Ⅲ. 第2話 マティーニ
*
銀座にあるバー『Limelight』では、開店前に下っ端のバーテンダーはトイレ掃除と店の前を掃除し、その後バック・カウンターに並ぶ瓶を拭く。
「昨日貸したトム・クルーズの映画『カクテル』見た?」
「見たよ」
「カッコ良かったよなぁ!」
優の同僚であり、年齢も近い
アイスピックで氷を削っている優も、「うん」と返事をする。
「フレア・バーテンティングってパフォーマンスしながらカクテル作るのって、あの映画で知れ渡ったんだってな」
酒のボトルやシェイカーを投げたり回転させたりして注ぐ、カクテルを「見せて作る技」であり、大会も行われている。
二人はペットボトルに水を入れて酒のボトルに見立て、回転させながら放り投げてみた。同時に投げてキャッチするうちにそれだけでは満足しなくなり、自分の背の後ろで宙に放ってみるが、案の定、うまく受け取れず背に当たって痛い思いをしたりと、少しの間フレア・バーテンティングを真似て遊んでいた。
「楽しそうだな」
いつの間にか、背後にオーナーである速水が立っていた。
気が付いた二人は固まり、ペットボトルが床に落ちた。
じっと二人を見つめてから、険しい表情で床に転がるボトルを見下ろし、再び二人の顔に視線を戻す。
無言の迫力は、言葉で注意を促すよりも、若造二人を震え上がらせるには充分であった。
「す、すみません、オーナー!」
「すぐに片付けますので!」
優と榊は急いでボトルをかき集め、シンクへ運んだ。
速水は表情を変えず、無言のまま二人を目で追う。
「……僕、トイレ掃除してきます!」
「俺は、店の前掃いてきます!」
優と榊は進んで掃除用具を手に取った。
閉店後、優と榊は残り、自発的にカクテル作りの練習をしていた。
経費は特に取らず、店にある材料を使って研究することは、オーナーには推奨されていた。
「今日、お前、何作る?」
榊に尋ねられた優は、「マティーニ」と答えた。
「マンハッタンが『女王』だったから、今度は『王』に挑戦か?」
黒い瞳をいたずらっぽく輝かせた榊は、少し声のトーンを落として尋ねた。
「マンハッタンは……もういいのか? 自分に合格点はあげられたのか?」
聞き返すように優が榊を見ると、榊が慌てて笑いながら言った。
「いや、なんか、桜木ってさ、マンハッタンとかドライ・マンハッタン作ってる時、なんとなくだけど目が真剣っていうか表情が硬かったっていうか……。だから、なんか思い入れがあるのかなーって思って」
優が目を丸くした。
「さすが、バーテンダー!」
バーテンダーには——特に、自分の近くにいるバーテンダーには、きっとごまかしは効かないだろうと観念する。
「榊の言う通り、ドライ・マンハッタンには、ちょっと苦い想い出があってね。初めて飲んだ時は衝撃で。でも、なかなかその時の味と全く同じには作れなくて……。二十歳そこそこでお酒も飲み始めたばかりの時と今とじゃ、味の感じ方が違って当然なんだけど、この間、『マンハッタン』を友達が美味しいって気に入ってくれたから、自分の中では、もう良しとしたんだ」
「それって、その苦い想い出ってのも、……乗り越えられたってこと?」
気遣う榊の視線に、優は笑ってみせた。
「美味しそうに飲んでくれた彼女を見てたら、もういいやって思えたよ」
「友達って、女だったのか」
「女の子だけど、なんか同性みたいな感覚の子で」
想像もつかないような表情になる榊には構わず、優はカクテル作りの支度を始めた。
「マティーニはあまりにも種類が多過ぎて、一人で研究するには大変だよな。俺も今日は桜木に付き合ってマティーニにしよっかなぁ」
「ありがと!」
二人がミキシンググラスとストレーナー、カクテルグラス等をそろえてカウンターに並べていると、速水が私服で現れた。
「オーナー、お疲れさまでした!」
二人の声が揃った。
カウンターに置かれた数本のジンとベルモットの瓶を見た。
店の客に出すマティーニは、速水が作る。
まだ二人には許可していない。
「マティーニか」と呟いてから、思い付いたように速水は二人を見た。
「今度の定休日、横浜で生まれたマティーニを飲んでみるか?」
「はい! お願いします!」
揃った返事に頷き、歩いていくと、ドアの前でふと足を止めた。
「私は、フレア・バーテンティングが嫌いなわけではない。教えてやれないと思っただけだ」
静かな低音でそれだけを告げると、ドアを開けた。
優と榊は、速水の背に向かい、深く頭を下げた。
横浜の老舗ホテルニューグランドから近いバー『プロムナード』の、白く重厚な扉が開かれると、巨大な窓からは港と、ホテル、観覧車などの景色が見渡せる。
下の方を赤レンガが埋め込まれた壁と、レトロなデザインの
白いシャツに黒いベストという、他のバーテンダーと同じ制服の女性のバーテンダーがカウンターの中で微笑み、迎える。
「彼女が、こちらのチーフ・バーテンダーだ」
「
