Ⅳ. 第3話 王室ウィスキーとウォッカとママ

     *


「あなたも、彼氏一筋だとか、結婚したら旦那さんに一筋なだけじゃなくて、こういうところでいろんな男を見た方がいいわよ」


 銀座の一角にある小さなスナックで、五〇歳代と思われるママは、煙草の煙を吐いた。

 どういう意味かと首を傾げながらも、華やかに巻かれた髪、少し厚い化粧の彼女を、綺麗で大人の女だなぁと思いながら、蓮華は見蕩れていた。


 カウンターには、蓮華の他に、いわゆるお嬢様系と呼ばれるような好印象の女子が二人いた。曜日によっては、若い主婦や女子大生もいるという。

 カウンターを隔てて接客をするという他に詳しい説明をされないまま、開店時間となった。


 数人の中年、老年の男性客がやってくる。

 蓮華の前に座ったのは、知的でそこそこ顔の整った中年男性客だった。ラフなジャケットからも、身なりには気を遣うように見える。

 簡単に挨拶を交わすと、男が注文した。


「ロイヤルハウス・ホールドを水割りで」


 イギリス王室からの依頼で作られたというそのウィスキーは、一本が三万円以上する。蓮華の祖父も、たまにバーで飲んでいた。

 世界でも、バッキンガム宮殿とスコットランドのローズホテルのバー、そして、日本でしか飲めない貴重なものだった。

 

 そんな代物がこのようなところにあるとは蓮華も驚いたが、それ以上に、この客が、ことに、一層驚いた。


「水割り……ですか?」


「そう。僕がママに頼んで入れてもらったんだよ。このウィスキーはね、昭和天皇がイギリスを訪れた時に、英国王室から贈られたんだよ。それ以来、日本では販売許可がおりたんだよ」


 自慢気に語り始めた男の蘊蓄うんちくを聞くまでもなかった。

 蓮華の祖父は、このウィスキーを飲む時は、ストレートである。

 ブレンデッド・スコッチの中でも最高級のこの酒は、ストレートで飲むのがもっとも美味い。それ以外の飲み方はもったいない。


「きみ、水割りの作り方知らないの?」


 蓮華は男の指示通りにロックグラスに氷を入れる。

 この上等なウィスキーに氷や水を足すなど、冒涜しているような気分で胸が痛む。

 水を注ぐ手が震えたが、出来上がったその『冒涜の水割り』を、男は満足そうに飲んでいる。


 ウィスキー通だと言いながらも、ストレートで飲むローランド地方のスコッチにも、氷と水を注がせた。


 そうであっても、蓮華は男性客の話を聞き、楽しそうに相槌を打つ同僚たちを真似た。


 いい気分になった男がカラオケを歌おうとして、「歌える?」と訊いた。


「ライヴでジャズを歌っていたこともありました」

「へえ! じゃあ歌ってみてよ!」


 男が言うと、ママが遮った。


「お客様の楽しむお時間をいただいては……」


 そうやってお断りするものなのかと、蓮華はインプットした。

 男がひとりで歌い、途中でママも加わる。

 二人の調子っ外れな歌声にはまたもやショックを受けた蓮華であったが、楽しい時間を過ごせるのなら、どんな歌でもいいのだと思い直し、にこやかに見守った。


 数日経っても、相変わらず、ろくに仕事も教えられず、水割りの注文の時は、どのくらいの量が好きかを、いちいち客に尋ねる日々だった。


 ある時、ママがカクテルをメニューに入れるとしたら、ベースのお酒は何がいいか、つまり、一種類で使い回しが出来るスピリッツを蓮華に尋ねた。


「ウォッカかジンでしょうか。ジンは、あたしは好きですけど、辛口でちょっとクセがあります。飲み慣れていない人にとっては、ウォッカの方がクセがなくて甘口のものも作れるので、受け入れやすいと思います。どちらも柑橘系のものと合わせると美味しいですよ」


「でも、シェイカーを使うと大変よねぇ」


「ああ、シェイカーを使わなくても出来るものはたくさんあります。ウォッカの量も正確に計らなくても大丈夫ですし。例えば、オレンジジュースと割る『スクリュー・ドライバー』とかは……あ、レディー・キラーだけど、ここには女性のお客様は……」


「大丈夫よ、お酒慣れしていない若い子は来ないから。来るとしても、おばさんくらいよ」


 ほぼママの友達やそのつてである。


「グレープフルーツジュースで割って、グラスの縁に塩を付けスノースタイルれば『ソルティ・ドッグ』になりますけど、塩を付けないと『グレイハウンド』『テールレス・ドッグ』『ブルドッグ』っていって、尻尾がないとか見えない犬って意味になるみたいで。それでも充分美味しいです」


 グラスの縁にレモンの果肉をなすり付けてから、皿に平に盛った塩を、グラスを逆さにして付けるのだと、蓮華は説明を加え、チーママたちは、「そうやるのね!」と感心した。


「トマトジュースで割るのもいいと思います。ウォッカとトマトジュースに塩胡椒、ソースとかタバスコ入れたりすると『ブラッディ・メアリー』になります。クラトマジュースっていう、トマトジュースにはまぐりのエキスが入ったものがあるんですけど、それで割ると『ブラッディ・シーザー』になって、トマトの冷製スープみたいでこっちの方が飲みやすいです。トマトジュースと一緒に飲むとアルコールの代謝が促進されますし、アルコールの血中濃度も約3割低下して、体内からアルコールが消えるまでの時間が50分も早まるそうなのでオススメです」


