Ⅱ. 第4話 アリスのカクテルと予感

 バー『Something』には、蓮華と橘がカウンターに並んでいた。

 蓮華の髪にはウェーブがかかり、ぎりぎり肩につく長さになっていた。


「髪型変えた?」

「うん。気付いてくれたの?」


 嬉しそうに笑った蓮華に、優は、いつもと違う大人びた微笑みになった。


「似合ってるよ。かわいいね、寝ぐせみたいで」


 一瞬頬を染めた蓮華だが、即座に目を丸くする。

 その横では、橘が、あんぐりと口を開けた。


「先生ー! もー、ひどいでしょー、この人! ホントにバーテンダー志望なのっ? マスター、どういう躾してんのよ?」


 にっこり笑う優の横では、マスターが背を向け、肩を震わせる。


「それで、蓮ちゃん、卒業演奏の曲は決まった?」


 橘が尋ねると、蓮華は背筋を伸ばした。


「はい。ドラムとベースもクラスの子に頼んでピアノトリオには決まって、ビル・エヴァンスみたいな路線で『不思議の国のアリス』を弾きたいんですが、ジャズワルツが始まる前に、アリスが白ウサギを追いかけて穴に落ちて、そこは不思議の国だった、みたいな導入部分を作ろうかと」


「いいんじゃない?」


「そういえば、アリスのカクテルなんて、あるのかな?」


 蓮華がマスターと優を見上げた。


「特に伝えられてるレシピはないから、メニューにあったら店のオリジナルだ。赤、ピンク、青とか色の系統も決まってなくて、それぞれらしい」


 マスターが答えた。


「優ちゃんだったら、どうする?」

「う〜ん、そうだねぇ……」


 優は、カクテル本をパラパラとめくり、手を止めた。


「これとか、これかな。でも、ここにはないリキュールを使ってるなぁ。ガリアーノって」


「ああ、あのシュッとした背が高くて細い瓶の黄色いリキュールな」


 マスターは、エチオピア戦争での英雄と言われる将軍の名前を付けたイタリアのリキュールの写真を指差し、唸った。


「優も蓮華ちゃんも家は横浜だったな。関内にトロピカル系のカクテルが充実してるバーがあるから、そこでなら飲めるかも知れないな。ここと違って女性受けする店だ」


「僕も勉強に行ってみたいな」


「おう、行ってこい。あの周辺は昔よりは綺麗になったらしいが、ホテル街も近いし、夜遅くやってる飲食店や他の店も混在してるし、夜は酔っぱらいが外国人と道路の真ん中でケンカしたり……って聞くからな。横浜のあの辺の店はチャージを取らない分バーでも安く飲めるんだが……」


「そんなところに女の子だけで行くのは心配だから、優ちゃんが一緒の方が安心だな」


 そう言った橘に、マスターが笑って答えた。


「いや、女性同士とか女性が一緒の方が目的地のバーまですんなり行けますよ。客引きが多いんで、気をつけなきゃいけないのは男性客の方です。誘惑に負けて違う店に行く人もいるんで」


 マスターの言う通り、蓮華と優は、目的のバーにはすんなりとたどり着けた。


 トロピカル系カクテルを取り揃えている店にふさわしく、店内は南国を連想させる観葉植物や熱帯魚の泳ぐ水槽、間接照明、テーブルに置かれたカラーのキャンドルなどが、癒しの空間を作り出していた。


 女性客も多く、ブルーや、ココナッツのような乳白色のカクテルにフルーツが飾られているものが見え、カクテルまでもが装飾品のように華やかだ。


 カウンターは常連客が占めていた。蓮華と優は奥の空いている狭いテーブル席に案内されると、早速、蓮華にアリスのカクテル候補を頼むよう言われ、優は自分にも同じものを注文した。


「一つ目は『ディタ・フェアリー』、蓮ちゃんが持って来てくれたディタっていうライチのリキュールを使うんだ。それに、ホワイトラムと、グリーン・ペパーミント・リキュール、グレープフルーツジュースとトニックウォーターだって」