速水、榊、優の順に並び、速水が二人の名前だけを紹介し、本題に入る。
「マティーニはレシピが多く、それこそ本一冊になるほどだ。まずは、いつものマティーニと、次にマティーニ・ニューグランドを一つずつお願いしたい」
「かしこまりました」
ショートをふんわりさせた髪型に、大振りだが派手ではないイヤリングが印象的なバーテンダーは、ゴードンのジンのボトル、ドライ・ベルモット、そして、スペインのワインであるシェリー酒のボトルを置いた。
ミキシンググラスにジンとベルモットをそそぎ、氷を入れ、バースプーンでかき混ぜる。
優たちはバーテンダーの視線で手元に注目するが、結月は臆することなく、笑みを絶やさずに混ぜ続けた。
氷で冷やしておいたグラスに注ぎ入れ、銀色のカクテル・ピンに刺したスタッフドオリーブを沈めると、レモンの皮を指先で潰し、香りをグラスの中に飛ばした。
近くにある間接照明も手伝い、ミストのような細かい果皮のオイルが舞い上がるのが、幻想的に映った。
レモンの香りが爽やかに広がる。
この瞬間が好きだと、優と榊で語り合ったこともあった。
「まずは、速水さんの『いつもの』マティーニになります」
一口味わう。
優と榊は、「あれ?」という顔で互いを見合った。
「いつも作るものとは、違う味だろう」
速水は穏やかな声でそう言った。
「はい。ジンの割合が、いつもより少ない……?」
「なんていうか……マティーニなのにキツくなく、まろやかで、いつもと違う香りにも思えます」
榊に続き、グラスからミキシンググラスを見つめて言った優に、速水が応えた。
「カクテルの女王マンハッタンを作ったのは、後のイギリスの首相となるチャーチルの母親だというのは知っているな? だが、息子のチャーチルが愛飲したのはマンハッタンではなく、マティーニだった。007シリーズでジェームズ・ボンドが飲むのもマティーニだ」
「ジェームズ・ボンドの好んだ、ジンとウォッカを使うヴェスパー・マティーニもありますね。ベルモットの銘柄にもこだわって」
「イタリアのベルモット・メーカーのマルティニ・エ・ロッシ社がマルティニ・カクテルと呼ばせた説と、アメリカ発祥説ではサンフランシスコのバーで、最初に飲んだ客がカリフォルニア州マルチネスに行くところだったから、このネーミングになっただとか、言われてますね」
と、結月に続き、榊が言った。
「ベースをウォッカに変えるとウォッカ・マティーニ、ベルモットを日本酒に変えるとサケティーニになるんですよね」
優が笑顔で言うと、結月が、くすくすと笑って頷いた。
「もとのマティーニは、ジンが3、ドライ・ベルモットが1だった。5;1のドライ・マティーニ、6:1のベリー・ドライ・マティーニ、7:1のエキストラ・ドライ・マティーニ10:1と呼ばれるものもある。チャーチルはジンの割合をさらに増やしていき、ベルモットの瓶を眺めながらジンを飲んだとか、執事にベルモットでうがいをさせ、グラスに注いだジンに向かって『ベルモット』と囁かせたなどとも言われている」
「大声だと甘くなり過ぎるから、ってことでしたね」
結月が言うと、速水は口の端を上げた。彼は、それで、充分笑っていた。
「つまり、それって、ほとんどジンですよね?」
「どれだけジン好きなんだ?」
優も、榊も苦笑した。
結月が微笑んだ。
「他にも、ベルモットを入れたカクテルグラスを傾け、まんべんなく濡らしてから捨て、その後ジンを入れるリンス・インという方法や、スプレーする方法もあります。とにかく、収集のつかなくなるほど、自分なりのこだわりがあるのがマティーニの味わい方だと言えるのかと」
「そうなのか……」
「それで、本一冊作れるほどのレシピがあるわけか」
優と榊は頷きながら感心した。
「マティーニは誕生した時からさまざまにアレンジされ、今マティーニというと5:1の割合が多い。エクストラ・ドライ・マティーニのようにドライ指向が進む傾向が見られるが、私には、3:1のこの配合が一番飲みやすいと思う」
「ドライ過ぎない分ベルモットの香りが楽しめて、爽やかだし、じっくり味わえるように思います」
速水と優の会話に、榊も頷いた。
「お客様がどんなマティーニを求めてるのかがわかれば、配合を考えてお出しすることが出来るってことか……」
優の頭の中が回転し始める。
「オーナーは、お客様によって配合を変えたりなさってますよね? ステアの時間も長めに思えますし、シェイクされている時もありませんか?」
「シェイクする方法もある。こだわりのあるお客様には、ご要望を聞いてからお作りしている」
「ますます勉強しなくては!」と、榊と優があれこれ語り合う横で、速水は静かに耳だけを傾け、カウンターの女性バーテンダーに「次のものを」と目で合図した。
「それでは、こちらが、マティーニ・ニューグランドになります」
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