Ⅰ. 第4話 「カルーソー」 〜エメラルド色の宝石〜

 練習室で見学する大輔と璃子は、ただ唖然としていた。


 大学では重厚な曲を弾かされることが多かった優の紡ぎ出す音は、これまで以上に、ドビュッシーとラヴェルに更なる鮮やかな彩りを与えている。


 二人がいることなど忘れているかのように、自由気ままに、美しく、時に艶やかな音を奏でる。


「あいつ、すげぇ巧くなってるよな。前から技術はあったけど、ますます表現力に磨きがかかってるっていうか」


「うん」


 大輔に向かい、璃子が頷いた。


「ただ、クラシックっぽくなくなっていってるような気がするんだけど、……気のせいかなぁ?」


「……うん……」


 眉を曇らせる大輔に、璃子も自信のない返事をした。


     *


 優たちは、二年生に進級していた。

 璃子と優は引き続き同じ担当講師であったが、個人レッスンとなっていたため、璃子には、優が今はどの曲を習っているだとか、どう弾いているのかはわからなかった。


 学生がランチに使うラウンジで、優と璃子、大輔が缶コーヒーを飲みながら、話を弾ませていた。


「それで、優くん、結局、コンクールはどうしたの? コンクールが終わるまでジャズは弾かないようにって先生に言われたら、コンクールには出ないなんて言って揉めてたでしょう?」


 遠慮がちに、璃子が切り出す。


「ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』でなら出るって言ったよ」


「そっか! あれならジャズっぽいから、お前がジャズやってるのも活かせるしな! いいんじゃないか?」


 大輔が即座に賛成するが、璃子は表情を曇らせた。


「でも、あの先生はガーシュウィンって感じじゃないよね? どうするの?」


「コンクールの曲だけは、進藤教授に見てもらうことになって」


「進藤教授!? あの先生ひどいって聞くぜ? 口悪いわ、感情的に怒るわで。聞いた話では、『そんなのも弾けないなら死ねば?』って言ったとか」


「ええー!」


 大輔の話に璃子が心配そうな顔になる。


「それでも、弾きたい曲のためには仕方ないかな、と思って」


 優は気は進まないが仕方がないという顔で、力なく笑った。


 一ヶ月後、教授は優のレッスンを外れ、コンクールの曲は元通りの担当が見ることになっていた。

 大輔が優に理由を尋ねると、「だって、あの先生、ジャズがわかってないし、ガーシュウィンも好きじゃないみたいだったから」とだけ答え、それ以上は聞き出せなかった。


 なんだか相当なバトルがあったのではないかと、大輔も璃子も考えずにはいられなかった。


「ねえ、大輔、優くん、なんか変わったと思わない?」


 優が帰った後で、璃子が切り出す。


「あいつが音楽に対して、そこまで熱いもの持ってたとはな」


「前より頼もしくなったようには見えるんだけど、……なんか心配だよ。優くんが、どこか遠くに行っちゃうみたいで……」


 璃子の頼りない目を見た大輔も、考え込んだ。




 遥のアパートで『ラプソディー・イン・ブルー』を練習していた優は、なかなか電子ピアノから離れず、弾いては五線紙に書き込んでいた。


 ライヴを終えて帰ってきた遥が、横からのぞきこむ。


「なにしてるの?」


「ああ、お帰り」


 優の腕が、遥の頭をやさしく肩に抱えた。


「僕は、ピアニストには向かないのかも」


「そんなに上手なのに? クラシックとは無縁の私には、よくわからないけれど」


 少し淋しそうに、優は笑った。


「クラシックとジャズって、どっちか選ばないとならないのかな。両方弾けたらいいけど、クラシックの弾き方が変わってきたって言われた。確かに、今は頭はジャズに向いてる。ジャズは楽しいけど奥が深くて、もっと知りたいし、もっと上手くなりたい。でも、まだ追いついてないと思うんだ。特に、タッチとかノリが」


「まるで、恋してるみたいにジャズに取り憑かれてる? クラシックに戻らない人は結構いるわ」


「もっと遥さんみたいに弾けるといいんだけど、まだまだ……」


 言い終わらないうちに、遥が口づけた。

 馴染んだ唇は、もやもやを一つずつ取り除いていくように、彼の心を軽くしていく。


「ちょっとすっきりした」


 遥の長い髪を手に取り、そこに口づける。


「でも、頭の中では解決していないっていう顔ね」


「もう戻れないのかな」


「どこに? クラシックに? それとも、……私とこうなる前に?」


「え? 戻れないってつもりだったけど……」


 優は意外そうに遥の顔を見た。


「でも、やっぱり、同級生とか同年代の方が良かった?」


「そんなことないよ。僕は遥さんが好きだよ」


 遥の瞳が潤んでいく。


「どうしたの?」


「ごめんね。クラシックを勉強中のあなたにジャズを教えて、純粋な大学生を無理に大人の世界に引き込んだみたいに。音楽だけのことじゃないわ。あなたはまだこんなに若いのに、……こんなことになって良かったのかしらって、時々不安になるの」


