Ⅲ. バー『Limelight』のバーテンダー
Ⅲ. 第1話 フォアローゼズで「マンハッタン」
東京――青空は濃紺へ移り変わり、銀座のビル街ではネオンが点灯する。昼間の銀座とはガラッと雰囲気が変わる。
夜の街中を歩いていた蓮華は、『Limelight』というシックな看板の店へ、祖父の部下二人ほどの後に付いて入って行く。
「……わあ、オーセンティック・バーっていうのかな?」
クラシカルなバーであった。当然、蓮華のような二〇代前半の若い娘が、友人同士で気軽に行くような場所にはない雰囲気を持つ、そこは、非日常的な異空間であった。
外国映画で見るような内装に瞳を煌めかせた蓮華は、店内を見渡していた。
アンティークな調度品、暗めの間接照明、銀座の夜景が見渡せる大きい窓、外国製のウイングバックチェアに、木目調のテーブル、カウンター――
祖父たちがカウンター席に腰掛けているのに気が付くと、慌てて末席に座った。
「いらっしゃいませ。……あ」
バーテンダーの一人と目が合った。
「優ちゃん?」
「知り合いか?」
祖父が首を伸ばして蓮華を見る。
「そうなの。あたしが橘先生たちとよく行く新宿の『Something』で知り合ったの。彼も橘先生に習っててね、一緒にライヴに出たりしてたんだよ。そう言えば、優ちゃん、最近『Something』にいないね」
「蓮華」
静かに諭されたように、祖父の声に蓮華がハッとした顔になった。
「すみません、会長。優ちゃ……いえ、桜木さんとは、そんないきさつがありまして、知り合いなんです」
優は、祖父とその連れ達に会釈をしてから、改めて、控えめな色のスーツを着た、パールのイヤリングと小振りなネックレスをした蓮華を見つめた。
「水城さまのお孫さんでいらっしゃいましたか。『Something』には、たまにお手伝いに行くくらいで、今は主にこちらにおります」
感じの良い受け答えと微笑みは、好印象を与えた。
祖父も満足そうに笑い、冷えていないスコッチ・ウィスキーを頼む。部下たちはウィスキーのロックを注文すると、祖父の目の前にいる年配のバーテンダーが用意を始めた。
「蓮華さんは、いかがいたしますか?」
聞き慣れない尋ねられ方に、蓮華は眉をひそめてから答えた。
「ウィスキーは苦手で、ニッカとか竹鶴しか飲めないの」
お付き合いでウィスキーを頼んだ方がいいことはわかってるでしょう? という顔つきになると、優は軽く頷いた。
「でしたら、ウィスキーベースのカクテルをお試しになってみますか?」
蓮華は、なるほど、という顔になった。ウィスキーそのものは苦手でも、カクテルにすれば飲みやすいだろう。
「この際ですから、他のウィスキーを試してみるというのはいかがでしょう? 例えば、フォアローゼズなんかはスーパーでも手に入りますし、香りも良くて、甘くて飲みやすいですよ」
と、優が薔薇の絵が描かれた瓶を見せると、蓮華は興味を持ったような表情になった。
「わあ、綺麗な瓶ね! ウィスキーって、落ち着いたカッコいい大人な瓶が多いけど、そんなにオシャレでかわいいのもあるのね」
「フォアローゼズ生みの親が舞踏会で絶世の美女に一目惚れして、即プロポーズしました。彼女は、OKだったら次の舞踏会では深紅の薔薇のコサージュを付けてくると言って、本当に付けてきたそうです。このラベルのデザインには、そんな由来があるそうなんです」
「へえ」
「ああ、蓮華さんは、こういうのはロマンチックだとは思わないんでしたね」
「ううん、外国だし、あたしが言われてるわけじゃないから構わないよ。それにしてみるわ」
「かしこまりました」
蓮華は、瓶の文字に目を留めた。
「BOURBON(バーボン)ってことは、アメリカのウィスキー?」
「はい。バーボンという名前は、フランスのブルボン王朝から来ていて」
「え? フランスなの?」
「ルイ十六世が、アメリカが独立する時に支援して、感謝したアメリカがケンタッキー州にブルボンの名前「バーボン」を地名に残したそうです」
蓮華の瞳が興味津々に瞬く。
「ルイ十六世って、マリー・アントワネットと結婚した王様よね? 錠前作りだけじゃなくて、そんなこともやってたのねぇ!」
優が笑った。
「そっか……。それなら、アメリカのカクテルが飲んでみたいわ。シティ・カクテルっていうのかな、確か、ニューヨークとかマンハッタンって都市の名前のものがあったと思うんだけど、どんなレシピ?」
