第4話

 小さな光の粒がかすかな風に吹かれてふわりと舞う。透明感のない濁った光がそれぞれ対をなして揺らめき、ぱちぱちと瞬き、暗闇に包み込まれた森林をささやかに飾っている。


「飲むか?」


 何百年もの歴史を過ごした大木をそのまま輪切りにして仕上げたテーブルによく冷えた缶ビールが置かれる。そしてその隣にヒラメの刺身、柿の種とピーナッツ。


「じゃあ、ちょっとだけ」


 純は真樹士からグラスを受け取った。山小屋のバルコニーに、真樹士と純は森をふらふらと漂う不確かな光を眺めながら座った。


「なんか、今日はずいぶんと数が多いな」


 ざわりと木の葉を揺らす風が吹けば、小さく頼りない光はいっせいに瞬き、まるで淋し気なクリスマスツリーのように一層に森の暗さを引き立たせる。真樹士の言う通り、これだけの光の乱舞は珍しい。


「マキシさんの事を見に来たんじゃないですか? それとも、ヒマワリさんかな」


 薄ら寒い深い森の奥、山小屋の側を小川がさらさらと流れ、水車がきしきしと回る。少し肌寒いが、心地の良い空気に包まれながら真樹士の手の中で缶ビールはぱしゅっと小気味良い音を立てた。


 真樹士は遠慮がちに手を伸ばした純のグラスになみなみとビールを注ぐ。お返しに、と純は缶を受け取ろうともう片方の手を伸ばすが、真樹士はそれを腕を捻ってかわして、自分のグラスに溢れる程に泡を立てた。


「まずは乾杯といこうか」


 はたして今夜何度目の乾杯か。グラスが堅いレンガをぶつけあわせたような高い音を響かせる。酒そのものにあまり免疫のない純は唇を湿らせる程度に口をつけ、真樹士をじっと真っ直ぐに見つめた。


 小さなグラスとは言え一気にビールを煽り、木のテーブルにかつんと透明度のある音を立ててグラスを置く真樹士。それからようやく純の視線に気付く。純は今度こそと新たなビール缶に手を伸ばすが、またもやその手を避けるように真樹士は缶をひったくった。


「酒の席の俺達はヒトのヌシと山臥じゃねえよ。古くからの友達だと思って、思ってる事を何でも言っていいよ」


 純は頭の中で自分が使うべき言葉をきちんと推敲するようにしばらく黙りこくり、やはり真っ直ぐに真樹士を見据えて口を開いた。


「あらためて、ご結婚おめでとうございます。ヒマワリさんってかわいい人ですね」


「……おまえほんっと真っ直ぐで真面目なんだな」


 真樹士の反応に純は言葉に詰まってしまった。自分が思った事、伝えたい事をそのまま飾らずに言葉にしたつもりだ。カゴの中で懸命に輪を回すハムスターを眺めるような顔で見られても困ってしまう。


「何か変でした?」


「いやいや」


 真樹士はピーナッツを一粒つまみ、暗闇の森にそれっと投げ込んだ。濁った光がふわりとそれをよける。


「惜しい、よけやがった」


 次の一粒は口の中に放り込み、すぐに噛まずに口の中を転がしながら純の真っ直ぐな視線に向き直った。


「らしくていいよ。すごくいい。俺も俺らしく、単刀直入に言うぜ」


 真樹士はかりっとピーナッツを噛み砕き、再びグラスのビールを一気に喉に流し込んだ。


「あの女の子を見つけた時、おまえは何を思った? 純の素直な感想を聞きたい」


 あの女の子。先代の人の主が山で行方不明になり、そして真樹士の指揮で山に潜った山臥達が主の無惨な死体を発見し、同時に深い山にはあまりにも似合わない明るい色のパジャマ姿の少女を見つけたのは、今からちょうど一ヶ月前の出来事だ。


 純は真樹士からふっと視線を反らした。森に浮かび漂う不確かな光達を目で追いかけ、心の中で慎重に言葉を組み立ててから喋る。


「……ここにいてはいけない子だって感じました」


 純はグラスを傾け、緊張で乾き始めた口の中をビールで潤す。


 あの瞬間、純の心にじわりと染み出してきたのは極度の緊張感だった。そして、人の主の死と言う衝撃でもなく、場違いな少女への憐れみでもなく、早く彼女を隠さなければならないと言った苦い焦燥感が溢れ出た。思い出しただけでも口の中が乾く。慣れない酒で口を湿らし、あの時の森の凄惨な光景を脳裏に描き出す。


 人の身体を形作っていた肉がバラバラに散らばり、生暖かく鼻の穴に粘り付く臭いが立ち上り、足元はどろりとした血にぬかるんでいた。ヘッドセットの投影スクリーンのおかげで深い暗闇に沈んだ森も画像処理されて鮮明に見渡せた。


