Ⅰ. 第6話 ドライ・マンハッタン

 コンクールの一件から、優の身辺は、興味本位に根掘り葉掘り尋ねる学生達で騒がしくなった。一番に「なぜ、ピアノソロ部分を譜面通りでなく即興で弾いたのか」という質問が、その次には「なぜ、そんなバカなことをしたのか。普通に弾いていれば良いものを」というものだった。


 そんな言葉を浴びる優が「不器用でね」などと、にこやかに返すのを隣で見て来た璃子は、だんだん胸が苦しくなってきた。自分も同じことをコンクール直後にぶつけてしまい、謝るタイミングを逃してしまったが、優としては、コンクールの結果などはどうでもいいように思っているのではないか、そんな風に見えて仕方がない。


 数週間経った今では、コンクールの話題は鎮まって来ていた。

 二〇歳になった優は、大輔、璃子と『Something』で誕生祝いをすることになった。


「まったくもう、いつもハラハラさせるんだから。二〇歳になったからには、もう少し落ち着いてよ」


「はい。気をつけます」


 からかった璃子に、わざとかしこまった優が、にっこり笑った。

 思わず許したくなってしまう屈託のない笑顔を、璃子が憎々しげに見つめる。


「いや、優はそのままでいろ。お前はきっと勇者なんだ! 冒険出来ない俺の代わりに、冒険してくれていいからな!」


「ちょっと大輔、けしかけないの!」


 アルコール解禁にともない、マスターから優に、初の生ビールがプレゼントされた。

 大輔と璃子は、一足先に誕生日を迎えていたので、何度目かのビールとなる。


「わ~、やっと飲める!」


 嬉しそうに、優はロンググラスを傾けた。

 なめらかな舌触りの後、苦みのある炭酸がやってきた。


「美味いです!」


 笑顔になると、マスターも満足そうである。


「親戚の集まりで乾杯する時、一口だけ味見をしたことがあって、その時はビールが美味いとは思えなかったんですけど、今は美味いと思えます。よく『泡が美味い!』っていうのを聞きますが、その意味もわかった気がします」