 柔らかいフォルムのゴブレットには、透明で底にいくほど水色に近いグリーンのグラデーションの飲み物が、その表面には、ミントの葉が乗せられている。森あるいは水の妖精を連想させる。


「わ〜、グラスの足がかわいいっ!」


 蓮華は椅子の上で跳ねそうな勢いで喜んだ。


「『Something』にはない感じの可愛いグラスだね」


「カクテルの色も綺麗! うっすら甘味があるけどさっぱりしてて、炭酸とミントで後口スッキリだね」


「アリスの話って花とか虫が出て来たりして緑も多いと思ったから、うっすらグリーンぽくてもいいかもと思って。今度うちでも作ってあげるよ」


「え〜っ、嬉しいっ! ありがとう!」


 蓮華は、メモ用の五線紙を取り出し、余白にカクテル名と味をメモした。


「アリスのスコア譜は?」

「まだ完成してないけど……」


 手書きの譜面を見て、優も音を思い浮かべる。


「綺麗な和音使ってるね」


 優が譜面に目を通す間、蓮華がそわそわしていると、二杯目に注文したカクテルが届いた。


「エバー・グリーンになります」


 二人の前に、それぞれ同じものが置かれる。

 丸みのあるゴブレットに、ミントの葉を浮かべた淡い緑色の、テキーラベースのカクテルだ。赤いマラスキーノ・チェリーと、はっきりとしたグリーンのミント・チェリーがカットされたパイナップルにピンで差し込まれ、グラスの縁に飾られていた。


「綺麗だし、ゴージャス! テキーラって、強くて飲みにくいんじゃないかってちょっと心配だったけど、美味しいんだね!」


 きゃっきゃと蓮華が喜んだ。

 優も目を丸くし、「メロンを少しだけ薄くしたような、ホントに綺麗なグリーンだね」と眺めた。


「カクテル言葉は、『晴れやかな心で』だって」


「へー! なんだかピッタリね! これも、アリスのイメージにつながりそう!」


 一口飲んだ優は、「あれ?」という顔になった。


「ミントとパイナップルジュースはわかるけど……、想像では、ガリアーノってもっとバニラっぽい味かと思ってた……」


 近くを通る店員をつかまえる。


「ガリアーノはバニラ味だと思っていたんですが。バニラ味と書かれている本と、爽やかなハーブ味って書かれているものもあって、今実際にエバー・グリーンをいただいたら、バニラの味がしなかったのですが」


「ガリアーノは確かに以前はバニラ味が全面に出ていたのですが、イタリア本国の製造元が、昔のレシピで作るようになったら、ハーブ味になってしまって。紫色のキャップでしたらバニラ味の時のもので、白いキャップですとハーブ味になります」


 本の写真を見比べた優が、頷いた。


「ホントだ! バニラ味って解説してる本の写真は紫色のキャップで、もう一方は白いキャップで、ラベルのデザインも違いますね! でも、味が変わってしまったら、昔のスタンダード・カクテルでガリアーノを使うものは、味が違ってしまいますよね?」


