Ⅳ. 第6話 アドニスと障壁
*
優と蓮華、新香は、新しい店の打ち合わせのためカフェに集合していた。
時折、蓮華の働くスナックに、優も顔を出していた。接客の様子や、飲み物や酒の肴を差し出す所作などからは品の良さが見られ、普段の友達付き合いからは想像も出来ない面をいくつも目にした。
喋り続ける年配客にもにこやかに頷き、見え透いたお世辞ではない気遣いも、彼女の返答から感じられる。
意外とママに向いているのかも知れない。
男ばかりの職場で働いてきたせいで気が付かなかったが、女性が一人いるだけで随分店の雰囲気は変わる。しかも、酒を作る専門のバーテンダーではなく、接客専門の女性。
蓮華とは知り合ってから三年以上が経つ。
その間に髪が伸びたこともあるが、大人びて、綺麗になった。
特に、最近は表情に柔らかみが加わり、自然な笑顔が映え、眩しく感じられるほどだ。
理由は、わかっていた。
楓と付き合い始めてからだということも。
これまで以上に笑うことが増え、妙にテンションが高かったり、些細なことで憂えていたり、彼女がちょっとした情緒不安定に陥る時は、大抵、恋をしている時だとは、優にもわかっていた。
打ち合わせが終わり、蓮華は楓のライヴに出かけた。
もう一杯だけ珈琲を飲んでから帰ろうと、新香と残ると、彼女から切り出した。
「最近、蓮華、こっちにはたまにしか戻って来ないんだよ」
「……てことは、楓くんの家にずっといるってこと?」
優が尋ねると、新香は小さく頷いた。
「大丈夫かなぁ。仕事はちゃんと行ってるし、店を出す情熱には変わりはないんだけど、……蓮華、ちょっと痩せたと思わない?」
「……うん」
珈琲を一口飲むと、新香が椅子の背もたれに寄りかかり、溜め息を吐いた。
「最初のうちはね、彼も家事をやってたらしいけど、オリジナルを五〇曲以上用意しなくちゃいけなくて、寝る間も惜しんで曲書いてたから、その時だけ蓮華が家事を全部やって、相談にも乗って、支えていたみたいなんだ」
淡々と語る新香の口調ではあったが、蓮華を心配しているように優には受け取れた。
「恋愛中でも、蓮ちゃんなら自分を見失わないんじゃないかな」
「そうなんだけどね……」
溜め息を吐いてから、新香が優の顔を見つめる。
「優さんは、……平気なの?」
優が、聞き返すような表情になる。
「蓮華のこと、親戚の子みたいだとか、男の友情だとか言ってるけどさ」
「もっと詳しく言うと、そういうものを超えたパートナー、バディだよ。何があっても、ちゃんと自分でなんとか出来る人だと思ってるから」
優がそう言って微笑むが、新香の顔は晴れなかった。
『Something』に現れた優は、楓がその日店に来ることは知っていた。
楓も、カウンターの隅でジントニックを飲む優を見つける。
「隣、いい?」
「もちろん」
冷ややかに優を見下ろすと、楓は隣に腰掛けた。
「僕にもカクテルを選んでくれる?」
二十歳を過ぎても、透けるような白い肌に、ライト・ブラウンのさらりとした髪。全体的に色素が薄く、中性的な美青年。
楓をカクテルに例えるなら、アドニスだろうか。
と、優は思った。
『アドニス』を頼むと、マスターは「おっ、珍しいな!」と言い、楓を見て納得したように優に目配せをした。
ショートグラスの中の、物憂げで、
「へー、綺麗なカクテルだね」
ドライ・シェリーにスイート・ベルモットとオレンジ・ビターズ。ワイン同士を合わせた、ただの甘い香りだけではない、独特の味わいがある。
