15.Shut and open
第35話
空は果てしなく高く、彼方に霞んでいる雲が絹のようになびいて見える。秋は本格的に旅支度を始め、冬が居座ろうと重い足音を轟かせる頃合いだ。
まだ朝も早い。普段ならベッドの暖かさに包まれて、まだ夢心地でいる時間だ。向日葵は大きく息を吐いてみた。まだまだ気合いが足りないなと言いたくなる程度の白い吐息はあっという間に森に溶け込んでいった。
「マキシくーん、お腹減ったよー」
朝食もまだだ。太陽が昇る前に真樹士と向日葵、二人だけで山小屋を出発。真樹士だけでなく向日葵までもリュックを背負わされ、そこにいろいろな食べ物が詰め込まれている。
「これは寄り合いの滝についてからだよ。みんなで食べるの」
「みんなって?」
二人だけで散歩に行く、そう聞いていたつもりだが。
「俺と君と、あとヌシの皆様」
「え、聞いてないよ」
ぴたり、足が止まる向日葵。一度だけ出会った事がある蟲の主様を思い出す。昆虫、爬虫類の集合体と一匹の白い大蛇。蛇はなんとか我慢できたとしても、虫達と食卓を一緒にするのは、はたして。
「心配しなくていいよ」
真樹士が彼女の心を読み取ったかのように言う。
「今日は山の神様と君のお披露目だ。正式な山のヌシ達の寄り合いだから、みんな礼儀正しく接してくれる」
「お披露目?」
少しばかり向日葵の心配と角度が違っていたが、とりあえず真樹士の言葉を信用してやる事にする向日葵。真樹士は樹々の隙間から空を見上げながら白い息を吐いて続けた。
「そう。あとは滝に着いてからのお楽しみ。話さなきゃなんない事がいっぱいあるんだ」
向日葵も真樹士に倣って空を見上げた。まだ青に染まりきっていない早朝の薄白い空。そういえば、向日葵が山に入ってから、ここまで静かさに満ちた空と山、穏やかで澄みきった森の空気は初めてかもしれない。
いろいろな事が起こった。恐ろしくて、寂しくて、悲しくて。すべてに終止符が打たれてから一週間経つが、未だに一人で眠るには夜は暗過ぎた。
隣の真樹士をちらりと覗き見る。真樹士はこれっぽっちも不安げな要素を顔に浮かべず、まさにピクニックを楽しんでいる顔だった。この顔が隣にあるなら何も心配する必要はないか。自然と向日葵も笑顔になる。
まだまだわからない事、聞きたい事がいっぱいある。向日葵の頭の中の謎はまだ何も解決していなかった。
「ま、いいか」
いまさらごちゃごちゃ言ったって始まらない。真樹士に任せるしかない。
二人きりの寄り合いの滝。滝は大袈裟に砕け落ちる音もなく、静かに水をたたえる滝つぼに注がれている。大きな滝つぼから清流として森に流れ込む澄んだ水の流れ。森が少し開けた場所に滝はあり、地面は座り心地のよさそうな背の低い柔らかい雑草で埋め尽くされている。一歩踏み込むと不思議と音もなく登山靴が沈み込み、それでもしっかりと確かな地面で支えてくれている。
なんて静かな場所なんだろうか。隣に座る真樹士の吐息すら聞いて取れる。
草の上に座る。滝の側なのに、もう秋も深いと言うのに暖かい。上質の絨毯に腰をおろしているような気分だ。柔らかい草の上を指でなぞる。
「ヒマワリ? どうしたの?」
真樹士が顔を覗き込んで来た。そんなに惚けた顔をしていたのか、向日葵は思わず座り直して姿勢を正してしまう。
「ううん。ただ、居心地いいなって」
「ああ。山の神様も無事代替わりして更新された。すべてのヌシ達も収まる所に収まった。これが本来の神の住む山だよ」
そう言って真樹士はバックパックをごそごそと探り出す。ふと向日葵が顔を上げると、いつのまに現れたのか、白い大蛇が鎌首をもたげて真樹士と向日葵を見つめていた。ウロコが見て取れない程にきめ細かい陶器のような滑らかな皮膚と、黄金色の宝石にうっすらと亀裂が入ったような瞳。ぺろり、二股の舌を出す。
「よう、こないだはお世話様」
あまりに突然の登場に固まったまま動けない向日葵を余所目に、真樹士はバックパックから立派なリンゴを取り出した。発泡の網に包まれたままの、なんとも果物と思えない輝きを放った重いリンゴを蟲の主に見せてやる。
「ど、どーも」
ぎこちなく頭を下げる向日葵。真樹士はにやにやとその様子を見ながら発泡の網を取ってやって白い大蛇に軽く投げてやった。蟲の主はぱくりとリンゴをくわえて、ゆっくりと頭を下げた。
「箱でリンゴを用意したよ。後でみんなの分も持って来るからな」
「ムシのヌシ様ってリンゴが好きなの?」
向日葵はゼンマイ仕掛けの人形のように首をかくかくと回して真樹士を見る。真樹士はバックパックに腕を突っ込んで次の食べ物を探していた。