 一人の少女。血だまりに立ちすくむパジャマ姿の高校生くらいの少女。光が一粒もない深夜の森。人が立ち入ってはいけない聖なる山。ふもとの町まで数時間も歩かなければならない森に、泥一つついていない裸足のパジャマ姿の少女が立ち竦んでいた。


「……ここにいてはいけない? どういう意味でだ?」


 真樹士が新しい缶ビールを開けて先を促した。


「はい。こう、ここにいるべきではないって意味じゃなくて、早くここから連れ出さなくてはって意味で、ここにいてはいけない。……意味わかります?」


 真樹士はグラスに口をつけたまま森を漂う光を見つめていた。二つの光が対になってふわりふわり右へ、ふわりふわり左へ。


「……それで?」


「とりあえず彼女の名前がリンドウだとわかった。……今言えるのはそれだけです」


「リンドウ、か」


「身元は地元警察に問い合わせて確認できました。澤村リンドウ。彼女の名前です。捜索願が出されていたみたいで。でも彼女自身、自分が何者か理解できないみたいで。それと……」


 少し言い澱む純。また慣れないビールを喉に流し込む。


「死体は一人分ではなかったみたいです。数人分、いや、少なくとも、二人分の肉体。でも足りないパーツも相当あったみたいで、おそらく大型動物に捕食されたのではないかってのが警察の見解です」


 今度は真樹士が慎重に言葉を選ぶ番だった。頭の中に散らばるピースを組み合わせ、最もそれらしい形に組み上げる。


「おまえの感想は正しい。現状から導かれる真相はこうだ。オフレコだ。ゲンさんにも言うなよ」


 こくり、頷く純。


「事の始まりは今の段階ではまだ何とも言えない。しかしきっかけはヌシの寄り合いだ。ヌシの寄り合いでヒトのヌシと、何かが揉め事を起こした。そして、ヒトのヌシは殺された。ここまではすでに発生している事実だ。そしてここからは推測だ。ヒトと厄介事を起こしたのはどこのどいつだ?」


「揉め事って言っても、いったい何を揉めたんですか?」


 真樹士はグラスを持つ手で純の真っ直ぐな眼を指差して言う。


「考える順番が違うぜ、ジュン。何を揉めたのか、じゃない。何がヒトのヌシを食い殺したか、だ。そうすれば理由なんて自然と解る」


「大型動物。……熊?」


「普通ならな。だが違う。ここは神なる山だぜ。神の山のルールに則って考えれば容疑者は絞られるだろ」


 神の山のルール。純は首を傾げるしかなかった。そんな正直な彼のリアクションを楽しむように真樹士はもったいぶって話す。


「下位のヌシは上位のヌシに逆らえない。それが神の山のルールだ。熊のヌシは山の番人だ。ヒトが悪さしないよう、唯一ヒトが逆らえないヌシ様だ。他のヌシはヒトよりも下位だ。でも、ヒトのヌシは食われていた。解るか?」


 一気に捲し立てて真樹士はヒラメの刺身を口に放り込んだ。もぐもぐとやりながら純の返事を待つ。


「……わかりません」


「山でモノを食うってのは何を意味する?」


「命を譲り受ける事。その能力を獲得、……ああっ、そうか!」


 純は暗い森を仰いだ。両手で顔を覆い、もはやこの世にいない老人の顔を思い浮かべた。


 山でモノを食らう事。木の実を食い、虫を食い、魚を食い、鳥を食い、獣を食う。山から受け継いだ命を自らも継ぎ、その能力を戴く。木のように永く生き、虫のように儚く鳴き、魚のように清く泳ぎ、鳥のように早く飛び、獣のように強く走る。


「そう、ヒトのヌシを食った奴は、ヒトになりたかったんだよ。だからヒトを食った。さて、ヒトになりたい奴らは?」


「ヒトに似た形をしてヒト成らざる者。……猿だ。じゃあ、サルのヌシが?」


「物事は連鎖で考えろ。偶然は単独で起こらない。新たな偶然を引き連れて、必然となるんだ」


「連鎖で?」


 純はやはり首を傾げるしかなかった。ビールを煽り、ヒラメの刺身を楽しむ真樹士の次の言葉を待つ。真樹士はヒラメの刺身を一切れ箸でつまみ上げて純にすすめる。純は無言で顔を横に振った。真樹士は、じゃあ遠慮なく、とでも言うように刺身が盛り付けられた皿を自分の方へ引き寄せた。


「ヌシの寄り合いは御馳走が振舞われるものだ。そして死体は、少なくとも二人分。つまり、ヒトのヌシと別の死体は振舞われた御馳走だったんだよ。サルのヌシが要求したんだろうな」


