Ⅰ. ドライ・マンハッタン 〜カクテル言葉「切ない恋」〜

Ⅰ. 第1話 音楽大学生

     *


 触れた指先からこぼれる音は、すべてを輝きに変えた。

 音が踊る。

 同じピアノとは思えない響きが、宙を舞い、煌めく。


 初めての現象だった。


 すべては、ここからのスタートだった。


 新たな音楽も。

 新たな味も。

 新たな道も。


 酸いも甘いも――


     *


 都内のある音楽大学――

 防音された個室が並ぶ練習室用の校舎がある。ピアノや声楽、管楽器、打楽器などを専攻する生徒たちが各部屋に予約を入れ、練習している。


 音楽大学では数少ない男子生徒がピアノに座り、少し派手な化粧をしたソプラノの歌声に合わせて弾くが、休符の後、同時に出るタイミングがなかなか合わない。


「優くん、そろそろレッスンの時間よ」


 重い扉が開けられ、顔を覗かせる女子生徒と声楽の生徒の目が合い、見えない光線が交わる。


 声楽科女子生徒と別れ、廊下を歩きながら、優は少し呆れた顔になった。


「レッスンの時間くらいちゃんとわかってるから、いちいち呼びに来なくても大丈夫だよ。万が一、遅刻したら悪いから、璃子ちゃん先に行って先生に見てもらってくれててもいいんだけど」


