Ⅰ. 第5話 ラプソディー・イン・ブルー
学内コンクール本選会場では、出場者と、応援や勉強のために来た学生たち、講師たちが、満席とはいかないまでも集まっていた。
コンクール出演者は、演奏会のように女子生徒はドレスを着用し、男子生徒は濃い色のスーツだった。
異常ともいえる緊迫感漂う中、研ぎ澄まされたグランドピアノの音が、冷たい空気を通り、響く。
持っている力を出し切り、最高の演奏をすることを、コンクール出演者は目標にしている。
光沢のある赤や青、或は淡い色のドレス、黒やグレーのスーツを着た生徒たちはテクニックを駆使し、息苦しくなるほどの緊張感には、出演者も観客も呑まれそうになる。
出演者の中には、普段間違えることのない箇所でミスをすることもあった。その度に、空気は一層冷ややかに感じられる。
優は黒いスーツで登場した。普段と変わらず、微笑さえ浮かんでいる。
客席の前寄り中央は審査員席であり、その後ろで、大輔と璃子は祈るような思いでライトに照らされたステージを見守っていた。
少しの沈黙の後、右手のトリルから静かに始まり、音が駆け登って行く。
『ラプソディー・イン・ブルー』はピアノ協奏曲として作られた曲だ。オーケストラらしき分厚い華やかな和音が強く響き渡り、ソロ楽器を連想するフレーズとの対比がよく表現出来ていると分析しながら、二人は安定した演奏に聴き入っていた。
後半、オーケストラの部分からピアノのソロ部分に変わると、その後には、また豪華なオーケストラ部分が控えている、そんなところだった。
ゆったりと自由なテンポに始まり、徐々に加速していく。
ジャズ色の濃いフレーズ、和音が、緩急つけて跳ねる、踊る。
ステージでの彼は自由に気ままに、そして、聴かせた。
それは、ふんわりと、客席までをも明るく、柔らかく包み込む。
初めて聴くような観客を魅了する音に、璃子は息を呑んだ。
いつの間に、優はこのような技法を身に付けたのだろうと、感心しながら、鼓動が高鳴っていくのを感じた。
ただの譜面の再現などではない。
曲は、完全に彼のものとなっていた。彼のものとして、観客に届けられている。
彼が求めていた音楽は、もしかしたら、こういうことなのかも知れない。
他の出演者には感じられなかった感動を噛み締めながら、璃子はこのままミスがないよう祈るが、当の優には余裕すら感じられ、きらびやかな音を振りまき続けている。
いけるかも知れない。二位以上は確定だ。
璃子は確信した。
大輔もそう思っているはず。
璃子が大輔の横顔を盗み見た時、審査員の講師五人がざわつき、顔を見合わせた。
璃子の視線に気付くことなく、大輔はどこかがおかしいと思った。自分の知るこの曲では、こんな部分はなかった。
審査員の一人が「譜面にない」と言ったのを、席の近かった大輔は聞き逃さなかった。
結果発表では、優は入賞すらしていなかった。
「まったく、どういうつもりなのっ!?」
会場のロビーでは、担当講師と教授の二人掛かりが激怒しているが、優は下を向いて黙ったままだった。
「大輔、優くんいったいどうしたの?」
「璃子は、あの曲のオーケストラ版もピアノ版も聴いたことない?」
「チラッとなら聴いたことあるけど、じっくり聴いたことは……」
大輔は、ためらった後に説明した。
「俺は聴いた。オーケストラのピアノソロにあたる部分を、優は楽譜にないことを弾いたんだよ」
「えっ!?」
講師たちの長い説教を待ってから、璃子は優に駆け寄っていった。
「優くん、いったい何やらかしたの!?」
優は苦笑した。
「後半のピアノソロの部分を、アドリブで弾いたんだよ。それが、先生たちにバレて、譜面通りじゃないから失格だって」
璃子はショックを受け、言葉も思い付かないようだった。
目を白黒させながら、大輔が言った。
「アドリブってことは即興だったのか? ……よくそんなこと出来たな」
「そういうの考えるのは楽しいから」
「なんでそんなことしたの!? せっかくのチャンスだったのに! せっかく、ここまで頑張ってきたのに!」
璃子が涙をためた目で、優を睨んだ。
「出たくても出られなかった人とか、予選落ちて悔しい思いをした人もいたのに! 二年連続で本選に出られる実力がありながら、なんでふざけたの!?」
大輔が璃子の剣幕に驚くが、優は少し淋しそうな微笑を浮かべた。
「ふざけてなんかないよ。ガーシュウィンはピアノ協奏曲を作る依頼をされてあの曲を作ったけれど、ピアノソロパートの譜面を書く時間がなくて、実際本番でオーケストラと合わせた時に、その部分は即興で演奏したんだ。だから、本来ならそのピアニストのアドリブになるだろうと思って、そうしただけだよ。僕は、あの曲に真面目に向き合っただけだよ」
「でも……! 譜面通り弾かなかったら失格だって、わかってたでしょう?」
「わかってたよ。だけど、そんなのは音大だけの……もっと言えば、クラシックのコンクールでしか通用しない理由だよ。音楽の可能性を狭めてるよ」
冷静に応える優を前にして、言い返せずにいる璃子の目から大粒の涙がこぼれた。
「先生に見てもらった時は譜面通り弾いてたんじゃないの?」
「先生にもここはアドリブで弾きたいって言ったんだけど、許してもらえなかったから、レッスンでは譜面通り弾いてた」
呆気に取られている璃子は棒立ちになり、涙がこぼれ落ちるのを拭くのも忘れ、ただただ優の顔を見上げていた。
「ま、まあ、きっと、アレだな、俺は敷かれたレールの上を行くようなタイプだけど、お前は、なんか違うのかもな。違うもの見付けちゃったんだろうな。それをただ表現した。お前にとっては、それだけのことだったんだな?」
「大輔、ありがとう」
微笑むと、優は璃子に「ごめん」とだけ言い、会場から出て行った。
「なんでよ、優くん……、なんで、あんなこと……。何考えてるのか、私にはわかんないよ」
泣き続ける璃子の横で、大輔が肩を落とした。
「まったくだよなぁ! もったいない! ……だけど、あの即興演奏は、良かった」
しゃくり上げながら、璃子も頷いた。
「……私も感動した。クラシックだとかジャズだとかは関係なく、ただすごいって思った」
「だよな! 俺もだ。先生たちは、本当のところどう思ったんだろうな。コンクールの審査じゃなく聴いたとしたら? 純粋に音楽を楽しもうと聴いていたとしたら? ……だとしても、あれを審査出来る先生はいないだろうな。一番悔しい思いをしているのは、優だ。少なくとも、ここじゃ、あいつのやることは誰にも理解されないだろうから」
大輔は優の去って行く後ろ姿を見ながら呟いた。
「同じ東京にあっても、学校の外じゃいろんな音楽があるんだよなぁ……。もっと言えば、東京に限らずなんだよな」
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