「でも、下位のサルが上位のヒトを食うだなんて、そんな事は山の神が許さない」


「だから連鎖で考えるんだよ」


 真樹士は純の反論をばっさりと切り捨てた。


「山の神が山を裁定する立場にいられなかったとしたら? そう。だから、ヌシの寄り合いが必要だったんだ。そしてその場で、サルの奴がヒトを御馳走に要求し、ヒトのヌシはそれを止めようとし、逆にサルのヌシに殺された。もう八十歳だったもんな。ヌシとしては年を取り過ぎていたかもな」


 純は真樹士の言葉を細かく分解し、頭の中でもう一度組み立ててみた。余分なパーツも、足りないパーツもないように思える。山の掟に従えば、確かに真樹士の唱える説が最も筋の通る推理だ。


「それが事の発端だったのさ。山の神が何故山を裁く事ができなかったのか。それは今の段階では情報が足りな過ぎてわからないけどな。でも連鎖は続く。次だ」


「次って、サルのヌシがヒトに成れたかですか?」


「いい考え方だ。鋭いじゃないか」


 真樹士が最後の一切れのヒラメをぱくっと頬張った。


「今の所サルのヌシはサルのままだ。さて、サルはヒトになりたい。ヒトを食えばヒトに成れると思っている。そして、山の神はいない。さあ、何が起こる?」


「じゃあ、リンドウは……」


 純の口から出かかった言葉を真樹士が片手を振るって飲み込ませた。足音が近付いてくる。軽い足音。どの山臥達とも違う足音。向日葵だ。


「はーい、お二人さん。こんな所にいたの?」


 バルコニーの扉が開け放たれて、陽気な声が暗い森に染み込んだ。漂う光達がびくっと瞬いて揺れる。頬をほんのり赤く染めた向日葵は栗色の髪をかきあげて、背伸びをするようにして森の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そして真樹士の手元のグラスに気付き、それを奪い取ろうと細い手を伸ばす。


「おいおい、飲み過ぎじゃないのか」


 そう言う割りにはあっさりとグラスを受け渡す真樹士。


「わーお、ホタル! すっごい! さすがは山!」


 頬の色合い以上に酒が入っているのか、向日葵は抑揚のある声で舞台俳優さながら森を抱き締めるように両腕を広げた。ふと思いつき、上着のポケットからスマートフォンを取り出す。


「あ、ヒマワリ、やめとけ……」


「ヒマワリさん、待って……」


 真樹士と純が同時に声を上げたが、向日葵は二人の制止も聞かずに森を乱舞する光にスマホを向けた。


 フラッシュ。


 小さなシャッター音とともにびくっと固まる向日葵。


 浮遊する光は一度だけ瞬き、ふうっと森の奥底へと消えて行った。


「……」


 大きな眼をさらに大きく見開いた向日葵は動かない。動けない。


「あー、ヒマワリ。言ったろ。この山で生き物の写真は撮るなって」


「あー、うん、言ったっけ?」


 真樹士はゆっくりと立ち上がり、動けないでいる向日葵の手からスマホとグラスを引き取った。ぽんと彼女の肩に優しく手を起き、くるり、強制回れ右させる。


「もう寝ろ。そうだ、今夜は一緒に寝てやろうか?」


 純が側にいるのにも関わらず、真樹士は恥ずかし気もなくすらっと言ってのけた。


「あー、そのー、お願いします。悪い夢見そう」


 向日葵はそう呟くと、開けっ放しだった扉に足早に消えて行った。真樹士は肩をすくめてそれを見送り、彼女が置いていったスマホを覗く。思わずうわっと声が漏れる。


「すげえ。この画像、その手のテレビ番組に高く売れっかな?」


 真樹士は純に画面を向けた。恐る恐るそれを覗き込む純。


「明日から忙しいぞ。サルの奴がまだ山をうろついてやがる」


「狙いはリンドウですね」


「うん。サルがヒトの力を得て、山の上位のヒトと下位のサルとの立場がひっくり返ったら人類の文明社会はおしまいだ。気合い入れて行くぜ」


 ちらほらと、森に隠れた光達が舞い戻ってきた。純はスマホの画像を見て、真樹士と同じく、思わずうわあっと声を漏してしまった。


「これは、ヒマワリさん、今夜は眠れませんね」


 向日葵のスマホは、深い森に浮かび漂う幾つもの生首を写していた。宙を舞う生首は皆きっちりとカメラ目線で、その眼はぎらりとフラッシュの光を反射させていた。青白く沈んだ顔色でこちらを伺うように顔を傾けて、好奇心に満ちたニヤついた目線を向けている。


 真樹士はピーナッツを一粒つまみ取り、頼りなげに漂う鈍い光に投げ付けた。今度は光は避けなかった。ふっとピーナッツが闇にかき消え、ぽりぽりと噛み砕く音が小さく聞こえてくる。


 ふわりふわり、相変わらず幾つもの対をなした光が森に漂っていた。


 ふわり、ふわりと。

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