「変わった味だね」
「美と愛の女神アフロディテ(ヴィーナス)を夢中にさせた美青年の名前だよ。あの蓮ちゃんを女神に例えるのはどうかと思うけど」
優は淡い琥珀色のバンブーを口に含む。アドニスに使われているスイート・ベルモットをドライ・ベルモットに変えただけの、横浜発祥のカクテルだ。
「僕が蓮華さんと付き合ってるのは知ってるんだ? 半分一緒に住んでるのも?」
「それも聞いてる、彼女の友達からね」
あっさりと応える優を、注意深く見つめてから、楓がアドニスを傾ける。
「蓮華さんのことは何でも知ってるんだね。一緒にお店やるくらいだもんね。じゃあ、これも知ってる? 蓮華さんの左耳の後ろに、すごく小さいほくろがあるんだよ。普段は髪にかくれて見えないけど。蓮華さん自身も知らなかったって」
楓が何を聞きたいのか、優にはすぐにはわからなかった。
「それは、親密な相手こそが知ることだよね。僕が知るわけないよ」
にこっ、と返す。
「彼女、背中が結構敏感なんだよ。それからね——」
楓が挑戦的な笑みを浮かべ、優の耳元で囁いた。
「……ッた相手は、僕が初めてだって。ほら、カクテルにもあったよね? カルーアとベイリーズを使ったあの甘いヤツ」
ベイリーズ・オリジナル・アイリッシュ・クリーム、コーヒー・リキュール 、アーモンドの香り高いディサローノ・アマレットを乗せていくプーススタイルのカクテル。
生クリームとミルクを加えてシェイクしたり、バニラアイスクリームを乗せることもある、味を追求して作られたというより、余興的なカクテルだ。
むっとした優が、楓を見る。
「それを、僕に聞かせてどうするの?」
「あれ? もっとカッとなるかと思ってたのに」
挑発的に笑ってみせたようでいて目は笑ってはいない楓と、冷静な、だがやはり笑ってはいない優との、探り合うような視線がぶつかる。
「そういうことを他の男に知らせるものじゃないよ、例えきみの友達であってもね。もっと蓮ちゃんを大事にしてあげて。それが出来ないなら、
途端に、楓がむきになった表情を隠そうともせず、鋭く、優を見つめた。
「それ、どういう意味? 仕事仲間ではあっても、蓮華さんは、優さんのものじゃないでしょ?」
「楓くんは彼氏でしょう? なのに、僕や新香ちゃんたち仲間が彼女を思うよりも、きみは彼女を大事に出来ないの? こんなこと言いたくないけど、目に余るようだと、僕も蓮ちゃんのお祖父さんに言わざるを得ないよ。告げ口なんか最低だと思うけど、きみが蓮ちゃんに対して最低な彼氏だと判断したら、言わないわけにはいかないから」
びくっと、楓の目が怯えたように見開かれた。
「そうなったら、蓮ちゃんはこれまで通り、新香ちゃんの部屋に戻るか、お祖父さんのところに連れ戻されるだろうね。それでも、付き合うことは続けられるでしょ?
「……まるで、僕たちの仲は、優さんのてのひらの上にあるみたいに言うんだね」
「そう言ったつもりはないけどね。ごく当たり前のことしか言ってないよ。それからね、お店ではバーテンダーは番人なんだよ。迷惑な客は追い出すこともある。そして、蓮ちゃんのお祖父さんは店のオーナー。
優は立ち上がり、楓を一瞥した。
「彼氏だからって、何でも許されるわけじゃないからね」
彼を少々脅かしてしまったかも知れない。
水城に言いつけるつもりなどもなかった。
だが、店を出てからも、優の中ではずっと、むかむかとした想いが居座っていた。
いったい、彼は、僕に何を聞かせようと?
