しい。
通常のものでも六年は熟成されているが、その上のランクであるカナディアン・クラブ・クラシック十二年になると、さらに甘味が深くなり、香りも気に入っていた優は、残り香さえも有効に使いたく、チェイサーとして楽しんだ。
そのくらい、甘味がありながらもすっきりとした、芳醇な香りを放つ酒に心を奪われていた。
ウィスキーはキリッとした舌触りと味はダンディでありながら、甘味を感じる芳香はエレガントで女性的にも思える。
透明だったウィスキーの原液に、大麦麦芽のみを原料としたシングル・モルト・ウィスキーとブレンドし、シェリー酒に使った樽を再利用して、最低六年は熟成させると琥珀色に変わり、樽に染み込んだ様々な香り付けにより、芳醇な香りに仕上がる。
一度ウィスキーの魅力にハマると、他にも手を伸ばしたくなるものだった。
カクテルもだが、優はバーでウィスキーを頼むと、テイスティング・ノートを付けている。自分の感じ方で、口に入れた瞬間の第一印象「甘い、苦い等」と、「まとわりつくような」「キリッとしている」等の口の中での印象、「花のような香り、香草のような香り」等の香りの印象や他に気が付いたことなどを書き留めていく。
外で飲むことは、彼にとっては勉強であり、そこで気になった酒を購入し、自由でのびやかな
*
優は榊を伴い、久々に『Something』に顔を出した。
カウンターにはジャズの師である橘と、蓮華が並んでいた。その隣に腰掛ける。
瑛太たちと蓮華の共演CDは自主制作となってしまったが、彼らは名刺代わりに持ち歩いていた。そのうち瑛太がSNSで知り合ったドラマーのいる大阪に行き、ライヴに出演した。意気投合した瑛太たちは残り、蓮華だけが戻ってきたところであった。
「瑛太くんたちとは、やりたい音楽が微妙に違うの。今回は協力したけど、あたしの居場所は彼らのところじゃない気がして。それに、こっちでやりたいことがあるし」
蓮華が優の顔を見つめる。
何かを言いたそうにしていることは、彼にも伝わった。
彼らの背後には、橘の門下生である学生と、その友人がテーブルで飲んでいた。そのうちの一人が、ちらちらとカウンターを気にしていたが、蓮華は気付かずに話し始めた。
「実はね、ずっと、お祖父ちゃんと話し合ってたんだけど、……あたし、お店をやろうと思うの」
なんだか唐突にとんでもないことを言い出した!? とばかりに、優も榊もこれ以上にないほど目を見開いた。
「ああ、水城さんね、東京や神奈川に持ちビルいくつもあるんだろ?」
「ええ。でも、ちゃんと場所代は払いますよ」
陽気にウィスキーのロックを飲む橘に、蓮華は控えめに笑いながら応えた。
榊とテーブル席の男子は、目を見張るばかりだった。
「お店って、どういう……?」
優が問いかけると、蓮華は遠慮がちに打ち明けた。
「まだずっと先になると思うけどね、……バーにしたいと思ってるの」
「女性バーテンダーになるの!?」
優よりも早く、橘が反応していた。
「いえいえ、カクテルを作るのは興味はありますけど、優ちゃんや榊くん、真由稀さん見てたら、とてもあたしには無理です。飲む方が好きかなぁ。だから、やるとしたら、……ママだと思って。それで、ここ『Something』みたいにジャズの生演奏が出来て、若手ミュージシャンを応援出来たらと思ったんです」
「いいじゃないか! 優ちゃんと二人で店やれば? そうなったら、俺、しょっちゅう飲みに行くよ!」
橘は喜んでいたが、優はそこまで楽観的には喜べない真面目な表情であった。
「蓮ちゃんは『ママ』はやらない方がいいよ。出来れば、お酒の場にはかかわらない仕事の方がいいと思う」
「応援してくれないの?」
「どちらかというと、反対だよ」
蓮華が、少しむっとした顔になる。いつも蓮華のやることを受け入れてきた優が反対するなど、思いもよらなかったようだ。
「ミュージシャンを応援するなんて言ってもね、若くて売れないミュージシャンはお金がないのに、わざわざバーに来ると思う? バーよりライヴハウスの方がお客さんも大人数入るし、盛り上がれる。だから、応援したいなら、もうちょっとよく考えないと」
静かに聞いていた蓮華が、頷いた。
「……じゃあ、そこはもう少し考えるけど」
「とにかく、蓮ちゃんのようなお嬢さんにはママは無理だよ」
「……こんな時ばっかりお嬢さん扱いするのね」
淋しそうに呟いた蓮華の方は見ずに、優はハイボールを傾けた。
榊は心配そうに蓮華を見てから、探るように優を見つめる。
カウンターの中のマスターは何も言わずに、注文された飲み物を作成していた。
「まあまあ、優ちゃんもさ、無下に否定せずに、どうやったら
静かになってしまったカウンターで、唯一、橘が明るい声を放った。
「蓮ちゃんらしいママ……ですか……」
「蓮華ちゃんらしいママ……ねぇ……」
