Ⅱ. モスコミュールな彼女 〜カクテル言葉「喧嘩をしたらその日のうちに仲直りする」〜

Ⅱ. 第1話 「おいしい水」と「ジントニック」

     *


 春から夏に移ろうという時、日差しの強い日々が続き、新宿のバー『Something』では、ビールの売れ行きが好調だった。

 カクテルを知る者には、ジントニックが売れる。


 数人の教え子たちをライヴに呼んだ中年男性は、カウンター越しに挨拶を交わした。


「今日も暑いな、マスター」

「おっ、橘先生、いらっしゃいませ」

「こいつら俺の教え子。ちゃんと二十歳過ぎてるやつらばかりだからね、安心して」


 人の好い笑顔の橘に、彼よりも少し年上のマスターも気さくに笑い返す。


「皆、優ちゃんとも年近いから、よろしくな!」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 カウンターの奥から顔を見せた優は、にこやかに応えた。

 この日はミュージック・チャージは取らず、橘が教え子たちにステージを見て、演奏する体験をさせていた。


 奥の壁側はステージスペースとなっている。

 グランドピアノ、ドラムセット、アコースティック・ギターがセッティングしてあり、アコースティック・ベースが弦を客席に向けた状態で横に寝かされている。


 ライヴが始まると、橘がピアノに座り、同じくらいの年齢と思われる男性たちが、それぞれの楽器を奏でた。


 アップテンポにアレンジされた軽快なボサノヴァ『おいしい水(Água de Beber by アントニオ・カルロス・ジョビン)』。


 店内が一瞬でブラジル・カラーに染まった。

 前列に陣取った学生たちが、裏拍で手拍子を慣らし、ている。


 二曲目からは、生徒たちが混じり、橘は客席から見守り、ドラムとギターも学生と交代した。


 明るい茶色の髪の毛先が肩で揺れる、ラフなシャツと短めのフレアキュロットの、いかにも学生らしい女子生徒がマイクを持って中央に立ち、にっこり笑って挨拶をしてからイントロが始まり、歌に入る。


 明るく弾む音楽——


 彼女の高く澄んだ声は、このバーでのライヴを聴き慣れていた優には、ジャズを歌うにはまだ若々しく新鮮だった。


 この子も、今後、様々な経験によって、艶のある声で歌うようになっていくのだろう。ここで歌う大人の歌姫たちのように。


 そんな発想をする自分が、すごくおじさんに思えた優は、ピアノを弾きながら、自嘲気味に笑った。


「優ちゃんていうの? ジントニックもらっていい?」


 ステージが終わり、休憩に入ると、ボーカルの彼女はカウンターに腰掛け、人懐こい笑みを浮かべて話しかけた。

 さっそくジントニックの用意をしながら、優は答えた。


「桜木優。女の子みたいな名前でしょ? きみは? さっき、先生は、蓮ちゃんって呼んでたけど?」


水城蓮華みずき れんか。よろしくね!」


「よろしく。蓮ちゃんは、ボーカルもピアノも上手だね。ピアニカは意外だったけど、上手だったから驚いたよ」


「ピアニカは独学だよ〜。あたし、吹奏楽やらずに来ちゃったから、吹くのはまだ慣れてなくて」


 カウンターに腰掛けた蓮華は、ジントニックをガブッと飲んだ。


「あ、これ美味しい!」


「ありがとう」


 にっこり笑う優を、感心したように蓮華が見上げてから、もう一口豪快に飲んだ。


「優ちゃんも橘先生に習ってるの?」


「うん。二一の時からだから、二年前から習ってるよ」


「二つ上かぁ。あたし今二一で、今年から学校の個人レッスンが橘先生に変わったんだー。優ちゃんは、先生の吉祥寺のスタジオで習ってるの?」


「うん」


「そっか。今二三ってことは、学校はもう卒業してるんだね。どこに通ってたの?」


 優のこれまでの経緯を聞いた蓮華は、目を丸くして彼を見た。そんな思い切ったことをしそうにないと思っているようだ。


「音大出身でバーテンダーの道に……そんなこともあるんだね。お家の人は大丈夫だった? すっごく反対されたんじゃない?」


 心配そうに尋ねる彼女に、優は笑った。


「そうだね、すごくびっくりされたね。最初は反対されたけど、初めて自分からやりたいって言ったことだから、そのうち理解してもらえてね。今は、賃貸で一人暮らしだから電子ピアノだけど、グランドピアノはここで弾かせてもらえるから」


