ある女性客:「スプモーニ」

 お店の前を掃き掃除をしている若い男の子が、顔を上げた。

 ぼうっと歩いていたわたしと、目が合ってしまった。


「いらっしゃいませ。今、開けますから」


「あ、わたし、別に……」


 呟いたわたしの声が小さ過ぎて聞こえなかったのか、多分、アルバイトのその男の子は気さくに微笑むと、お店に案内してくれた。


 珍しく定時に仕事が終わって、でも、まっすぐ家には帰りたくない気がして、カフェで珈琲でも飲んで帰ろうと思っていただけだったから、それがバーに変わるだけ……なんだよね。


「うちの店は、初めてですか?」


 カウンター席を勧められてから訊かれた。


「先月、会社の飲み会で来ました。すぐ近くの会社なんですけど、幹事の人が、こちらのマスターと知り合いだったみたいで」


「そうでしたか、失礼しました」


 彼はBGMをかけた。よく知らないけれど、映画音楽みたいだった。

 その間に、上着を脱いで、ブルーのシャツに黒いエプロンをして、ネームプレートを付けた。


 桜木くんていうんだ?

 改めて見ると、結構、背が高い。

 彼は、カウンターの後ろに並んでいる瓶を、一つずつ丁寧に、布で拭き始めた。

 かなりの数の瓶が並んでいるけれど?


「全部拭きますよ。並んでいる場所も決まっているので、場所を覚えるためでもあるんです」


 そんな面倒な作業なのに、この人は、そんなことも楽しいみたい。


 そのうち、見覚えのあるマスターが来て、「いらっしゃいませ」と、親しみやすい笑顔で言った。

 四〇代くらいのお髭の生えたマスターに、わたしも会釈をした。


「何にしましょうか?」


「先月、会社の飲み会で飲んだスプモーニが美味しかったので」


 先輩に美味しいよって勧められて、一緒に頼んだんだった。


「スプモーニなら、優、お前作れただろ? こいつが作ってもいいですかね?」


 マスターの話し方がちょっと面白くて、つい笑ってしまった。


「はい、お願いします」


 わたしが頷くのを見た桜木くんは嬉しそうに笑って、後ろに並んだお酒の瓶から、赤いお酒を持って来て、他の道具も並べていった。


「スプモーニは、女性に人気がありますね。男性でもお好きな方はいます」


 そう言って、用意する手を止め、困ったように顔を上げた。


「マスター、グレープフルーツが……すみません、僕、昨日練習で全部使ってしまって……」


 マスターは全然焦りもせずに「ジュースならあるけど」と言っている。


「そのジュースも美味しいんですが、生グレープフルーツが欲しいんです。すみません、お客様、今買って来ますから、少々お待ちいただけますか?」


「え、ええ。構いませんけど」


 近くに輸入物も扱うスーパーがあって、「あそこ、助かるんだよなぁ」とマスターが笑った。何か他のものを飲んで待つか聞いてくれたけれど、あんまりアルコールに強くないわたしは、そんなに飲めないから、彼が作ってくれようとしているスプモーニを待ってみたかった。


「すみません、お待たせしちゃって! 今から作りますね」


「ああ、慌てないで大丈夫ですから」


 出来上がったスプモーニは、フルートグラスっていうのかな、細長い丸みのあるグラスに入っていて、きれいなピンク色だった。

 思わず「わ〜、かわいい!」って、声を上げてしまった。


 ピンク色の中を、グレープフルーツのバラけた果実と、しゅわっとした炭酸の小さな泡がのぼっていって、見た目にも楽しい。


 あれ? でも、以前頼んだものは、色は綺麗だけどもう少し濃いピンクで、どっしりとしたロンググラスだったような?


「ああ、飲み会のように大人数だと早くなるべく揃えて出さないと、と思って、一般的なスプモーニにしちゃうんですけれど、今日はちょっと凝ってみました」


 桜木くんは、グレープフルーツの他にも、カクテルではレモンやライムを絞って使うこともありますけど、もったいないからってあんまりぎゅうぎゅう絞って、皮が破れると苦味が出ちゃうので、ほどほどがいいんですと説明した。


 繊細なグラスの足を持って、そうっと口に運ぶ。


 なに、これ……?

 この間飲んだスプモーニも美味しかったけど、これはもっとジュースみたいに、フレッシュで爽やか!