やはり、自分と蓮華との間を勘繰っていた? ついでに「僕の
呆れて、溜め息が出る。
そんなの、彼が蓮ちゃんと付き合ってる張本人なんだから、当たり前じゃないか。別に、わざわざ突き付けなくてもいいことだ。
その過程で、自分の知らない蓮華の女の面を知らされ、知りたくはなかったと思った。
蓮華のことは、可愛いとは思っていた。それが神聖化されてもいたのだろうか。
優の足が止まった。
むかむかし、もやもやする理由に見当がついた。
……妬いてた……のかなぁ……
いつの間にか、自分が、蓮華の一番の理解者だと思い上がっていたのだろうか。
友達で仕事仲間のくせに、おこがましいのではないかと、頭の中で思い直した。
*
マンションに帰ってきた楓は、おぼつかない足取りでベッドに倒れこんだ。
仰向けになると、頭に優の言葉が蘇る。
『もっと蓮ちゃんを大事にしてあげて。それが出来ないなら、
『彼氏だからって、何でも許されるわけじゃないからね』
なんだよ、アレ。
偉そうに!
カノジョにとってはカレシが一番なはずだ。
なのに、何で、たかが仕事仲間が威張ってんだよ。
たかが仕事仲間なら、自分もこんなに嫉妬しなかったかも知れない。
ただのバーテンダーになら。
腕を、目を隠すように乗せた。
電灯が眩しいだけではなかった。
あいつは、音楽の道を途中で断念した、音大中退の負け犬じゃないか。
プロを目指してる僕の敵なんかじゃない。
そうは思ってみるものの、以前、優が弾いてみせたピアノを聴いた時、衝撃が走ったのをはっきりと覚えている。
音楽への情熱が感じられた。音楽への想いまで捨て去ってしまったわけではないことを知った。
もし、彼が、音楽を続けていたら、天才ジャズピアニストになっていたかも知れない。自分とは違う路線であったとしても、同じピアノを弾く身である自分は、かなり脅威を覚えたのではないだろうか。
「ただいまー。楓くん?」
スナックの仕事から帰ってきた蓮華が目を留め、近づいていく。
「……泣いてるの?」
静かに声をかけた蓮華の腕を掴み、胸に抱き寄せた。
「……どうかした?」
「なんで、あの人はあんなに余裕なんだよ。こっちは、無理して足掻いても越えられない壁があるっていうのに」
蓮華の目の端に、床に散らばった五線紙が留まる。
「優ちゃんに会ったの?」
「向こうが勝手に来たんだよ、『Something』に」
「『Something』は優ちゃんの古巣なんだから、しょっちゅう来るのは当たり前でしょう?」
「知ってるよ!」
ベッドの上で起き上がった楓が、蓮華を強く抱きすくめた。
「どうせ
「ちょっと、何を言ってるの?」
「見捨てないで!」
蓮華を抱きすくめたまま、楓は嗚咽していた。
しばらくじっとしていた蓮華は、身体を離し、楓の両肩に手を置いた。
「だったら、逃げないで。苦しくても」
静かに凛と言い放つ声に緊張するように、楓は彼女を見つめた。
「誰かと比べたり、誰かに勝てないと思ったり、そんなこと言い訳にしてるうちは、その誰かには、自分から負けてるってことよ。負けを認めてるのは、自分なのよ」
言い返しそうな楓に、「聞いて」と遮り、蓮華は続けた。
「優ちゃんが挫折を知らないと思う? モテモテだし、いつも飄々としてるからって、努力とか苦労って言葉とは無縁だとでも思ってるの? そんな人はいないわ」
蓮華が立ち上がるのを、楓の目が追った。
「キーボードに向かうのよ、楓くん、ひたすら。そうするしかないじゃない」
蓮華の差し伸べた手に、おずおずと自分の手を乗せた。
*
「楓くんのバンド、デビューが決まったの」
馬車道からたどり着いた港の前で、蓮華から打ち明けられた。
楓との間には、だんだん緊張感がなくなっているという。彼が今までしていた分の家事もせず、ピアノもあまり弾かない時もある。時々、小遣いまでせびるようになっていた。
「そういうものは、あたしの稼いだお金から、あたしがしてあげたくてやっていたことで、出来る範囲のプレゼントもしていただけ」
心配する新香の言葉が、優には思い出された。
