Ⅳ. 第5話 ミュージシャンの彼
*
『Something』に、蓮華と優が揃って顔を出した。橘の弟子たちの最後のステージには間に合い、ほぼ一般客も帰った頃であった。
橘の弟子の一人と友人の秋川楓も、友情出演でキーボードを弾いていた。
楓は普段、台湾人とのハーフである男性ボーカリスト率いる、二〇歳前後の、いわゆるイケメンばかりで結成したバンドのキーボード兼作曲を担当していた。
橘が「あのボーカル、超上手いよな!」と言っているのが、蓮華たちにも聞こえた。
楓はピアノに座らされ、橘が蓮華と優を呼んだ。
「どうも何かが足りない気がして。思ったことがあったら言ってください」
そう言って、楓はジャズのバラードを弾き始めた。
一通り弾き終わると、優が、ペダルの踏み方を工夫することや、譜面通りではなく、ここは
「優ちゃんにしては珍しく厳しいじゃない!」
蓮華がからかった。
「ついでにさっきの曲だけど、キーボードで
「どうせ僕は
少しむくれた楓に、優は微笑んだ。
「きみならセンスあるから絶対伝わると思って、気付いたことを言わせてもらったんだよ」
「じゃあ、弾いてみてくださいよ」
優がキーボードを弾いてみせた。
「曲を作って
ピアノに移ると「最近、練習サボってるからなぁ」と、緊張感のない様子で、楓の楽譜を見ながら、同じジャズのバラードを弾き始めた。
楓の顔色が変わる。
さらに、アドリブ部分は譜面と違っていた。
優が弾き終わると、楓が冷淡な調子で告げた。
「サビの前の小節、音が違ってましたよ。あと、アドリブでも時々コード以外の音を弾いてました」
「ははは、バレちゃったね」
突っかかっても手応えのない優には、楓もそれ以上何も言わず、優がカウンターで橘やマスターと話すのを、ずっと目で追っていた。
「優ちゃんが音楽のことでアドバイスするなんて、あたしの知る限りでは初めてよ。きみのこと、見込みがあると思ってるからだと思うわ。成長したかったら、優ちゃんに限らず、誰のアドバイスにも耳を傾けた方がいいわよ」
蓮華が微笑む。
「優さんのこと、好きなんですか?」
「人として好きよ。あたし、優ちゃんと一緒にお店をやることにしたの。あたしの思い描くお店では、彼は必要不可欠なの」
「それは、男として好きで、ましてや付き合いたいとか、そういうわけではないんですよね? この間も言いましたけど、……僕は蓮華さんが好きです。僕じゃだめですか?」
すがるような視線を向ける彼に、蓮華は宥めるように笑った。
「今はお店のことで頭がいっぱいだから、ちゃんと
「それでもいいから……。それとも、僕が蓮華さんを想うのは迷惑?」
どこか危なっかしげでアンニュイな彼が、せつない瞳で見つめると、蓮華はわずかに首を横に振った。
蓮華の予告通り、なかなかプライベートで会えない二人であったが、数週間後、楓から「風邪で熱がある」とメッセージが送られてきた。
『今は熱の風邪が流行ってるみたい。風邪薬とか食べたいものとかある?』
『薬ない。食欲ない』
そんなやり取りの後、蓮華が薬や必要なものを持って、楓のマンションを訪ねた。
「いいわね、音大の近くだと楽器OKなマンションが多くて」
「音大生じゃなくても、たまたま入れたよ」
ベッドで布団に包まり、顔だけ出して、楓が応えた。
リビングには電子ピアノが一台と、キーボードやシンセサイザーが何台かあり、一つはパソコンとケーブルでつないでいる。足元には音楽雑誌が無造作に置かれていた。
「ここに置いておくから、おなかが空いたら食べてね。じゃあ、帰るから」
「ちっともやさしくしてくれない」
「お粥作ったじゃない。食べさせて欲しいの?」
ふてくされている楓を見ながらおかしそうに笑うと、蓮華は、粥を冷ましながら、楓の口へと運んだ。
食べ終わり、薬を飲んだ楓はベッドに横になると、すぐに眠ったようだった。
彼に布団をかけ、後片付けをした蓮華は、しばらく彼の寝顔を見つめていた。
翌朝になると、薬が効いたらしく、楓の熱は下がっていた。
うっかり眠ってしまった蓮華は、床に寝ていたせいで冷えたのと、風邪が移り、熱が出ていた。
「そんなところで何もかけないで寝てたからだよ。ベッドに入れば良かったのに」
「何言ってるの。狭いんだし、病人に寝苦しい思いさせるわけにはいかないでしょう?」
動けるようになった楓には、蓮華を見る目にからかうような余裕が現れていた。
楓のためにと、ちょうど買っておいた冷却剤を額に貼りながら、蓮華が、楓の作ったうどんを一本ずつ、つるつると食べる。
「……かわいい……!」
ちゅるんと、うどんを吸い込み、もぐもぐしている蓮華の唇に口づける。
「ダメだって。風邪振り返すよ?」
「大丈夫だよ。それに、蓮華さん、熱くて、なんかエロい……」
ラグの上に、蓮華を仰向けに押し倒す。
「だめだよ」
「ちょっとだけ……」
「……ん……だめ……!」
「弱ってると、かわいい」
「ヘンタイ!」
蓮華の唇は濃厚な口づけに支配され、黙らされた。
「もうだめ! 頭痛い!」
楓が我に返ると、蓮華の顔が一層赤い。
「熱が上がったじゃないの!」
「ごめん」
さすがに楓も焦ったが、翌日には熱が下がり、スッキリした顔になった蓮華は「ぐっすり眠れたからかなぁ」などと笑っていた。
それを境に、楓の誘いで蓮華が泊まることが増えていき、そこから仕事に通うようになった頃であった。
「僕と付き合ってるのに、なんで男友達のとこに行くの? 僕だけでいいじゃん」
「将来やるお店のことで打ち合わせしてるって、何度も説明してるでしょう?」
「なんであの人の家にまで行くの?」
「お仕事中に訊くのも悪いから。家に行った方がはやいし」
「本当に優さんとは何でもないの? キスもしてないの? 酔ったはずみとかでも?」
蓮華は呆れて、溜め息を吐いてから応えた。
「そんなことするわけないでしょ?」
「……僕の方が男として好き?」
「決まってるでしょ? でも、ヤキモチもあんまりクドいとウザいんだけど」
「ええっ!」
たまに帰る新香とのアパートで、蓮華がイライラしながら、楓が優とのことを詮索するのが面倒だと、つい愚痴を言った。
「十九歳の男子にしてみたら、優さんの存在は酷だわー。だって、自分が出会う前から、カノジョの近くに大人の男がいるんだよ? それが今後ずっと仕事で毎日隣にいることになると思えば、いくら友達だって言ってもさ、気になっちゃうのは当然なんじゃないの?」
新香に諭された蓮華は、翌日、仕事の帰りに、楓のマンションに寄った。
「キツいこと言ってごめんね」
背伸びをして、ちゅっと唇が音を立てた。
楓は、蓮華の身体を強く抱きしめた。
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