「そうなんです。同じ味にならなくて困りますね」


 優には、マスターがこのリキュールを仕入れない理由がわかった。

 しばらくして店員との話が終わると、蓮華が感心したように店員の後ろ姿を見た。


「よく知ってるのねぇ、あの店員さん。バイトじゃなさそうね」


「ああ、彼もバーテンダーだよ。さっきも他のテーブルでお酒の説明してたし。ホテルのバーでもそうだけど、注文を取りに来る人もバーテンダーだったりするよ」


「そっかぁ。お酒詳しくないと、お客さんに合ったものを出せないもんね」


 蓮華がメモ用の五線紙に書く間、正面では優も小さめのノートを取り出し、何かを書き込んでいた。


 その後、蓮華は再度ディタ・フェアリーとエバー・グリーンを交互に注文し、優は以前から飲んでみたいと思っていたカクテルを頼んだ。


「ありがとう! カクテルのおかげで、新たなイメージが加わったわ!」

「それなら良かった! 頑張ってね! 僕も普段飲めない物が飲めて勉強になったよ」


 並んで駅へと向かう間も話は尽きない。


「学校の卒業演奏ね、ホールで発表するの、ソロでもいいし、あたしはドラムとベースのトリオ形式だけどね。外部の人も来ていいから、優ちゃん、時間合ったら来て」


「うん、観に行くよ」


 ふと、蓮華は、隣を歩く優が、彼女の歩調に合わせていたことに気付いた。


 先ほどのバーでも、途中から黙り、それぞれ思い思いの世界に没頭していた。彼女が譜面に書き込んだり、イメージを膨らませたりしている間、優は持参したカクテルの本を読み、時々メモをしていた。

 彼女の邪魔をしないよう気遣うだけでなく、彼の中でもさらにカクテルの知識がインプットされ、いつかオリジナルに生かされるのかも知れない。


 みなとみらい線に乗った二人は、端のシートに座った。

 横浜駅までは、十分とかからない。


「……いつか、優ちゃんと何か一緒に出来たらいいなぁ……」

「何かって、どんなこと? 今までみたいに一緒に演奏するとか?」

「それもいいけど、なんかもっと他のことでもいいかなぁって、思った……」

「う〜ん、……何が出来るかなぁ……」


 返事をしなくなった蓮華を見ると、壁によりかかって眠っていた。


 電車に揺られるうちに、蓮華の頭が優の肩に乗った。既に熟睡している。


 睡眠時間を削ってあのスコアを書いたと話していた。編曲しながら練習もしていた日頃の疲れもあってか、普段彼女が飲むものより度数は低くても、酔いが回るのが早かったのかも知れない。

 まだまだ自分の見立ては甘いと、優は少し反省していた。


「アリス、もう起きないと。もうすぐ着くよ」


 優が声をかけ、蓮華の肩を強めに揺らすと、ごつん! と蓮華の頭が壁にぶつかった。


「わ! ごめん!」


 慌てて謝り、蓮華の頭のぶつけたあたりをさするが、彼女は起きることなく、そのまま寝ていた。


     *


「蓮ちゃん、起きて!」


 強く肩を揺すぶられ、ようやく蓮華が目を開けた。


「ごめん! 渋谷まで来てた」

「……えっ!?」


 みなとみらい線は横浜駅を通過すると東急線直通に切り替わり、渋谷まで行く。

 蓮華を起こそうとした優も、僅か二駅の間につられて眠ってしまい、約三〇分後、渋谷に着いていたのだった。


 一気に目が覚めた蓮華は、自分の言葉を思い出した。


『……いつか、優ちゃんと何か一緒に出来たらいいなぁ……』


 アルコールは入っていても、その想いに偽りはない。

 ——はずだ。


「ごめん。気持ち良くて、なんかまったりしちゃって……」


 ほわほわと笑う優を見て、この人と何かを一緒にやっていくのは大丈夫だろうか? と、蓮華は、うっすら不安に思わなくもなかった。


「優ちゃんて、……意外と天然?」

「ああ、……うん、……否定しないよ」




【ディタ・フェアリー】5度

※トニックウォーター以外の材料をシェイクし、氷を入れたグラスに注ぎ、トニックウォーターで満たす。


 ライチ・リキュール(ディタ) 30ml 

 ホワイトラム 10ml

 グリーン・ペパーミント 10ml

 グレープフルーツジュース 10ml

 トニックウォーター 適量

 (好みで)ミントの葉を飾る。



【エバー・グリーン】11〜13度

※材料をシェイクして、氷を入れたグラスの注ぐ。


 テキーラ 30ml

 グリーン・ペパーミント 15ml

 ガリアーノ 10ml

 パイナップルジュース 90ml

 (好みで)カットパイン、ミントの葉、マラスキーノ・チェリー、ミント・チェリーを飾る。


※ガリアーノの味に関しては、文献にはない情報が掲載されていたこちらのブログを参考にしました。

『バーテンダーの覚書』

https://ameblo.jp/albertfady/

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