「このままじゃ、楓くん、ダメになっちゃう。ダメダメの最低男の道まっしぐらでミュージシャンにさえなれなかったら……! って思って、こんなことじゃダメだよ! って言って、ケンカになりながらもけしかけて、練習させたり、曲作りも協力してたの。そんな時に、あのボーカルの台湾人とのハーフの子を通じて、台湾の音楽事務所から声がかかってね、向こうでデビューの話が出て、ゆくゆくはアジア方面にコンサート・ツアーの企画もあるんですって」
蓮華が笑顔になった。
「すごく嬉しかった。彼らの才能が認められて。楓くんともまた仲良く戻れて」
優が静かに蓮華を見つめるうちに、蓮華の表情が曇った。
「台湾に行ったら、長期間こっちには戻って来られなくなるわ。もしかしたら、ずっとかも……。だから、楓くんからは、台湾についてきて欲しいって、言われてるの」
蓮華は、優の顔を見ずに、視線を海に移動させる。
夢と恋人、どちらを取るか。
それを見守る相棒は、どうすべきなのか。
初めてぶつかった障壁を前に、二人は互いに視線を合わせることなく、穏やかな波を見ていることしか出来ないでいた。
人間だから、人を好きになる気持ちは自由で、封じる必要もない。
その時たまたま、偶然か、必然か━━
恋をしたことを責めるものでもない。
恋に落ちる瞬間は人それぞれであり、蓮華にも自分にもそれぞれに、今後そういうことは訪れるのかも知れない。
優も、おそらく蓮華も、同じような考えをめぐらせていただろう。
「僕に遠慮することはないよ。お店は、ひとりでも出来るものだから」
優は、そんなことを口走っていた。
彼の方をまだ見られずにいる蓮華の口元が、ふっとほころんだ。
「……そうよね。優ちゃんなら、例えひとりでもお店は出来るもんね」
「蓮ちゃんのことを必要ないって言ってるんじゃないよ。蓮ちゃんはママとしてお店には必要だよ。でも、だからって、自分を犠牲にすることはないと思う。ママである前に一人の人として、……彼のことが本当に好きだったら付いていく、そういう選択もあると思うよ。僕には気兼ねしないで」
「優ちゃんなら引き留めないで、そう言うと思った」
蓮華は、淋しく笑うと顔を上げた。
口を引き結んだ優の瞳は、まだ何かを語りたげに蓮華を見つめている。
蓮華は、わかっていると言うように見つめ返した。
「もう心は決まってるけど、もう一度、ひとりでよく考えてみる。もし、あたしが『最低な応え』を出したら、軽蔑してくれて構わないから」
駅に向かい、蓮華が歩き出した。
その後を優が追いかけるが、わずか数十センチメートルほどの距離で、それ以上進むのを踏みとどまった。
「蓮ちゃん!」
蓮華が、振り向いた。
「……信じてるから! どんな判断をしようと、蓮ちゃんは間違ってないから! 軽蔑なんかしないから!」
自分がどのような顔でそれを言っているのか、優にはわからなかった。
ただ、じっと見つめていた蓮華は、一瞬泣きそうな顔になった。
思わず伸ばしかけた優の手は、それ以上、近付けずに止まった。
踵を返した蓮華の背は、何者をも寄せ付けない空気をまとっていた。
蓮華は、もう振り返らなかった。
【アドニス】16度
※ミキシンググラスで、氷と一緒に混ぜる。
ドライ・シェリー 40ml
スイート・ベルモット 20ml
オレンジビターズ 1dash
同名のミュージカルが1884年に上演され、ヒットしたことにちなみ、ニューヨークで生まれたカクテル。
スイート・ベルモットをドライ・ベルモットに変えると「バンブー」になる。(※「Ⅲ. 第5話 イベント準備」にも登場)
日本ではバンブーの方が知名度が高いが、アドニスは世界的に有名。
【オーガズム】アルコール度数中程度
(楓が名前を伏せて指していたカクテル)
ベイリーズ・オリジナル・アイリッシュ・クリーム 1/3
コーヒー・リキュール(カルーア) 1/3
ディサローノ・アマレット 1/3
アマレット、カルーア、ベイリーズの順に、グラスに静かに注いでいき、層を作るプーススタイル。
ビルドやシェイクする方法もある。
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