「とか言っちゃって、最近毎日のようにあの子と練習してるよね。私、お邪魔だったかしら?」


「来週、声楽の試験で伴奏頼まれてるんだから、今時期は毎日合わせるのは当たり前でしょ?」


「見つめ合ってたくせに」


 気に入らない様子の璃子を見て、優はおかしそうに笑った。


「ただの合図だよ」


「向こうはどうだか。今日は一段とメイク濃かったし。あの子、優くんと練習する日はメイクしてるよね」


「え、そうなの? いつもしてるんじゃないの?」


「この間はすっぴんだったよ」


「へ~、そうだったんだぁ。璃子ちゃんはメイクしないの?」


「失礼ねっ! 私はナチュラルメイクなの!」


「僕は濃いめより、その方が好きだなぁと思って」


 璃子は、口を噤んだ。

 優は何も特別なことを言ったつもりもない、普段通りの笑顔だった。


 二人がレッスン室の前に着くと、正面からやってきたヴァイオリンケースを持つ髪の長い女子が笑った。


「桜木くん、後でよろしくね!」


「ああ、よろしく。レッスンが終わったら行くから、先に練習してて」


「部屋番号は412号室よ」


 ヴァイオリン女子は、浮かれたような足取りで通り過ぎて行った。


「今度はヴァイオリンの伴奏? 桜木優クン、いったい、きみは、何人の伴奏を受け持ってんのかな?」


「四人」


「そんなに!? 自分の練習はどうするのよ。秋には学内コンクールの本選があるでしょう?」


「来週末で四人全員の伴奏が終わるから、それから詰めても間に合うよ」


 暢気な笑顔を浮かべて扉を開ける優を見て、璃子は、さらに文句を言おうとして諦めた。




 レッスン室のグランドピアノを前に、一呼吸置いてから弾き始める。


 ラフマニノフ作、前奏曲『鐘』。


 重厚な和音の後に静寂が訪れ、クレッシェンドしていくその様は、出だしから慎重な集中力を必要とする。

 ソロを弾く時の優の表情は、普段の柔和さを閉じ込め、クールなピアニストへと変貌する。


 息を殺すように璃子が見守る中、細やかでなめらかな旋律に移り変わり、音の粒は乱れることなく、激しくクライマックスへと運ばれていった。


 ピアノがオーケストラのようなダイナミックな音を立てる。

 まさに、街中に降り注ぐような厳かに響き渡る鐘の音だ。


 静寂へと戻り、最後の音を静かに響かせた指先が、鍵盤を離れる。


 完全に余韻が途切れてから、離れて聴いていた講師が、近付きながら手を叩いた。


「良かったわよー、優クン! 先週よりも中間部のバラつきがなくなってたわよー!」


 グレーのスーツを着た痩せた男性講師は、合わせた両手を女性的に傾け、同じ角度で首も傾けた。


「あとはね、ここのところはメロディーをもっときかせて……こんな感じで……」


 言いながら、優に寄り添い、弾いてみせる。

 優が繰り返し弾くと「そうそう! そんな感じ!」と言って、優の肩を親しみのこもった手つきで叩いた。


 数少ない男子生徒は、重宝されることが多い。

 璃子には、講師の、自分に対してと彼に対しての対応の差が感じられていた。


 女性的な感性と女性的な演奏が多い中では、男性的な感性と演奏が際立つ。

 コンクール等では、男子がトップに選ばれることもしばしばある。有名なピアニストも男性が多い。


 この講師の場合は、優の才能を認めている以外の感情もあるように、時々璃子には思えるのだったが、自分が目をかけてもらえずひがんでいるからそう見えるのかも知れない、と思うのも嫌だったので、深くは考えないようにしていた。


 レッスンが終わり、璃子が一人で駅に向かう途中で、大輔に会った。

 中肉中背の眼鏡をかけた、璃子と優とも同じクラスで同じくピアノを専攻している。


「優は?」


「ヴァイオリンの子と練習。その後は、バーでバイトだって」


「ああ、最近始めたんだっけ?」


「そう。新宿の」


 スラスラと答える璃子を見て、大輔はくすっと笑った。


「なによ?」


「いや、だって、秘書とかマネージャーみたいに優のスケジュール把握してるから」


 璃子は憮然とした顔を向けた。


「レッスンが一緒なんだから、知ってて当然でしょ?」


「ああ、だよな。だけど、通常は個人レッスンなのに、珍しいよな」


「先生が、優くんのレッスン見てるだけでも私の勉強になるし、優くんにも人に見られる中で弾く練習になるからって、勧めてくれたからよ。まあ、先生としては、優くんのためになる方に比重を置いてる気がするけど」


 璃子は、溜め息をいた。


「それにしても、優くんみたいなお坊ちゃんが、バーのバイトなんてやっていけるのかな? お家の人も、よく許したよね。バイトなんかしたら、ピアノ練習する時間も減っちゃうのに」


 少し考えてから、大輔が返した。


「遅い時間は近所迷惑になるからピアノは弾けない。だったら、学校の練習室で練習してからバイトに行く方が効率が良い。それに、もしかしたら、あんまり家にいたくないのかも知れない」


「そうなの? 私にはそんなこと言ってなかったけど……」


「俺も、つい一昨日くらいに聞いたばかりだけどさ、兄さんがもうすぐ結婚するとかで、二世帯計画があるみたいだよ。建て直す間はどこか賃貸に引っ越さないとならないし、ピアノがOKなところにしても、今まで以上に音に気を遣わないといけないから、多分、七時半くらいまでしか練習出来ないと思うって」


「そう……。そうなると、通学時間の分、学校で練習しちゃった方がいいよね。学校は八時まで練習室借りられるんだし」


「だからか、自分の部屋はいらないって言ったらしいんだ」


「え……?」


 驚いた璃子が立ち留まった。合わせて、大輔も立ち留まる。


「ピアノ弾くのは優だけだし、そのためにグランドピアノが入る大きさの部屋も作らないとならなくて、床も補強しないとだし、昔から一緒に住んでるわけじゃない義理の姉さんには、年中聴こえてくるピアノの音に耐えられないかも……とか、いろいろ考えて、それを機に一人暮らしする方向でいくみたいなんだ」


「兄弟が結婚……。私たちくらいの年になると、そういう人も出てくるのね。優くん、気を遣ってるのかなぁ……」


「だと思うよ」


 璃子も大輔も、ピアノを弾く者の宿命として、とても他人事とは思えなかった。

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