「なんで? 僕は全然後悔してないよ」


「それは、まだほんの入り口しか知らないからよ」


 音楽への道と、恋愛の方面と、優には、遥がどちらのことを言っているのかわからない。或は、両方のことを言っているようにも受け取れた。


「何かあったの?」


「なんでもないわ」


 優がいくら尋ねても、遥は答えようとしなかった。

 自分が彼女を不安にさせているのだろうか。

 それなら、そう言って欲しいと何度も頼んだが、彼女は打ち明けようとしなかった。




 『Something』では、ライヴで遥が歌う時に、優が伴奏をすることもあった。

 着飾った美しさと、作られた笑顔とボーカルという外側のきらびやかさが、彼女の内面と違い過ぎるように見えることがあった。


 彼女の心はここにあらずと感じることもあった。

 何も話さない彼女に、どう接していいのかわからずただ黙って抱きしめると「優くんは、余計なこと聞かないでいてくれるから助かるわ」と、少しだけ微笑んだ。


 瑛太たちのバンドで二曲だけピアノを演奏する。

 男同士の気楽な付き合いが息抜きとなり、音楽に没頭出来る。その間はなにもかもを忘れられ、一番音楽を楽しめる瞬間だった。


 彼女の中でどんな変化があったのかがわからないまま、それが気になったまま、それでもなんとか救いたいと思うまま、過ごしていた。


「ワイルドターキーをロックで」


 横柄な声に、優がカウンターを見ると、知らない三〇代ほどの男が腰掛けていた。


「マスター、遥、今日何時から歌う?」


 男は、マスターとも懇意であるような振る舞いだ。

 隣の壁には、ギターのハードケースが立てかけてある。


「よっ!」


 現れた遥に、男が手を挙げ、笑うと、遥の表情が引きつった。


 数日後、優のアルバイトではない日に、遥は男とカウンターに並んでいた。

 男はワイルド・ターキーを、遥は、カルーソーという緑色のカクテルを飲む。


「お前、カクテルなんか飲んだっけ?」


 男が珍しそうに笑った。


「あの頃、あなたに付き合って、好きでもないウィスキーを我慢して飲んでたの。そんなこともわからなかったのね。これはね、あなたは嫌いでも私は好きなミントが使われてるの」


 エメラルドのように透明感のあるグリーンを、眺める遥の頬が少しだけ緩む。

 その様子を注意深く、男の目が見つめる。


 十九世紀末から二十世紀初めにかけて活躍したイタリアのオペラ歌手エンリコ・カルーソーにちなんで作られた。

 マティーニの材料の配合を変え、同じ作り方でグリーン・ペパーミントのリキュールを加えたものだ。


 テーブルに出された途端にミントの香りが広がる。その割りに味は甘味があり、飲みやすい。喉に涼やかなミントが心地良く残る。


 遥のためにミントを使ったカクテルをと、優が探したものの一つだった。


「それよりも、どういうつもり? もう連絡しないでって言ってるでしょう?」


「じゃあ、なんで、こうしてここにいるんだよ?」


「この際だから、はっきり言っておこうと思ったの。何度も言うけど、もうここには来ないで」


「はいはい、わかってるって。ただ一言、忠告してやりたいと思っただけだ」


 遥は男を睨みつけるが、男は少しだけ真面目な目になった。


「最近、お前の歌もピアノも、前みたいな勢いがなくなったんじゃねぇの? 甘過ぎんだよ。俺は好きじゃないね」


「別に、あなたの好みなんかどうでもいいけど?」


「男変わったのか? まさか、この間ここにいた新人じゃねぇだろうな?」


 遥は動揺したが、すぐに平然としてみせた。

 カウンターの中からマスターが、遥を見るが、何も言わない。


 ロックグラスを置くと、男は遥に向き直った。


「どういう気まぐれだよ? ガキにお前の相手が務まるかよ。お前は一見気が強そうに見えて、意外と脆いところがある。それをフォローしてやれるのは、大人の男だけだ」


「言っとくけどね、彼はあなたなんかよりずっとずっとやさしいし、ずっとずっと大人よ。音楽に心を奪われてるところはあるけど一途でいてくれるし、女がころころ変わる誰かとは大違いよ」


「駆け引きとか緊張感も大事だ、男と女はな、のめり込んだ方の負けなんだよ。聴けばわかる。お前が今の状況に浸り切ってるから、甘ったるい音楽になってんだよ。自分でもわかってるんだろ?」


 怒りとも恐れとも呼べない目で男を見ると、遥は押し黙った。


「図星か? 年下となんか遊ぶだけ時間の無駄だぜ。今のうちは新鮮でも、お前だって甘えられなくて辛いこともあるんじゃないのか? だいたい、お前、痩せたんじゃね? ちゃんと食ってんのか?」


「……気遣ってくれるのは、二年前にして欲しかったわ」


「俺もいろいろあって、やっとわかってきたんだよ。今なら、お前ともやり直せる」


 男がしおらしい声になり、真っすぐに遥を見つめた。

 思わず男を見た遥は、慌てて目を反らした。


「お前が忘れられない。お前の歌声も。お前だって、俺を忘れられないんじゃないのか?」


 遥の瞳がわずかに揺れるのを、マスターは確認すると、二人の視界から離れた。


 突然、遥が立ち上がり、男を一瞥した。


「……あなたなんて、……大嫌いよ」


「そうか」


 男は笑った。




【カルーソー】29度


※ミキシンググラス(別のグラス)に氷と材料を入れ、よく混ぜてから、ストレーナーでこす。


 ジン 30ml

 ドライ・ベルモット 15ml

 グリーン・ペパーミント 15ml

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