Ⅱ. 第3話 友達の領域
休みの日の夕方、優がコンビニに行くついでにぶらぶら歩いていると、山下公園方面から泣きながら歩いてくる姿が目が留まった。
「蓮ちゃん?」
相手も私服姿の優を見上げる。
「優ちゃんだったの?」
「どうしたの?」
話を聞こうにも、泣き顔で居酒屋など店には行きたくないというので、そこから歩いて行ける優のアパートに行くことになった。
最近、彼女と店に一緒に来たのはサックス吹きの男だった。
別れ話……だったんだろうな。
……にしても、ハンカチは?
何も言わずにハンカチを差し出すと、蓮華は小さく「ありがと」と言って受け取り、涙を拭った。
コンビニでチューハイの缶をいくつか調達し、優のアパートに着いた。
また泣き出したとしても、じっくり別れ話を聞く覚悟をしていた優だったが、リビングの座卓で菓子を広げ、チューハイをガブガブ飲んだ蓮華は、「あー、美味しいっ!」と言った。
「あたしってさー、黙ってれば、なんだか大人しいお嬢様みたいに見えるみたいなのよー」
「ええっ! そうなの!?」
思わず、優は本音が出てしまっていた。
「なによそれ? ひどくない? なんか、優ちゃん、バーにいる時と違うね。もっとお嬢様扱いしてくれるのかと思ったのにー」
「今は素だからね。仕事以外では気抜いておかないと、続かないから」
「今までのは営業スマイルだったのねー!」
「まあ、多少ね」
怒るどころか、蓮華は笑い出した。
優も少し安心したように笑った。
「それでね、あたしが自分の意見を言ってるうちに『思ったのと違う。もっと従順かと思った』とか言いやがったのよ、あいつ! まるで、大人しくて言いなりになると思ったから付き合ったみたいな? まったく、人をなんだと思ってるのよ!」
二本目のチューハイを開け、煎餅をバリバリ食べながら、蓮華はぷりぷり怒っていた。
いかの薫製をかじると、「あっ、これ美味しい!」と言って、ばくばくと夢中になって食べている。
優はうっすらと思い出していた。以前、女性の別れ話を聞くうちに、成り行きに任せて付き合ってしまったことがあり、長くは続かなかった。
蓮華とは、そうはなりたくないと思った。
その心配に反して、そんな気配はみじんもなかった。
二日後、『Something』に蓮華が現れた。リキュールのボトルと、洗った優のハンカチの入った細長い丈夫な紙袋を持っている。
カウンターでマスターと優と顔を合わせ、話していると、これからライヴに出る瑛太と、仲間うちの男女が賑やかに話しながらやってきた。
「あら、優くんの後輩? もう手ぇ付けられちゃった?」
蓮華よりも年上の女が手を振り、続けて隣の男が優を見る。
「タラシ!」
「なに言ってるんです?」
優が笑う。
蓮華は、唖然としていた。
「彼女は僕と同じ橘先生の弟子だよ」
「なんだ!」
「じゃ、またね。優くんには気を付けてね~」
わいわいしながら、一行はステージに向かった。
優は一向に気にしていない様子で仕事を続けるが、蓮華が静かに飲んでいるのは気になった。
「どうしたの?」
「タラシには気を付けようと思って」
「タラシじゃないってば」
蓮華が再び黙ると、優も黙々とグラスを拭いたり、仕事をこなす。
そのうち、「あ~、もう、黙ってられない!」と言い出した彼女に、優がにっこり笑った。
「黙ってられなくなると思ってた」
蓮華自身も苦笑する。
「今日はね、この間愚痴聞かせたお詫びでお酒持って来たの。後で飲める? 良かったら友達も一緒に」
「うん、いいよ」
橘が見守る中で、優の先輩で友人である瑛太と仲間たちと、蓮華と後輩のベース、ドラムは『Something』で共演していた。蓮華のボーカルは相変わらず若いが、それが良い持ち味かも知れないと、橘も優も思っていた。
「ユーフォニアムって、柔らかくていい音なんだね!」
「そうでしょ? ピアニカにも驚いたよ! アコーディオンみたいなバンドネオンみたいな感じで、ちょっとシャンソン風にも聴こえていいよな!」
「わ~、ホントに? そんなにオシャレだった? 嬉しいっ! でも、歌とはまた息づかいがちょっと違うし、まだまだ研究中なんだ~」
瑛太も蓮華も意気投合し、その後、優のアパートに押し掛けた。
1LDKのリビングのラグに座り、瑛太が見回す。
「いつも思うけど、男の一人暮らしにしては綺麗にしてるよな!」
「楽譜とカクテル本以外の物が少ないし、こうやって何かと人が来るからね」
