カクテルあらかると

かがみ透

カクテルあらかると

バーに行ってみよう!

ある男性客:「ファジー・ネーブル」

 月に1度だけ、定時か、ちょっと過ぎた頃に上がってもいいと、俺が自分で決めている日があった。

 金曜日に限らず、だ。

 もちろん、ゴールデンウィークのように連休の多い月や残業シーズン、月末などの仕事が詰まっている時は遠慮しているが。


 そんなにバリバリ仕事をこなすわけでもなく、大きなお金を動かすような仕事をしているわけではないが、これでも働いている。ささやかな楽しみがあってもいいだろう。


 新宿。会社の近くにある小さなバーというか、ジャズ・バー? ジャズ・スポット? というのか、とにかく、最近はそこによく行く。


 別に、ジャズは詳しくない。演奏を聴きに行きたいわけでもない。そのバーでも演奏のない静かな日を狙って行っている。


 眼鏡をかけた髭のマスターは、俺と同じ40代半ばくらいか。

 チョイ悪に見えるが、目はやさしい。


 マスターは、気楽さを出そうと「時々」という意味で店の名前を付けたそうだが、調べてみると、「酒+Something」がヨーロッパ版カクテルの始まりだとわかり、意外とアリだった、と笑いながら話してくれたことがあった。


 気さくに、仕事の愚痴も聞いてくれる。

 カクテルは時々目分量で作っているが、美味しいから別に構わない。こっちもそんなに詳しくないし、そのくらいの方が気軽でいいと思ってしまう方だ。


 彼になら、俺の秘密を打ち明けてもいいと、早い時点で思えた。

 というより、早い時点で打ち明けたかった。


 俺は、甘い飲み物が好きなのだ。

 それも、フルーティーなヤツが!


 だから、このバー『Something』に来ると、必ずカウンター席に座り、マスターだけにこっそり注文する。

 マスターもわかっていて、「いつものですか?」って聞いてきてくれたりして。


 会社の飲み会で女の子たちと一緒になると、とても困る。俺の注文する酒が可愛らしいとかでからかわれるのがイヤで、いつもビールでごまかしている。


 酒もあんまり強くないから、そう何杯も飲めない。1杯でも貴重なのに、ダミーの酒を頼まなくてはならないのだ。


「2次会は、若い人だけで行っておいで」と見栄を張って資金を渡し、ひとりで気楽に飲み直したい。

 そんな時にも『Something』に寄ることもある。演奏が入っている日であっても。


 ここでは、プロのジャズ・ミュージシャンも演奏すれば、アマチュアや学生たちが演奏することもあった。

 たまに、運悪く学生がやってる日に遭遇してしまうと……ああ、で申し訳ないが、心の中で「下手クソ!」と毒づいてしまう。上手な子がいれば、なかなかやるなぁと感心するが、そんなことは滅多にない。


 今日はプレミアムウェンズデー。定時ちょっと過ぎに退社してきたから、勝手にそう名付けた。

 演奏も入ってないのは、店のSNSでチェック済みだ。

 静かにカウンターで飲めることを期待して、店のドアを開ける。


「いらっしゃいませ」


 カウンターのバイトの子が会釈をした。

 俺がカウンターに座ると、おしぼりを出す。

 メニューを見るふりをしてみたところで、飲みたいものは決まっていた。

 だが、マスターがいない。


「マスターは今、電話がかかってきてしまって応対中です」


 なんだと!?

 俺の秘密を知る者は、マスターだけだったのに!


 カウンターの中にいるのは、このバイトの子1人だけだ。

 背が高くて、やさしい顔立ち、人好きのする雰囲気。

 なんかモテそう。俺とは大違いで。


 こんなヤツに、俺のお気に入りである、フルーティーで甘い物なんかを頼んだら、鼻で笑われるに決まってる!