「トマトの赤色のリコピンは強い高酸化作用があって、癌や動脈硬化の予防に役立つって言うしね。二日酔い予防にも良さそうね」


 と、ママが頷いた。

 チーママたちも感心して「美味しそう!」といった。


「簡単だから、誰でもすぐに作れますよ!」


 蓮華は乗り気であったが、ママは、にこやかに「考えておくわね」と言ったきりであった。


 スナック『クリスタル・ローズ』では、相変わらず、美味くはない水割りか、またはハイボールばかりが売れるが、蓮華に会いにくる男性客も少しずつ増え、「ロイヤルハウス・ホールド」を飲む例の客が、蓮華の前に座ることが増えた時だった。


 蓮華は、突然解雇された。ママからのLINEで一言、「悪いけど、もう来なくて大丈夫だから」と。

 何か粗相があったのかと理由を尋ねても、「人手は足りたから」という返事だけだった。


 夕方、これまでの給料を受け取りに行くと、チーママのひとりから封筒を手渡された。「蓮華ちゃんがいてくれて楽しかったし、お客さんも楽しそうだったのに残念だわ」と溜め息を吐いていた。


 蓮華自身、様々な客と話をするのは楽しかった。やさぐれた酒に付き合うこともあったが共感は出来た。どんな話でも興味深く思えていた矢先であった。


 その後は女性社長の経営する音楽事務所で働き、週に二回、別のスナックでも働いていたある日、優から呼び出された。

 帰りに、みなとみらい線馬車道駅で落ち合い、歩きながら話した。


「仲間内から聞いた話だけどね、蓮ちゃんが最初に勤めてた『クリスタル・ローズ』、閉店したんだって」


「え? そうなの?」


「どうやら、ママは独身の中年男性客と不倫関係で、その客を若いチーママに取られそうになると思うと、次々クビにしてたらしい」


 蓮華には見当がついた。あのロイヤルハウス・ホールドの客だろう。でなければ、あのような高級ウィスキーを価値もわからずに仕入れようとは思わないだろう、と。


「隠れ家的なバーって言われてたけど、実はってこと?」


「そうなっちゃうよね。あの後、スナックの経営も傾いていったのは、経理が大雑把だったのもあったらしい。さらに、ママは、自分の旦那さんの知らない間に通帳から現金を全部引き出して、多分その男性客と逃げたんだろうって。財産目当てで年配の人と結婚したらしくて、旦那さんは落ち込んでいて、裁判を起こす気にもなれないらしい」


 蓮華は目を見張るばかりだった。

 淡々と優が語るうちに、海の前まで来ていた。

 無言で、夜の黒い海を見据える。


「今働いてる事務所を通して見ても思うけど、音楽やる女の人とか気の強い女の人って素敵な人も多い一方で、行き過ぎて、大人しい旦那さんをないがしろにしているような人も、いるにはいるのよね。そういう状況を目の当たりにして、自分も気をつけなきゃって、つくづく思ったわ」


「女の人が一人でお店をやるというと、色眼鏡で見る人もいる。バックにパトロンがいるんじゃないかって。ちゃんと経営している人もいれば、例のママみたいな人もいる。酒場を経営するなんて並大抵のことじゃないし、時には欲望にまみれた人間の汚くて嫌なところも目にしてしまう。僕としては、友達には、特に女友達には、あんまりそんなところにいて欲しくないと思ってる」


 隣にいる優の、心配そうに彼女を見下ろす表情を、蓮華はしばらく見上げていた。


「スナックで働いてわかったんだけど、男でも女でも、普段頑張って強がっているからこそ、吐き出す場所も必要なんだと思ったの。だから、例え色眼鏡で見る人であっても、ちょっと性格が悪い人であっても、そういう人たちを排除しようとは思わないわ。誰でも受け入れたい。でも、それには、お店での空間を大事にしたいお客さんのことも考えたいから、マナーは守ってもらいたいとは思うわ」


 優の表情が、ふっと安堵したように和らいだ。


「くつろげる場も、弱味を見せる場も、大人には必要だからね。そこがわかってくれてるなら、蓮ちゃんはマダムになれるかな」


 蓮華の瞳も安心したと思うと、動くものを見つけた時の子猫のように、くるくると輝き始めた。


「あたしは『マダム』なんて気取ったりはしないわよ、『ママ』って気軽に呼んでもらえたらって思うわ」


 「そうだね」と相槌を打った優の瞳も、面白そうに輝く。

 黒い静かな波の音と、穏やかな風が二人の間を吹き抜けて行く。


「銀座は高級過ぎて……。あたしには、もう少し近付きやすい、自由な横浜が合ってると思うの。しょっちゅう海を見に来られるような、こんな感じのところがいいかなぁ」


 そう言った蓮華を眺め、優は大きく頷いた。


「……同じだよ。僕もそう思ってた。一緒にやるよ、お店」

「えっ! ホント!?」


 みるみる蓮華の笑顔が華やいでいき、肩の力が抜けた。


「はーっ、良かったぁ! 優ちゃん口説けなかったら、あたしがカクテル修行もしなくちゃって思ってたとこだったから」


 ひとしきり笑い合うと、優が改めて蓮華を見つめた。


「ママのいる店で働いたことはないけど、いい店にしていこう」

「優ちゃん、ありがとう!」


 石畳の上で飛び跳ねた蓮華を、黒い海を照らしている明るい月のような穏やかさで、優は見守っていた。

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