Ⅲ. 第3話 旅する激レア・マティーニ
女性バーテンダーの用意した「マティーニ・ニューグランド」は、見た目には、透明でオリーブの入ったマティーニそのものと変わらない。
「軽くてさっぱりしてる?」
優が目を見開き、同僚の
「ドライ・マティーニに慣れると物足りなく思うかも知れないけれど、これも美味しいですね」
榊が、速水と女性バーテンダーを見た。
「これが、横浜で生まれたマティーニなんですか? 正直、マティーニとは違うお酒のように思えますが」
狐につままれたといった、カルチャーショックを受けた顔を向ける二人に、女性バーテンダー南
「『ホテル・ニューグランド』はご存知でしょう?」
「山下公園のところにある有名な老舗ホテルですよね?」
答えた優に、頷く。
「終戦後に進駐軍が来て、マッカーサーも滞在したと言われています」
「マッカーサーが泊まったの!?」
興味津々になる二人を結月に任せ、速水は静かにマティーニを傾ける。
「当時は食料の調達が難しく、マティーニに使うドライ・ベルモットが手に入らなかったのです。それで、苦肉の策として、代わりにシェリー酒を使ったものをマティーニとしてお出ししたそうです。それが『マティーニ・ニューグランド』というカクテルとなったのです」
はあ〜、と二人は、置かれているシェリー酒とジンの瓶を眺めた。
「味的には、僕も速水さんお勧めのマティーニの方が好きですけど、そんな歴史があって、当時のニューグランドのバーテンダーさんたちが考え抜いて乗り切ったカクテルだと思うと、感慨深いです。今度作ってみようかな」
しみじみと、優が言った。
そうだ、「マティーニだよ」といって何食わぬ顔で、蓮華に出してみようか。
驚くのが目に浮かぶ。
最も、彼女がマティーニを知らなければ、からかい甲斐もないが。
などと思い付いた優は、笑いを堪えた。
「速水さん、もう一つ、彼らにお作りしてもよろしいでしょうか? 赤道を超えた『
結月の提案に、速水は頷いた。
「『生命の水』っていうと、ウィスキーみたいだね」
優と榊はそんなことを話しながら、彼女の手元を見つめる。
スピリッツをミキシンググラスに入れ、ベルモットを注ぐ。
氷を入れ、バースプーンで静かに素早く混ぜ続けた後、スプリングのついたストレーナーをはめて
「アクアヴィット・マティーニになります」
透明なマティーニとは違う、茶色がかった酒を受け取った二人は、一口啜ると顔を見合わせた。
「マティーニと全然違う!
「まろやかで……濃い!?」
「マティーニでもジンは使ってませんから。代わりに、北欧で生まれたアクアヴィットっていうスピリッツを使いました」
じゃがいもを原料としてハーブやスパイスで香り付けされ、芋の香りも味もしない。
結月の見せた瓶のラベルには帆船の絵が描かれ、LINIEの文字がある。
「『生命の水』を意味するラテン語アクア・ヴィテから来てます。通常は無色透明ですが、このLinie Aquavit (リニエ・アクアヴィット)は専門店じゃないと手に入りませんし、バーでも置いてあるお店はかなり少ないです。これがあるということは相当マニアックです。ここは、ちょうどみなとみらいが一望出来ますし、船も見えるので置いてみました」
結月は、小さく細いグラスに原酒を入れ、二人の前に置いた。
「黄色っぽい褐色に色付いてるのに、
そう尋ねた榊が一口だけ口に含み、優も同じように味わい、顔を上げる。
「独特の味だけど、濃くてまろやかなところが……どことなく、日本酒の樽酒みたいな木の香りというか、品の良い感じがしますね」
結月の瞳が面白そうに光り、優に向けられた。
「これは、通常のアクアヴィットと違って、シェリー樽で熟成されてるんです。しかも、十八世紀当時からの伝統を守っていて、当時の交通手段が船だったから、オーストラリアまでの往復の間、船でアクアヴィットの樽を運んでいました。赤道を通ると、なぜか琥珀色になって、風味も良くなるんです」
「だから、樽らしい深みのある味なのかぁ」
榊がそう言うと、結月が感心したように微笑んだ。
「さらに、ラベルの裏には、この樽を運んだ船の航路と、運んでいた期間が書かれているんです」
半分ほど中身の減っているボトルを裏返してライトを当て、優と榊に見せる。
「へー! じゃあ、飲んで中身が減ると見えるようになる、秘密の宝の地図みたいで面白いですね!」
榊の目も、優の目も、少年のようにわくわくと輝いた。
「このボトルは、三年間、船に揺られてたみたいだね」
「それも、赤道を通って、か……。越えたことないな、赤道」
「僕も」
ボトルを受け取った二人は、じっとラベルの裏を見つめ、感慨深い表情になる。
「ずっと海の上を旅してきたのかと思うと、ご苦労様って言いたくなるね」