優と榊が同時に呟き、難しい表情になった。
だが、蓮華は負けなかった。
フッと笑ってみせてから、胸を張った。
「実は、銀座にある小さいお店だけど、スナックのバイトに声かけられたから、引き受けることにしたんだ~」
「スナック!?」
驚く優と榊、橘に、フッフッフッと勝ち誇ったように笑った。
眉間に皺を寄せ、優が尋ねる。
「どんなお店なの? 大丈夫なの?」
「『クリスタル・ローズ』ってお店」
「聞いたことないよ」
優も榊も首を傾げる。
「マスターは知ってる?」
「いや、知らないけど。新宿の店ならともかく」
「優ちゃんたちのいる『Limelight』とは離れてて、東銀座の方でね、去年出来たばかりなの。ママが一人でやってて、チーママは皆バイト。スナックって言っても主婦も働いてるし、いかにもホステスみたいないかがわしい服とか着なくていいし、あくまでもカウンターの中での接客だよ。客層も安心出来るみたい。茶道とか華道経験者だったり、着物の着付けが出来るとか、そういうお嬢様系の子を雇ってるんだって」
橘も優たちも、少しだけ安心したようだった。
「それなら、なおさら何で蓮ちゃんなの?」
「あら、何言ってるんですか、先生。あたし、これでも横浜の有名なお嬢様学校の出身なんですのよ!」
わざと上品に笑ってみせる蓮華を、信じられない表情で見つめ、しばらくは口も利けないでいた橘だった。
「じゃあ、履歴書の学歴のところだけで審査通ったんだ?」
「ちゃんと面接しましたってば! そこを皮切りに、スナックとかバーとか勉強して来ますからね!」
宣言する蓮華を圧倒されたように見ていた優が、仕方がなさそうに言った。
「……大丈夫かなぁ。くれぐれも、お店に迷惑かけないようにね」
「
「いや、なんか親戚の子が水商売するみたいな感覚で、落ち着かないんだよね」
「また
マスターと榊が、くすくすと笑った。
「蓮華さん!」
独りで早めに店を出た蓮華の後を、テーブル席にいた男子が追いかけてきた。
「ああ、
蓮華は瑛太たちの他に、楓の所属するバンドでもゲストとしてボーカルで何曲か共演したことがあった。
彼の友達が橘に習っていたのも知っている。
「あの、……駅まで送ります!」
「ああ、ありがとう。でも、お友達はいいの?」
「大丈夫です」
「さっきカウンターにいた人たちって、『Limelight2』にも時々入ってるバーテンダーさんたちですよね?」
「うん」
そこから近い『Limelight2』は、銀座本店の支店であり、優と榊も交替で時々手伝いに行っていた。本店と違い、ライヴの生演奏が入る。ある程度実力が認められれば学生でも出られる。
そこでも『Something』でも、キーボードを弾く十九歳の青年であり、共演した時も、彼の作曲やピアノの技術はなかなかのものだったと思い起こしていた。
「……元気ないですね」
黙っていると、楓が気遣うように蓮華を見ながら、声をかける。
「まさか、優ちゃんが反対するとは思わなくて……。あたし、そんなに頼りないかなぁ。いつも『親戚の子』扱いされてるし」
蓮華が淋しそうに呟く。
「僕も心配です」
こんな五歳ほども離れた若い子にまで心配されるのかと思うと、蓮華は情けなく思った。
「いや、だって、変な酔っぱらいオヤジに絡まれたり、説教されたり、嫌なこと言われたり、……ましてや、エロいこと言われたり、されたり……蓮華さんが、そんな目に合うんじゃないかと思ったら、心配で反対しますよ」
思い切った表情でそう話す楓に、蓮華が穏やかに言った。
「それは、どんな仕事であっても同じだわ」
「でも、スナックってことは、お酒の場だからなおさら……」
「あたしが飲むわけじゃないし、スナックってカウンターの中だけで、そこからは出ないんだから大丈夫。これも社会勉強よ」
微笑んでから、溜め息混じりに、ますます情けない思いにかられる蓮華に対して、楓は、さらに思い切ったように、固い表情になって言った。
「だったら、そのバイトする前に、僕と、……付き合ってくれませんか?」
足を留めた蓮華が、何も言わずに、楓を見上げる。
まっすぐに見つめる彼女に、楓が続けた。
「そうしたら、彼氏がいるからって言って、せめて下心のある客くらいは追い払えるでしょ?」
「そんな理由で付き合ったら、楓くんに悪いわ」
「いいんです!」
楓は、蓮華に向き直った。
「……好きなんです、蓮華さんが」
頬が赤らみ、切れ長の瞳が切なそうに、月明かりと街灯に照らされ、瞬く。
しばらく、楓を見上げていた蓮華は、和やかに微笑んだ。
「考えとく。ありがとう」
※カナディアン・クラブ・ウィスキー
千円〜千五百円ほどで置いてあるスーパーもある。
※カナディアン・クラブ・クラシック十二年。二千円弱。
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