Ⅰ. 第3話 音の戯れ

 秋に行われた学内コンクールの本選では、優は二位であった。一位の四年生とは点差はあり、三位に近かったが、一年生で二位を穫ったことは話題になり、実技担当講師はますます浮かれていた。


「そのうち留学したらどう? そうなったら、アタシ、ついていきたいわ~!」


 講師のセリフとクネクネとした動作に、璃子は椅子ごと後退りした。


 優は留学にはそれほど関心はなく、学内コンクールの話題にもさほど興味のない様子だった。


 練習していたジャズの曲集を講師に見せることはなかったが、載っていたすべての曲をざっと弾けるようになると、多彩な音使いをするドビュッシーやラヴェルなど、近代の作曲家の曲を弾くようになった。

 次の曲の候補をいくつか考えていた講師は残念そうな、意外そうな顔になるが、試しに練習して来た優が、ドビュッシーの楽譜を台に置く。


 『ベルガマスク組曲 第一番前奏曲(プレリュード)』。

 ラフマニノフの『鐘』に比べて明るい音が鳴り響く。透明感のある豪華さと柔らかさに、講師も璃子も意外な表情になった。 


「あら! 優クン、そういうのもいいわねぇ!」


 講師の感心した声に振り向き、優は、ほっとした笑顔になる。


「ラヴェルの『水の戯れ』とか『道化師の朝の歌』も面白そうだなと思って。でも、難しいので、とりあえず、『亡き王女のためのパヴァーヌ』を途中までやってみました」


 美しくも物悲しい旋律。

 華やかさを抑えた幅広い和音、淡白に、優雅に、切なく、弦が鳴る。

 ゆったりと、時間が過ぎていく――


「いいわぁ~! ここの和音も思い切りいきたいところだけど、ちゃんとその手前で抑えてて! その加減がまた堪らないのよね~!」


「ですよね! ここの部分、好きなんですよ」


「そうそう! そこ、アタシも好きなのぉ~!」


 身悶えするあまり身をよじる講師と、楽しそうな優とを、璃子は一歩引いたろころから見守っていた。




 開店前の『Something』では、仕事の時間の前にピアノを触らせてもらえた。

 遥が来ると、それを待っていたように、優は、楽譜のほとんどのジャズの曲をスムーズに弾いてみせた。


「へー……!」


 遥の目が丸くなり、感心した声を出した。


「もうそれっぽい弾き方が出来てるの? すごいじゃない!」


 遥がアドバイスをし、優はそれを取り入れて弾く。


 『On The Sunny Side Of The Street――明るい表通りで(Jimmy McHugh 作曲、Dorothy Fields 作詞)』

 そのうち、優には伴奏だけを弾かせ、その上に遥が崩したメロディーを軽やかなアルトで乗せていった。


 マスターが「しまった! オリーブオイルが切れてたんだった!」と言って、買い出しに行ったのも気付かないほど、即興演奏は留まるところを知らず続いていた。


 本人たちにしかわからない間違いや、無茶なフェイクに笑い合いながら、長い一曲を終えた。


「ああ、楽しかった!」


 遥が椅子の背にもたれて笑う。

 清々しい笑顔だった。


「前に、遥さんが、僕に『何も知らないのね』って言った意味が、最近わかってきました」


 眩しそうに遥を見つめてから、優が続けた。


「自分の勉強したい音楽もわからずに大学決めて、今まで先生の勧める古典派やロマン派の曲を中心に弾いてきたけど、ジャズを弾くようになってから、それまで興味なかった印象派の音楽にも興味が出て来たんです。まだまだ表現し切れてないけど、もっと自分からいろんな音楽に興味を持てれば良かったと思いました。遥さんが言ってたのは、こういうことだったんですね!」


 一段階進んだ人間が見せる何かを悟ったような笑顔を、しばらく眺めていた遥は、ふっと顔を綻ばせた。


「私がそう言ったのは、それもあったけど、それだけじゃないわ」


 鍵盤の上に置かれた優の手に遥が手を重ね、そっと遥の唇が近付いていき、優のそれに重なった。


 無音だった。

 時が止まったかのように。


 ゆっくりと唇が離れると、ただ真意を尋ねるように、優が、彼女の瞳を見つめる。


「目を閉じて」


 もう一度、遥が唇を押し付け、探るように動いた。

 静寂の中、唇の立てる音だけが耳をくすぐる。


「続きは、後でね」




 仕事の後、電車を乗り継ぎ、遥の部屋へ招かれた。


「散らかってるけど」


 簡素な部屋に、出しっ放しの楽譜、CDやメイク道具、ハンガーにかけれた衣装が並ぶ部屋の角には、電子ピアノがあった。アパートでは生ピアノを置くのは禁止されていると、優はいずれ家を出ようと思い始めてから調べていて知っていた。


 自分は恵まれている。グランドピアノが部屋にあるのも、親の家に住んでいるおかげだ。

 比べて、一人暮らしの遥は、自立して生活する大人の女なのだと思うと、親のすねを嚙っている自分が何も出来ない人間にすら思え、恥ずかしくなってくる。


「さっきはびっくりしたでしょう? ごめんね」


 遥は、ソファの前のローテーブルに、ミネラルウォーターを入れたグラスを二つ置いた。ミントが浮かんでいる。


「これ、優くんの真似してみたのよ。目に付いた時にミントの葉を買うようにしてるの」


「気に入っていただけたなら、良かったです」


 遥はソファに置かれた優の指に触れた。


「優くんの手、見る度にいいなぁって思ってたの」


「え、手ですか?」


 怪訝そうな顔で自分の手を見る優に、遥は笑った。


「この手に触れられたいって思った。女はそうよ。だから、きれいな手の男の人って得なのよ」


 遥の瞳を見つめ、優は恥ずかしそうに微笑んだ。


「僕は、遥さんの声も、歌も、ピアノの音も好きでした。どうしたら、あんな明るく澄んだ音が出せるのかって、遥さんの音を目指して練習してました」


「それは、嬉しいわ。早くも学習効果はあったみたいね」


「それなら、いいんですが……」 


 優の手を包み込むと、遥は自分の頬に当てた。


「あなたが興味があるのは、私の音楽だけ?」


 優の瞳が、さらに和やかに遥を見つめた。


「そんなわけないでしょう?」


 頬から首筋を通り、肩に、長い指が移動すると、彼女の肩がぴくっと揺れた。


「目の前のひとにもですよ」


 軽く触れ合い、離れては確かめ合う。


 唇が、指が、頬を、唇を、肌を、伝っていった。


「本当に初めて?」


 遥が確認するたび、優は笑って答える。


「そう言ってるでしょう」


「だって、なんかすごくいい感じよ」


「さっき、遥さんに教えてもらったから」


「またしても、学習効果が現れてるのね」


「先生がいいから」


「お上手ね」


 遥の唇が熱く被さった。その要望に応えるごとに、彼女の身体が深くソファに沈む。

 首筋に口づけながら、優がささやいた。


「どうしてあげたらいい?」


「キスして」


 優が笑った。


「してるよ」


「もっと。何も考えられなくなるくらい。もっと……」


 その先の遥の言葉は、溜め息にしかならなかった。

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