 おっさんに失礼な若者は、会社でも何人も見て来た。


 手持ち無沙汰なまま、早くマスターが戻ってきてくれないものかを願う。


「あの、マスターの電話が長引きそうなので、差し出がましいようですが、お客様の『いつもの』でしたら、僕がお作りしてもいいでしょうか?」


 意外なことをバイトくんが言ってきた。


「え? 俺の『いつもの』が、わかるの?」

「はい。こちらでよろしかったでしょうか?」


 彼が指差したメニューの文字は、間違いなく『いつもの』だ。


「マスターが作ってるのを見ていたので」


 にっこりと、まだ学生らしきバイトくんが微笑む。

 この若いバイトの子で、大丈夫だろうか? という気もするが、とりあえずは笑われなかったことにホッとした。


「じゃあ、きみに頼もうかな」

「はい。ありがとうございます!」


 バイトくんは、ロックグラスに氷を入れて、リキュールをメジャーカップで計ってから入れた。そこに、オレンジジュースを注いだ。

 そして、白く長い指で、ねじれた柄の先がフォークになっている長いスプーンで軽く混ぜた。


「ファジー・ネーブルになります」


 そうそう、これこれ!

 飲み会では頼むわけにはいかない酒だ!


 いや、頼んでもいいんだが、自分で勝手に恥ずかしがっている故に、知り合いがいるところでは飲んだことがない。


 桃のリキュールにオレンジジュースで、濃い甘さに浸る。


 オレンジジュースも桃も、子供の頃から好きだった。今でも、駅ナカにあるフレッシュジュースの店ではオレンジジュースを頼んでしまうのだ。


「あの、またしても差し出がましいようですが、2杯目は、こちらを少しだけアレンジしたものを、お作りしてみましょうか? お代は結構ですので」


 そう話しかけてきたバイトくんを、思わず二度見してしまった。

 普段なら、ファジー・ネーブル・オンリーだが、代金はいらないってことなら頼んでみようか。


 ファジー・ネーブルの材料をグラスに入れ始める。

 それにしても、彼は楽しそうだ。カクテルを作るのが、そんなに楽しいのか?


 スプーンで掬って自分の手の甲に乗せ、味見をしてから、出来上がったカクテルを俺の目の前に置いた。


「ファジー・ネーブルに、少し炭酸とレモン果汁を加えてみました」


 スライスしたネーブルがグラスの縁に飾られ、華やかだ。

 グラスを近付けると、爽やかなオレンジの香りが強まり、桃の香りに癒され、それから口に流し込む。

 微炭酸になって少しサッパリしたが、甘味はちゃんとある。


「なるほど。これも美味いな」


「ありがとうございます。もっと炭酸を入れても良かったのですが、そうすると甘い印象が薄れてしまうので、お好みに合わないかと思いまして」


 どうやら、俺がいつも頼んでいるのを見ていて、彼なりに配慮したようだった。


 目の前にいる青いシャツに黒エプロンの彼に、俄然、興味が湧く。


「まだ学生さんだよね?」


「あ、はい」


「きみは、どんなカクテルが好きなの?」


「まだ二十歳になったばかりなので、そんなに多くは飲めてませんが、ジントニックは好きです。それから、……以前、マスターが作ってくれたドライ・マンハッタンは、強烈でしたが美味しくて、印象に残ってます」


 ドライ・マンハッタン——ドライと聞くだけで、俺のような甘党には縁遠い気がする。


「ごめん、ごめん、電話が長引いちゃって」


 マスターが戻って来た。


「いらっしゃいませ。お待たせしてすみません」

「いやいや、彼に美味しいもの作ってもらってたから大丈夫」


 マスターは、彼からざっと説明を聞くと、わかったと言い、今はお客さんも少ないし、ここはいいからピアノを弾いてこいとか何とかバイトくんに言っていた。


 カウンターとは反対側の壁際は、段差はないがステージの空間となっている。

 そこにあるグランドピアノの蓋を開けると、さっきのバイトくんが弾き始めた。


 何の曲かはわからないが、ゆったりした、なんとも心地良い音色だった。


 そして、カクテルを作っていた時のように、楽しそうな表情をしているのが、横顔からでもわかった。


「ピアノも上手いんだね、彼」

「ああ、音大生なんですよ」

「音大生が、こんなところでバイトしてんの?」


 驚いた俺の顔を見て、マスターが笑った。


「まだ迷いはあるみたいですけれどね、多分、良いバーテンダーになるんじゃないですかね」


「ああ、それは、俺も、なんとなくわかる気がするよ」


 マスターが微笑みながら言った。


「桜木優。お見知り置きを」




【ファジー・ネーブル】5〜8度

※氷を入れたグラスに直接作る。


 ピーチ・リキュール 1/3

 オレンジジュース 2/3


1/2ずつというレシピもあるが、かなり甘口。

割合はお好みで。

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