「これでやっとお前にもカクテル作るのを手伝わせられるな!」


 マスターは笑い声を上げ、待ちに待ったと言わんばかりに喜んだ。


 他の店でライヴが入っていた遥とは、夜、一緒に誕生祝いをすることになっていた。

 店を出て大輔、璃子と別れると、優は彼女のアパートへと向かった。


 冷蔵庫には、白ワインが冷やしてあった。二人で乾杯しようと遥が買っておいたものだ。


「やっと二〇歳なのね」


「やっとお酒が飲めるお年頃になれたよ」


「とっくに飲めそうだったけどね」


 遥が笑い、優の注いだワインを一口飲み込む。

 このごろ、遥の情緒不安定が続いているのを、優は懸念していた。時々涙を拭いていたり、苛ついていたり、考え事をしていることもよく見られた。


「私よりも、優くんは大人みたい」


「そんなことないよ。遥さんに追いつきたいと思ってるよ」


「優くんは、私がワガママ言っても怒ったことないよね。我慢させちゃってごめんね」


「別に我慢してないよ。遥さんは最近謝ってばっかりだよ。なんでそんなに謝るの?」


 遥が優を見上げてから、後ろめたそうに視線を反らした。


「あなたは輝いてる。才能もあるし、そう、宝石の原石みたいに、これからもいろんなことを吸収して、どんどん輝いていくわ。でも、私は、どんどんくすんでいくの」


「なんで? 遥さんだってまだ20代だよ」


「そろそろいい加減に宮崎の実家に帰ってこいって、親に言われてるの」


 遥の目から、涙があふれていった。

 焦りが情緒不安定にさせていたのか。

 優は、自分ではどうしようもない事態を悟った。


「あなたを見ていると、時々苦しくなる。これからの人と、終わっていく人。それを突きつけられているみたい」


「そんな……! じゃあ、どうすれば……遥さんのために、僕はどうしたら……!」


「優くんは、私に、『行かないで』って、引き留めないのね……」


 黙る優には構わず、遥は呟いた。


「言えるわけないよね。ごめんね、困らせて」


 引き留めるようなことを言うのは非現実的だとわかっているほど、彼にそれが出来るわけはなかった。


 自分の手からこぼれていきそうな彼女を、どう食い止めればいいのかわからないまま、強く抱きしめた。


「明日は学校を休む。今日はこのまま一緒にいるよ。明日も明後日も」


 遥が我に返り、優の腕をほどいた。


「そんなことまでさせるのは年上の女として最低だわ。私を最低女にしないで。明日はちゃんと学校に行って。私も気晴らしに、昼間から『Something』に手伝いに行ってくるから。だから、今日はちゃんと家に帰って」


 遥の声はこれまでと違い、少し凛としていた。

 だが、何かを言いたげな顔をする彼女は、やはり何も言おうとしなかったのだった。




「マスター! 遥さん来てない?」


 数日後、学校から帰りがけに駆け込んだ優を、カウンターから、マスターがきょとんとして見つめた。


「今日はまだ来てないけど?」


 優は愕然とした。頭の中が真っ白だった。


 ただ、「防げなかった」と思った。

 何かから、彼女を守ることが出来なかった、漠然とそう悟った。


 ただならぬ事態を察したマスターが、カウンターの端へ促した。


「何があった?」


「……アパートが引き払われていて、何も残ってませんでした。携帯も解約されてて……」


 マスターもスマートフォンを手にするが、彼女には通じない。


「またか……!」


 大きく溜め息を吐いたマスターは、優の表情を見つめてから、慎重な面差しになる。


「お前と遥との間に何があったかは聞かないでおく。遥の実家の親から、二、三日前に俺のところに連絡が来た。いい加減、連れ戻したいから近いうち上京する、と。その度に、あいつは音信不通になって、しばらくしてから俺に連絡してくる、それを繰り返してる。おそらく、今回もどこかで身を潜めてるんだろう。そこは、……ある男のところだと思う」


 優の表情が強張り、カウンターテーブルに視線を落とすのを見守りながら、マスターは続けた。 


「二人は以前同棲していてな、遥はあれで献身的に尽くしてたが、男の女癖の悪さに愛想を尽かして別れた。以来、彼女も何人か付き合ったが、ヤツのことを放っておけず、二人はくっついたり離れたりしてたんだよ」


「……同じ結果になるのは目に見えていて、なんで繰り返すんですか? そんなの、逃げてるだけじゃないですか」


 俯いた優の言葉は、静かだが強い口調だった。


「お前は強いんだと思うよ」


 マスターは、穏やかに言った。それでも、優には、まだ自分が経験が浅いと言われているのだと思えた。


「あいつらは要するに腐れ縁なんだ。惹き合うのは音楽的な要素も大きかった。感覚も似ていたからこそ、うまくいく時とぶつかる時もあった。二人は同志であり、ライバルでもあり、そうやって音楽面では成長して来た。あの二人には、他のヤツが入り込めない絆みたいなものがあったように、俺には思えたよ」


「……僕じゃ、まだそこまでは……」


「そういうわけだから、気にするな。まあ、俺も、この年になっても女性の気持ちはよくわからんが、遥は自分が男を支えていることに価値を見い出していたところがあった。ちょっとくらいダメなところのある男に、いつも惹かれてた。俺から見ると、脆いところのある彼女より、お前の方が強いと思う。彼女はだんだんお前に自分の欠点や見せたくない部分まで見抜かれそうな気がして、怖かったのかも知れない。常にお前の前を歩く年上の女でいたいプライドがそうさせていたんだろう」


「何も話してくれなかったのは、僕が子供だからだと……。そう思われたくなくて、遥さんと対等になりたくて頑張っていたつもりだった。それは、……単に、意味のない背伸びだったのかな。心配させたくなくて言わなかったけど、本当は、もっと学校のこととかも、相談しても良かったのかも知れない……」


