Ⅰ. 第2話 バー『Something』

「お前、ここでバイトしない?」


 中学、高校時代から付き合いのある、一学年上の瑛太が、そう優に連絡したのはほんの二週間ほど前だ。


 中学校で吹奏楽部に入っていた二人は、女子の多い部活の中で数少ない男子同士でもあり、意気投合するには時間はかからなかった。


 高校で、優が吹奏楽部に入らなかったのは、早くも音楽大学の受験を踏まえてピアノの練習時間を確保するためだった。帰宅してから寝るまでの間は、ほとんど練習だった。

 音楽大学に入ることは、彼本人の意志以上に母親の願いだった。ピアノを習っていても音大に通うことはかなわなかった自分の夢を、息子に托していた。


 副科でジャズピアノを専攻できる学校や、ジャズやポピュラー音楽、ゲーム音楽を専攻できる学校もあったが、彼が通うのは純粋なクラシック音楽を極めるところだった。

 彼の所属するピアノ科では、譜面を、時代背景含め様々な考察に基づき、忠実に再現することを重視される。


 入学してからは、周りはますますクラシックの世界に固められていった。

 迷いはなかったはずだった。


 瑛太は一足先に普通大学に進み、そこでも吹奏楽サークルに入り、楽しんでいる。

 外で演奏する時は、必ず優にも声をかけた。


 仲間内と時々演奏するバーでは、アルバイトをしないかとマスターが声をかけたが、瑛太は体質的にアルコールが合わなかった。未成年でも大学生であれば、居酒屋などアルコールを扱う飲食店のアルバイトは出来るが、不安に思った瑛太は、学校で生徒全員に施行されるパッチテストで問題はなかった、と話していた優のことを思い出した。


「お前、ここでバイトしない? お前がこの店にいてくれると、俺も嬉しいし!」


 瑛太の口利きで、優はマスターと話し、世間話をするかのような簡単な面接で、アルバイトをすることに決まった。


 アマチュアやプロの演奏を見る機会も増え、そこで放たれる自由な空気が、優には、徐々に居心地の良い場所となっていった。


 瑛太の吹く、長い管がぐるぐると楕円型に巻かれた金色のユーフォニアムは珍しく、一般客にも覚えられやすかった。また瑛太の明るく人懐こいキャラクターも、同世代から年配客たちにも受けが良い。


 音を外すと目敏く指摘される音大より、技術を気にせず自由に吹いている、奏者も観客も楽しんでいる、これが本来の音楽なのではないか。

 なぜクラシックは、自分の通う音楽大学は、こう出来ないのだろうかと、優は考えるようになっていった。


「なんだよ、お前、せっかく音大入れたのに、楽しくないのかよ?」


 瑛太が、レモンが飾られたジンジャーエールを飲みながら、カウンターの中で水色のシャツと黒いエプロンをしている優に笑いかけた。


「秋には学内コンクールの本選があるんです。担当の先生に勧められて、夏休み前に予選受けたらたまたま通っちゃったもんだから、先生たちが騒いでて。本選が終わるまでは、同じ曲をただひたすら練習するんですよ。いい曲なんですが、重々しくて。たまには楽しい曲も弾きたくなります」


 普段の柔らかい笑顔を前に、瑛太が目を見開いた。


「学内ってことは、一年から四年までいる中でってことだろ? まだ一年なのにそれって、すごくね!? 優は背高くて指も長いから、ピアノ弾くとサマになるんだよなぁ! 男の俺から見てもカッコ良かったぜ! お前にはピアノが合ってるんだから、ボヤいてないで頑張れよ!」