「さすが、よくご存知ですね。ニューヨークは、ライムジュースとザクロの風味のグレナデン・シロップ、オレンジの香り付けを加えます。マンハッタンは、ワインに香草や果汁などで独特の風味にしたベルモットと、アンゴスチュラ・ビターズ(アロマティック・ビターズ)という薬草のリキュールを使います」
優が見せたのは、英字新聞のように細かいアルファベットが並ぶ白い紙で巻き、瓶の細い首をのぞかせている斬新なデザインの小さい瓶だった。
「ラベルが上にはみ出てるなんて、面白ーい!」
「マンハッタンも香りが良いカクテルですよ。ウィスキーが苦手な方にも飲みやすいと思います。マティーニがカクテルの王と呼ばれているなら、マンハッタンは女王と呼ばれています」
「じゃあ、マンハッタンをいただいてみるわ」
わくわくとそう言った蓮華に、優はにこやかに応えた。
「かしこまりました」
空のカクテルグラスに氷を入れ、ガラス製のどっしりとしたミキシンググラスを手元に置いた。
薔薇の描かれたウィスキーの瓶を傾け、赤ワインのように見えるスイート・ベルモットの瓶に持ちかえる。
アンゴスチュラ・ビターズを振り入れると、氷を入れ、バースプーンで音もなく混ぜた。
冷やす目的であったカクテルグラスの中の氷を除く。
スプリングの付いたストレーナーをミキシンググラスにはめ、片手でグラスごと持ち、人差し指でストレーナーを押さえてこしながら、カクテルグラスに静かに注ぎ入れる。
チェリーを落としてから、小さく切ったレモンの皮を三本の指先でつまみ、グラスから離して折りたたむように潰した。
「それ、ピールっていうんだっけ? レモンの香り付けをしてるのよね?」
「はい」
「ふうん、そうやるんだ?」
優がコースターに乗せた。
「マンハッタンでございます」
レッド・チェリーの沈む赤く透明なカクテルは、グラスも含めて宝石のようだ。
「綺麗だね。まさに女王と呼ぶのにふさわしいカクテルだね」
グラスを持ち、うっとりと眺めていた蓮華が、そうっと唇を付けた。
「美味しい! 香りもすごく良いし、上品な味で飲みやすいわ! ウィスキー苦手でも全然大丈夫だね!」
「ありがとうございます」
はしゃぐようにマンハッタンの感想をもらした蓮華に、優がかしこまった礼をする。
その後、もう一度微笑んだ彼の表情には、どことなく安堵した、特別な感謝が込められているように、蓮華には思えた。
「まさか、桜木くんと知り合いだったとはな」
「それはこっちのセリフだわ。おじいちゃんこそ」
白髪のスーツを着た紳士は、仕事の時には見せない崩した笑みになり、蓮華も微笑み返した。
「今日は退屈させてしまって悪かった。大事な話だったからな」
「話の内容はよくわからなかったけど、皆一生懸命考えてて……大きな仕事をするっていうのは大変なことなんだなって思ったわ」
「大きい小さいは関係ないがね」
「……はい」
「桜木くんは、お前を退屈させないよう、相手をしてくれたのだろう」
他のバーに付き添った時よりも、蓮華は居心地の悪さを感じていなかった。
「『Limelight』では、そういうところにも気を遣う。上司たちの話に付き合わされて退屈している客にも、さりげない気遣いを見せる。オーナーの速水くんの教育だ」
「それで、ウィスキーの話を……。その後も作ってもらったカクテルも美味しいかったし、フォアローゼズとか他のウィスキーの話もしてくれたし、なんとか間が持ったものね」
思い起こしながら、蓮華は感心した。
「ちゃんとバーテンダーの道を歩いてるんだね」
普通の客として扱われた淋しさを感じなかったわけではなかったが、そうであるほど、彼はバーテンダーに近付いているということでもある。
蓮華には、それが嬉しい。
「あたしも頑張ろっかなぁ。何がやりたいかは、まだぼんやりしてるだけだけど、ちょっと元気出たかなぁ」
側で見守る祖父はそれには何も言わず、ただ表情は柔らかい。
夢を持つ人、夢に向かう人は眩しく映る。
そして、周りの人をも明るく照らすのかも知れなかった。
【マンハッタン】32度
※別のグラス(ミキシンググラス)に氷を入れ、材料をよく混ぜる。
ウィスキー
スイート・ベルモット
レッドチェリー
レモンの皮(ピール用)
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