「お前は悪くないよ」


「だとしても、あの二人の絆には、勝てないんですよね」


 淋しく笑う。


「悔しいが、今のところは、遥と縁があったのは向こうだったと思うしかない。遥もまだ本物が何かわかっていないんだと思う。お前より七歳年上とは言ってもたかが二七だ、まだまだ若い。本当の女盛り、男盛りは三〇過ぎてからだと俺は思うね」


 マスターは、がっしりとしたガラス製のミキシンググラスの中の酒と氷を、なめらかに、音も立てず、バースプーンで混ぜた。

 穴の開いたストレーナーでこしながらグラスに注ぎ、小さく切ったレモンの皮の香りを飛ばす。


 出来上がったショートカクテルは、優の前に置かれた。


 目の前のカクテルに興味を持つ余裕は、彼にはなかった。

 琥珀色の飲み物の中に、オリーブが沈む。赤ピーマンを詰め塩漬けにしたものだというのは知っていた。


 なんというカクテルかはわからずに、ただグラスに口を付ける。


「!?」


 目の覚めるような辛さと、初めて口にした濃いウィスキーの味に、我に返った。


「これは……?」


「ドライ・マンハッタンだ。かなり強いから、酒の味を覚え始めのお前にはキツいだろうと思って、ちょっと長く混ぜたステアした


 その間に溶けた氷が加水の量をふやしている分良く混ぜ、水っぽい仕上がりにはなっていない。


 マスターの心遣いを感じながら、そのカクテルを興味深く見つめた。


 つい最近、ウイスキーの水割りを飲んだ時は、あまり美味しいとは思えなかった。

 強いけれど、これは美味しい。


 優は、もう一度グラスを傾けた。


 ドライ・マンハッタンは、やはりきつい。

 だが、レモンの香りが心地よく、ウィスキー臭さが感じられない。一口目よりも、美味しさがわかってきたような気がする。


 舌にピリッとした感覚が残り、飲む度に目が覚めるこのカクテルに、心が向かっていく。


「そのカクテルのレシピは、ここにある」


 マスターが、レシピ本を差し出した。


「カクテルの女王と呼ばれる『マンハッタン』。アメリカ十九代大統領選のニューヨークでの講演会パーティーの時に、後のイギリスの首相チャーチルの母親が作ったという。スイートベルモットをドライベルモットに変え、レッドチェリーをスタッフドオリーブに変えたものが、その『ドライ・マンハッタン』だ」


 優がレシピに目を通す間、マスターは、さりげない口調になった。


「ドライ・マンハッタンにはもうひとつの説もあってな、メリーランド州のバーテンダーが、傷付いたガンマンの気付け用に作ったという説もある。ま、能書きなんかどうでもいいか」


 ……それで、これを……?


 マスターを見上げた優には、彼の思いやりが感じられていた。


「どっちにしろ、もっと大人にならないとわからないことなんでしょうね。人も、ドライ・マンハッタンも」


「辛い経験もスパイスだと思って、全部自分のモンにしちゃえ。今日は苦く感じる酒も、いつか美味しく思える日が来る。お前なら、近いうちわかるようになるだろう」


「……って、今後も、苦い酒を飲むことになるんでしょうか?」


「なにも、あえて飲むことはない。飲んじゃった時は、しょうがないけどな」


 顔を見合わせ、互いに苦いものを食べた時のような笑いを浮かべると、優はゆっくりと、琥珀色の飲み物を味わった。




【ドライ・マンハッタン】35度

※ミキシンググラス(別のグラス)に氷と材料を入れ、よく混ぜてから、ストレーナーでこす。


 ウィスキー 3/4

 ドライ・ベルモット 1/4

 アロマティック・ビターズ 1dash(1滴)

 (アンゴスチュラ・ビターズ)

 オリーブ 1個

 ピール用レモン

 (レモンの皮を小さく切り、折り畳んで香りを飛ばして付ける)

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