 優はおかしそうに笑いながら、瑛太に返事をした。




 この日、『Something』のライヴには、ボーカリストが登場した。

 ピアノ、ベース、ドラムをバックに、黒いワンピースの首元と袖にレースがあしらわれ、カールした髪が背を覆うほど長い女性だ。

 彼女は、軽快なジャズで客席を沸かせると、ピアノに座り、悲恋のバラードの弾き語りをした。


 甘く、澄んだ声が伸びやかに、切なく響き渡る。


 優はミックスナッツを器に盛りつけ、テーブル席に運んだり、カウンター内でカクテルに使うフルーツをカットするなど、簡単な仕事をしながら、耳はステージに向いていた。


 声楽科生徒の歌い方とは全く異なる発声と、崩して歌うところにその人らしさが現れる。

 知らない曲であっても、こんなにも聴き入ってしまうこの惹き付けるエネルギーは何なのだろうか。


「まだ大学生でね、それも音大生。桜木優っていうんだ。優、こっちは、ボーカルもピアノもやる遥だ」


「よろしくお願いします」


 マスターの紹介で頭を下げる優を、感心したように見た遥は、「よろしくね」というと、手にしたグラスを見直した。


 浮いているミントと、沈んでいるものも数枚ある。


「このお水って、きみが用意してくれたの?」


「はい。遥さんは演奏の前と間はアルコールを飲まないって聞きましたが、ただの水では味気ないと思って、つぶしたミントの葉を入れてみました。マスターから遥さんがミントお好きだと聞いて、OKもらってから試してみたんですけど、嫌でしたら、普通のミネラルウォーターに替えますので」


 遥は、グラスに浮かぶ、小さな濃い緑色をしたミントの葉を眺めた。


「本当はね、今日、ちょっと嫌なことがあって落ち込んでたの。でも、きみの気遣いに癒されたわ。ちょっと元気が出たみたい。次のステージは、さっきよりも楽しんで出来そう!」


 優は意外な表情で、遥を見た。ステージでの自信に満ちた彼女の本心が垣間見えた気がした。


 遥はライヴが入っていない日も、時々店に現れた。一八の頃から現在二六歳まで店で歌っていることから、マスターとも親しかった。

 マスターは、若いアマチュア・ミュージシャンたちに年の離れた兄貴分、または父親のように親しまれ、彼らを下の名前やあだ名で呼び、見守っていた。


 遥が開店前にピアノを練習しながら、マスターと話している時に優が店に入り、挨拶をすると、呼び止められた。


「優くんは、ジャズは弾かないの?」


 ピアノの椅子から振り返った遥が、微笑む。


「ジャズは中学の時に吹部すいぶで少しだけやりましたが、チューバだったし。聴くのは好きですけど、ピアノでは弾いたことないです」


「ちょっと教えてあげようか? そうねぇ、『キラキラ星』とかなら、わかりやすいかしら。ジャズ風にアレンジすると……」


 触れた指先からこぼれる音は、すべて輝きに変わった。

 音が踊る。

 同じピアノとは思えない響きが、宙を舞う。


 彼には、初めての現象だった。


 遥の押さえる和音はクラシックにはない複雑な響きを放ち、メロディーのフェイクの仕方も全く想像を越えている。


 まったく別物と言っていいほど、出だし以降はジャズの曲となってしまった。


 優は衝撃を受け、しばらく固まって見入っていた。


「こんな感じかしら。ね、ジャズにすると面白いでしょう?」


 遥が笑った。

 演奏中から、マスターもところどころ笑い声を上げていた。


 優だけは、笑うどころではない。


「……すごい」


 遥は肩をすくめて笑った。


「ありがとう。優くんもやってみたら?」


 しばらく動けないような優を、無理矢理ピアノに座らせると、楽譜を譜面台に置いた。


 遥は、クラシック理論で使われる用語を使って解説した。音大生であれば、すぐに伝わる。

 試しに優が弾くと「そうそう!」と笑った。


「ジャズって聴くと楽しいけど、弾くのはなかなか難しいんですね。クラシックの方が楽に思えます」


 参ったと苦笑いする優を眺めていた遥は、少し間を置いてから微笑んだ。


「何も知らないのね」


 遥の視線は、優の顔ではなく、手に落とされていた。

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