優がボトルに微笑んだ。
二人を帰した後も、ひとりカウンターに残った速水に、結月が微笑みかけた。
「お二人とも、お酒に対する愛情もあって、良い目と舌を持っているようでしたね。どちらを『Limelight』のチーフ・バーテンダーにとお考えなんですか?」
速水は、ブランデーに、コニャックにビターオレンジのエキスを加えたリキュール「グラン・マルニエ」を足したものを、ゆっくりと味わった。
「まだ早い」
榊と別れた優は、赤レンガ倉庫の方面から現れた蓮華とその祖父に出会った。二人はライヴ鑑賞の帰りだった。
勉強のために、同僚と一緒に速水に連れられて来たことを、優は簡単に説明してから、水城に頭を下げる。
「見習い時代にも、水城さんにはお世話になりました」
バーテンダーの見習い時代は、給料が低い。良い物の味を知る必要があっても金銭的余裕はないため、気前の良い年配客などが他の店に連れていき、奢ることがあった。
祖父も、見習いの優たちを引き連れて振る舞っていたと、蓮華は初めて知った。
「今は地で構わんよ。きみの地も見てみたい。いろいろと蓮華が迷惑をかけてるんじゃないかね? 愚痴ってくれていいぞ」
そう言う祖父の横で首を引っ込めた蓮華を見て、優が笑った。
「今の店はどうかね? 職場としても気に入ってるかね?」
「はい。オーナーの速水さんは口数が少なくて、一見ぶっきらぼうに見えますが、お客さんが気付かないくらいのさりげない気遣いとか心配りをしている時があるんです。そういうところを見ると、僕なんかまだまだだなぁって思って」
「尊敬してるんだね。なんで優ちゃんがあのお店に移ったのか、少しわかった気がするわ」
蓮華がひょこっと顔をのぞかせた。
「『Something』のマスターの勧めなんだ。扱うお酒の種類も多いし。速水さんはマスターみたいな面倒見のいいお父さん的な人とはタイプの違う人で、いかにも師匠って感じ。普段あまり説明はしてくれないけど、近くにいると、なんかすごい人だってことは伝わってくるんだ。気配りといい、カクテルの配合といい……。他のバーを見に行くだけじゃなくて、バーテンダーには美術的なセンスも必要だから、美術館に行ったり、日頃から美しい物に感心を持てとも言っていて」
「『Something』は気楽なところがいい。学生も多く、気軽に演奏も出来たり、客も気さくな人が多い」
水城が微笑み、優も頷いた。
「『Limelight』の優ちゃんは、なんだか普通のバーテンダーみたい。あたしは、『Something』の素に近い優ちゃんの方がいいなぁ」
蓮華にそう言われてもムッとすることなく、優が笑った。
「僕もそう思うよ」
「優ちゃんと『Something』でライヴ出来なくなっちゃって、ちょっと淋しいなぁ。優ちゃんだって、ライヴに出てないとピアノの腕が衰えちゃうでしょう?」
蓮華が残念そうに見上げるが、優は笑った。
「橘先生のレッスンも通えてなくてね。弾く方はしばらくお預けになっちゃうかなぁ」
「優ちゃんは、それでもいいの?」
「バーテンダーの仕事も奥が深いんだよ。ピアノは趣味になっても、後悔はしないから」
「そっか。あたしは優ちゃんのピアノもカクテルも好きだけど、両方は選べないもんね、ピアニストとバーテンダー。どっちも練習が必要だし、勤務時間以外にもやること無限だもんね」
「無限……恐ろしいね」
蓮華のセリフに、優が苦笑いになる。
「ちゃんとバーテンダーしてるじゃない」
「認めていただけましたか?」
蓮華と優は、顔を見合わせて笑った。
「蓮華とは、どうなのかね? 付き合いは長そうだが?」
水城が、からかうような目で交互に二人を見る。
蓮華が呆れたような顔になる。
「おじいちゃんたら、何を言ってるの」
「そうですねぇ……」
優は、蓮華を面白そうに眺めた。
それに対し、蓮華は、じろっと見返す。
「優ちゃんも、マトモに答えようとしなくていいんだからね」
「失礼を承知で言いますが、なんだか親戚の子みたいな感覚なんですよねぇ。蓮ちゃんがいい女になるには、あと十年くらいかかるんじゃない?」
「ふ〜ん、そんなこと言って、後悔しても遅いんだからね」
ふふんと挑発的な笑顔の蓮華を、優は笑って見ていた。
【マティーニ】35度
※氷を入れたミキシンググラスで混ぜる。
ジン 45ml(3/4)
ドライ・ベルモット 15ml(1/4)
スタッフド・オリーブ
レモンピール
今主流の5:1レシピでは、度数は42度以上になる。
【マティーニ・ニューグランド】
※マティーニと同様。
ジン
ドライ・シェリー
【アクアヴィット・マティーニ】
アクアヴィット
ドライ・ベルモット
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