優が笑い、蓮華も微笑みながら、コンビニで調達した缶ビールやチューハイを、優と並べ、持って来たライチ味のリキュール「ディタ」を優に預けると、「あたし、アジア系のものが好きなの。今度これで何か作ってね」と笑った。
酒盛りの最中、瑛太が「寝る部屋は最近どうなってんだ?」と言い出した。
「ああ、そこはちょっと……!」
「なんだよ、女物の何かがあるとか~?」
ノンアルコール・ビールを飲んだだけの瑛太だが、アルコールが入っているかのような調子で、寝室の扉を開けた。
寝室も片付いていた。土産物の貝細工の雑貨や、質素な置物があり、シンプルな机がある。
ただ一つ、異色なものは、部屋の隅に置かれた、枕よりも大きなパンダのぬいぐるみだった。
「あれ、お前のかよ!?」
瑛太がゲラゲラ笑い転げた。
優は仕方なく、溜め息を吐いて白状した。
「赤レンガ倉庫のイベントに行った時に、僕が引いたくじが当たったから彼女にあげたんだけど、向こうも一人暮らしで置き場がないからここに置いてて、もう処分してくれって言われたんだけどね……」
瑛太が笑うのをやめた。
「ああ、あの例の別れたって彼女か……。もう未練はないなら、そんなもん早く捨てろよ」
「そうなんだけどさ、このパンダに罪はないし、なんか可哀想になっちゃって」
「まさか、一人暮らしが淋しいからって、ただいまーとか、これに名前付けて話しかけたりしてないだろうな?」
「してないって」
優が呆れた顔になる。
「パンダ、いなくなったら淋しい?」
「蓮ちゃんまで……! 別に淋しくないってば」
「じゃあ、これ、あたしがもらってもいい?」
ぬいぐるみを抱える蓮華を駅まで送った後、瑛太がぽつんと言った。
「あの子、優のこと好きなのかな? あのパンダ大事にしてたら、お前のこと好きだってことになるよな」
「え? そんなことないでしょ」
優は笑い飛ばした。
蓮華の性格は、優にとっては恋愛相手よりわかりやすく、店に来てくれれば嬉しいし、一緒に演奏する時も楽しい。それだけで充分に思えていた。
「かわいいし、話も合うし、お前、どこが気に入らないわけ?」
瑛太が不思議がる。
「気に入らないわけじゃないんだけど、……せっかくだから、あの子とは友達のままでいたいかなぁって」
「わっかんねぇな!」
そう言われても、優にもうまく説明が出来ないでいるのだった。
以来、次に、蓮華と瑛太が優の家に遊びに来た時、瑛太が切り出した。
「そういえばさ、蓮華ちゃん、あのパンダのぬいぐるみどうした?」
妙に勘ぐっていた瑛太との会話を思い浮かべると、蓮華の答えを聞く心の準備は、優にはまだ出来ていなかったが、そんなことなど知る由もない蓮華は即答した。
「ああ、あれね! おばあちゃんにあげた」
「えっ!?」
「なんで、おばあちゃん?」
予想外の答えに優は拍子抜けし、瑛太は相当面食らっている。
「おばあちゃんが気に入っちゃってね……あ、そっか、知らなかったよね。あたし、今お父さんとケンカ中で家出状態で、おじいちゃんとおばあちゃんの家に住んでるんだ」
「なにっ!?」
「そんなことをさらっと……?」
衝撃の打ち明け話に、思わず、何と言っていいかわからず、二人はただ蓮華の顔を見つめていた。
「普段は、おじいちゃん達のところにいても、家に残して来た小学六年生の弟が心配でね。お父さんが仕事から帰ってくる時間までは、家にいられる日は、いるようにしてるんだ~」
「そんな年の離れた弟さんがいたんだ?」
「うん。かわいいんだよ~!」
蓮華はきゃっきゃ笑いながらチューハイを飲んだ。
帰り際、瑛太がすまなそうに優を見た。
「なんか、ごめんな。あの子がお前に気があるかもなんて言って、期待させちゃって」
「ははは、別に期待はしてなかったから」
「なんか、お前があの子とは付き合わずに友達でいたいって言ってた理由がわかったよ」
瑛太が、すっきりとした表情になった。
「色気がないからだろ?」
「は?」
瑛太は自信たっぷりに続けた。
「周りに大人の女が多い環境で、お前の御眼鏡にかなうには、あの子にはフェロモンがまだ足りない。そういうことか」
「いや、あの、そういうのとも、ちょっと違うんだけど……」
優は、やはりまだ瑛太には、うまく説明出来ないでいるのだった。
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