「蛇とリンゴは、アダムとイブの時代から意外に接点があるのさ。それよりちゃんとご挨拶しろよ。いくら下位のヌシだからって相手は蟲の王だからな」
「ハイハイ」
「返事は一度ね」
次にバックパックから出て来たのは釣りのエサだった。水とこねあわせて作る練り餌の素だ。真樹士はすっくと立ち上がると滝つぼに歩み寄る。
「このメーカーの練り餌じゃなきゃダメだって言うんだよ。やっぱ大手メーカーは一味違うのかな」
びりっと袋を破いてそのままどさどさとエサの素を水に投げ込む。すると水面にじわじわと黒い影が浮かんで来た。波紋が一つ二つと水面を揺らす。
「ウオのヌシ様だよ。さすがに水から出ると身体重くて動けなくなるからこのままで失礼するよ」
「ウオのヌシ様って、ヤマメと山菜くれたヒト?」
ヒトかどうか、すでに感覚が麻痺しかかっている向日葵。よちよちと四つん這いになって水際に近付く。そこには全身に苔の生えたオオサンショウウオがぽっかりと口を開けて、確かに美味そうに練り餌を味わっていた。
「ヒラメもね。ここらへんの魚をすべて司っている。ヌシ様怒らせたら海でも魚が釣れなくなっちまう」
「それはそれは」
すごいのかどうか、よくわからなくなってきた。
「美味しいお魚、いつもお世話様です」
よくわけのわからない挨拶をしてしまう向日葵。オオサンショウウオはばくんと口を閉じて挨拶を返してくれたようだ。真樹士は水に手を突っ込んでオオサンショウウオの頭に生えた苔をわしゃわしゃとかき回した。喜んでいるのか、嫌がっているのか。とりあえず身をよじっているオオサンショウウオ。
と、一陣の風が向日葵の切りそろえた前髪をさらった。髪をおさえて見上げると、巨大な鳶が一羽、頭上の大樹の上にとまっていた。このヒトは会った事がある。思わず向日葵は手を振った。いつか真樹士を運んできた鳥の主様だ。
「トリのヌシ様の好物はなーんだ?」
真樹士がバックパックに腕を突っ込んで次のお土産をまさぐっている。向日葵は鳶の大きな姿を見上げながら顎に指を添える。
「トンビと言ったら油揚げ?」
「正解。しかも定義山の油揚げじゃないとダメなんだって。ヌシってみんなワガママなんだよなー」
「マキシくんもあんぱんは粒あんじゃないとダメって言うじゃん」
「そりゃあ、俺もヌシだから。ワガママ言う権利がある」
真樹士はぽーんと油揚げを高く放り投げた。それを器用にくちばしでキャッチする鳥の主。
蟲の主。魚の主。鳥の主。向日葵は指折り数えた。確か、山には九つの主がいたはず。
「猫又! キミへのお土産は食べ物じゃないから後でな」
真樹士が今度は向日葵が背負って来たリュックの中に腕を突っ込んで背後に大声を上げた。その声につられて振り返る向日葵。またまたいつのまにか、猫耳をつけた少女が草の上に横たわっていた。今日もまたメイド服姿で、片肘をついてにっこりと笑みを投げかけて来た。こうして見ると、ただの愛嬌のあるコスプレ少女にしか見えない。しかし本体は猫又と言う妖怪だ。それが山の獣達の主。
「スマホ、だよね? マジでくれるの?」
「おまえに使いこなせるか?」
猫又が、ぺろり、舌を出す。その舌は人間のモノとは思えない長さと鋭利さを持っていた。向日葵はなんとなく気の合うこの妖怪の側に寄って、また草の上にぺたりと座った。そして彼女の猫耳にこっそり手を伸ばす。
「こら、ヒーちゃん、くすぐったいって!」
「いいじゃん、ネコマー。ふさふさして気持ちいいって」
何故か異様に仲のいい二人を真樹士は冷ややかな視線で眺めた。猫又と向日葵が手を組んでしまったら、ひょっとしてかなり手に負えないコンビになってしまうのではないか。これからの夫婦生活が少し不安になる。
「ヒーちゃんネコマーって君らねえ」
真樹士はリュックから一房の巨峰を取り出した。たわわに実った大粒が紫色に輝いている。そしてきょろきょろと周囲を見回し、鳥の主が止まっている大樹の幹の中程に、小さな白い影を見つけた。
「おーい、サルのヌシ様。降りてきな」
向日葵と猫又は一緒に寝転がったままの姿勢で頭上を見上げた。木漏れ日の差し込む緑色が色濃く折り重なった木々の中、だるまのように小さく手足をたたんだ小さい老猿の姿がある。猿の主との戦いを思い出し、思わず身を堅くする向日葵。
「大丈夫よ、ヒーちゃん。あいつは先代のサルのヌシ。大人しい奴よ」
向日葵にくすぐられて気が緩んで人への変化が崩れかけた猫又は、頬にぴょこんと生えたヒゲをつまみながら向日葵の膝を撫で付けた。
「そうだよ。俺達ヒトが代替わりをしたように、ちょうどサルのヌシも代替わりしたんだ」