「美味しい……! グレープフルーツのつぶつぶの食感が、よりジューシーでいいですね! お酒じゃないみたい!」


 桜木くんは、にっこり笑った。


「つぶつぶがなくても美味しいですが、あると楽しいですよね」


 マスターが出してくれたミックスナッツをかじってから、思わずスプモーニの続きをごくごくと飲んでしまった。


 飲んだら、美味しくて、安心して……


「実は、わたし……」


 あれ? なんだか、勝手に言葉がするすると……?


「……今、付き合ってる人がいて……」


 なぜか、そんなことを口走っていた。

 こんなこと、話す気なんてなかったのに。

 

 お酒が入ると、ちょっと気が大きくなるからかな。この人が、わざわざスーパーに材料を買いに行くほど、わたしにこのお酒を作りたかった、そんなことまでしてくれたから……?


 友達とも疎遠になっていたわたしは、本当は、誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。

 そんな自分の奥底に追いやっていた気持ちが掘り出されて、現れたのは不思議だった。


 わたしのことを全然知らない誰かに聞いてもらえる方が、気が楽かも知れない。

 そう思えたんだ……。


「彼はやさしくて、話していると楽しいんですが、最近は仕事が忙しくてあまり会えないって。LINEでも素っ気なくなってきたような気がして……もしかしたら、わたしのことがつまらなくて、別れたいのかも……」


 桜木くんの顔も、マスターの顔も、見ることが出来ずにうつむいた。


「お客様から、会いたいって言ってみたらいかがでしょう?」


 しばらくしてから、少し遠慮がちな、桜木くんの声が聞こえた。

 確かに、わたしは、思ったことをなかなか言えない方だ。


「でも、仕事で忙しいなら、ワガママ言ったら嫌われるんじゃないかって……」


「言ってくれた方が、彼も嬉しいんじゃないですかね? 男性は言ってもらわないと気付かないことが多いですから。逆に、察しの良い男性は、女性にとっては付き合いやすいかも知れませんが、女性に慣れてる恐れがあります。鈍い男性の方が、誠実かもです」


 そういうものなの?

 嫌われないの?


「今までわがまま言わなかった人から言われたら、やっと自分を信頼してくれたのかと思って、僕なら感動しちゃうけどなぁ。……ああ、すみません、『素』が出ちゃって」


 はにかんだ桜木くんがちょっとかわいくて、私もつられて笑ってしまった。


「あの、……こんなことでウジウジ悩んでるなんて、わたし、アラサーなのに、おかしいですよね」


 桜木くんは、ちょっと驚いた顔になって「お若く見えますね」と言った。


 そう。わたしはいつも若く見られていたけれど、それは、しっかりしていないから。いつも自信がないから。


 人前に出ることも、話すことも苦手で、大人しい人に見られていて。

 何か責任のある仕事が回ってきたこともない。でも、年齢的にも、そろそろ回ってくるかもしれない……。そうしたら、少しは自分にも自信がつくようになるのかな?


「男女のことは、結婚して十年くらい経ってからわかることもあるみたいです」


「結婚しててもそんなに……。相手のこと全部わかった上で結婚するんじゃないんですね」


「……って、お客様が教えてくださいました」


「ですよね? だって、桜木くんはまだ……?」


「二十代前半の、お酒もデビューしたばかりのまだまだ小僧ですから」


 あはは。

 そんなに年下だったんだぁ?

 わたしの方が、全然しっかりしてない。


 まったく知らない人の方が話しやすいこともあったんだ。


 カウンターには、常連ぽいおじさん客が、わたしとは間を開けて座って、マスターに話しかけている。他のお客さんたちも増えて来たから、そろそろ帰ろうか。


「あの、一杯だけでしたけど、……いいんでしょうか?」


 本当に申し訳ないと思うんだけど、明日も仕事があるし……。


「いいんですよ。今度、是非、彼氏さんもご一緒にどうぞ。またスプモーニ作りますよ。今度はちゃんとグレープフルーツ最初からご用意しますから」


 屈託のない笑顔の桜木くんを見ていたら、本当に、付き合ってる彼をここに誘ってみたいって思った。


「はい。ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしてます」




【スプモーニ】5度

 イタリア語で「泡立つ」という意味。

 ※氷を入れたグラスに直接作る。


 カンパリ 30ml

 グレープフルーツジュース 40ml(~45ml)

 トニックウォーター 50ml(~約100ml)


 より引き締まった味が良ければ、以下のレシピもある。


 カンパリ 20ml

 グレープフルーツジュース 20ml

 トニックウォーター 適量


 お酒を割る用の市販の濃縮ジュースでも美味しいが、生グレープフルーツを絞ると、さっぱりと美味しくなる。

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