 少し考えてから、彼女は語り始めた。


「うちの音楽学校は音大みたいに入るのは難しくないから、その辺の音楽教室通ってる延長で来る子もいてね。上手い子はズバ抜けて上手いけど、ピンキリなんだよね。課題多くて、凝ろうと思うと遊ぶヒマもなくなるけど、最低限やってけば退学になるわけじゃないから、課題の出来映えも差が激しいんだ。出来る人はどんな課題でも手を抜かずに仕上げてみせるし、なんで来たのかって思うくらい何もしない子たちもいるんだよ」


「へえ……」


 今度は、優が目を丸くした。


「周りに飲まれたらおしまいなの。だから、自分との戦いでもあるの」


 ステージでも、彼女は他の学生たちよりも積極的に演奏し、橘や他ミュージシャンの音を聴いて、音で応えようとしていたように優には思えた。


「ねえ、優ちゃんて、モテるでしょう?」


 唐突な蓮華の質問にも、優は別段驚くことなく答えた。


「そうでもないよ。なかなか続かなくてね」


「え、そうなの?」


 蓮華が意外そうな顔になった。


 物静かで綺麗な彼女とは会える時間が減り、つい最近別れ話を切り出されたところだ。


「僕が夜の仕事だと、なかなか会えなくて。ここに飲みに来てくれても、二人で会ってるのとは違うから。やっぱり、会えないでいると気持ちも離れていっちゃうのかな」


「……そっか……難しいよね」


 蓮華は残りのジントニックを大事に飲みながら、打ち明け始めた。


 年の離れた彼がいたが、別れて半年経ったつい最近、彼の結婚が決まった。結婚式の三日前に呼び出され、酒の飲めない彼と昼間お茶だけ飲んだという。


「土日は普通の人は休みでも、音楽やる人にとっては稼ぎ時じゃない? あたし時々先生のライヴのお手伝いしてたし、もっともっとライヴとかコンサート見まくって勉強したかったから、優ちゃんと同じで会う時間が減って別れたんだけどね。自分の結婚が決まって、あたしがショック受けてるんじゃないかと思ったみたいで。そりゃあね、別れた時は、ちょっと惜しいことしたかなって思ったは思ったけど、なんだか哀れまれてるみたいで、ちょっとイヤだったわ」


 ナッツを口に放り込み、ボリボリ噛み終わらないうちに話を続ける。


「それでね、あの人ね、お前を忘れるために俺は結婚するんだ、とか言ったのよ。なによそれ!」


「……嬉しくなかったんだ?」


「嬉しくなんかならないわよ。『なんなの? そんな気持ちで結婚したら、相手の女の人に失礼じゃない? それとも、あたしに気を遣ってるつもりだとしたら、余計なお世話だからね』って言っといたわ。だいたいね、ドラマとか映画みたいなセリフ言う男って、あたし信用してないから」


 優は感心したように笑った。


「確かに、信用しない方がいいだろうね」


「でしょう? そんなセリフ言う人に限って、普段は誠実味に欠けるものよ。その元カレだって、あたしとあんまり会えないからって、言い寄って来た女の人とこっそり付き合って、結局結婚してんだから」


 溶けた氷だけになってしまったジントニックの名残を飲み干す。


「二杯目は、何かお作りしましょうか?」


 優がバーテンダーの口調に代わり、微笑んだ。


「そうねぇ……。ちょっとギムレットとか興味あって、バーに行くとよく頼むんだけど、今は違うのが飲みたいなぁ。あ、今、小娘だから『』って思ったでしょ?」


 優はくすくす笑った。


「思ってませんよ。何を飲もうと自由ですから。お酒強いんですね?」


「うん、まあ、あんまり顔には出ないかな。メニューにないものも作れる?」


「はい、どうぞ」


 蓮華は、不敵な笑みを浮かべた。


「じゃあ、あたしのイメージで」


 長さの足りないセミロングを、シャンプーのCMのように、さらっと手でいてみせる。


 思わず笑った優だが、「かしこまりました」と制作に取りかかった。




【ジントニック】14〜15度

※グラスに直接材料と氷を入れ、軽く混ぜる


 ジン 30〜45ml

 トニックウォーター 適量

 ライム 1/6個

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