真樹士は樹から降りて来た白髪の猿に頭を下げ、大きくたわわに実を付けた巨峰を手渡した。
「みんなの分もあるよ。後で箱で持って来てやるからな」
まるで深く土下座するかのように、白い老猿は両手を地面に付けて人の主へ対して自らの後頭部を晒した。人の主は片膝を付いて猿の主の背に手をかけた。ゆっくりと顔を上げる老猿。
「もう全部終わったんだ。気にすんなって」
それを見て猫又が向日葵にこっそり耳打ちする。
「マキシちゃんってけっこう甘いよね」
「何でも飲み込んじゃう。いつかストレス溜まって爆発しちゃうよ」
真樹士はもう一度ぽんと猿の背中を軽く叩いてやり、今度はリュックから蜂蜜の瓶を取り出した。向日葵が気付くと、いつのまにか真樹士の背後に黄金色の小山がもこもこと動いている。
「やあ、クマのヌシ様。きっちり、全部終わったよ」
黄金色の小山はひょっこりと首を伸ばし、蜂蜜を持った真樹士の手元を覗き込んだ。真ん丸に太った巨大な熊は子猫のように真樹士にじゃれつき、くんくんと鼻を鳴らして蜂蜜をねだった。
「最高に高かったんだからちゃんと味わって舐めてくださいよ」
真樹士は蓋を外して熊の主に最高級のアカシア蜂蜜を渡した。早速蜂蜜に舌を伸ばしたその丸っこい頭を撫でてやり、向日葵のリュックにまた手を差し込む真樹士。あれ、と顔をしかめてリュックの中に顔を突っ込む。
「ヒマワリ、栄養剤どこに入れた?」
リュックに顔を突っ込んだままの真樹士が訊ねる。向日葵は少し考えて、もう片方の荷物、真樹士のバックパックを指差した。
「マキシくんが自分で持つって言わなかったっけ?」
「そうか?」
真樹士は自分のバックパックを拾い直して中を覗き首を傾げる。と、思い出したように横のポケットを探り、植物用栄養剤アンプルのパックを取り出した。
「あったあった。これが効くらしいんだ」
寝転ぶ猫又と向日葵の元に帰って来る真樹士。よっこいしょと草の上に腰を下し、すぐ側の大樹の根本にアンプルを差し込んだ。
「何してんの?」
思わず手元を覗き込んでしまう向日葵。普通にホームセンターの園芸コーナーに売っていそうな栄養剤のアンプルだ。差し終えた真樹士は満足そうに立派に太った樹の幹を掌で叩く。
「紹介が遅れたな。ミドリのヌシ様だよ。山の植物達の王だ」
「ミドリのヌシ様?」
「山のネットワーク構築を手伝ってくれた情報伝達力に優れたヒトだよ」
向日葵は幹を撫でる真樹士の手元から大きく頭上を見上げた。苔むした根本。そして真っ直ぐに空を支えているように伸びる太い幹。精いっぱい両手を広げているような枝と溢れる緑色の葉。鳥の主の巨大な鳶がとまっていてもまるで揺るがない。
「はじめまして、よろしくお願いします」
向日葵はきっちりと座り直して頭を下げた。猫又もおもしろがってそれを真似る。
「さあて、俺達も食べよう。猫又、君も食べるか?」
真樹士が自分のバックパックからサンドイッチを取り出した。しかし向日葵がちょっと待ってと手のひらを見せる。
「ねえ、数合わなくない?」
「数?」
「うん。蟲、魚、鳥、獣、猿、人、熊、緑。八種のヌシ様しかいないよ。九つのヌシだからあと一人いるんじゃない?」
「大丈夫、忘れてないよ」
真樹士はサンドイッチの後にポテトチップの袋をバックパックから引っ張りだした。向日葵に見せびらかすように手渡す。このポテトチップは、初めて山に入った日に入り口の祠にお供えしたものと同じ物だ。
「ヌシのヌシ様、いわゆる山の神様だ」
そう言って真樹士は向日葵からポテトチップを取り返して袋を開ける。そのまま誰かに手渡すように、隣の誰もいない空間に袋を持って行く。真樹士が手を離しても不思議と袋は宙に浮いたまま落ちる事はなかった。
「さっきからずっとそこにいたけど、向日葵はまだ修行不足だからよほど近付かないとお姿を拝見できないかな」
ポテトチップの袋がかさかさと揺れる。あの日の風を思い出す。森を一陣の風が通り過ぎて、お供えしたポテトチップは中身が消え失せていた。
あっと、向日葵は思わず声を漏らした。
揺れるポテトチップの袋から、小さく細い子供の手が伸びているのが空気に滲んでくるようにうっすらと見えた。一枚のチップをうれしそうに口に運ぶひな人形のような着物を身に纏ったきれいな黒髪をした女の子。それと、彼女の肩を抱く、アーモンドのような大きな目をした少女。
「やっと紹介できるな」
真樹士が咳払いを一つ。
「新しい山の神様と、リンドウだよ」
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