第24話

 純は深く息を吸い込み、そのまますぐには吐き捨てずに頬を膨らませたままスマートフォンの画面をじいっと見つめた。それをおもしろそうに脇から眺める猫又。ふと猫又の視線に気付き、純はスマホを彼女から隠すように耳元へ持って行き、ふうっと勢い良く息を吐き出して現治朗へ電話を繋げた。


「アタシもスマホ欲しいなあ」


 猫又の猫撫で声をあっさりと無視する純。山臥のヘッドセットを装備していれば、こんな細かい手順を踏まずに視線だけで山臥全員と通信する事ができた。しかし今はこのスマホしか通信手段がない。山のネットワークから自分だけが切り離されている孤独を感じた。


 話したい時に話すべき相手が見つからない。伝えなければならない事も伝えられない。今の自分はこの広大な山々の中にひとりぼっちなのだと痛感した。


「ゲンさん、早く」


 コール音を数えながら思わず呟く。


 猿の主は一体ではない。三体だ。山小屋で待機している向日葵を通じてそれは伝えている。だがその情報は遅かった。純を迎えに来た山臥達は二手に分かれ、二人は純の元へ、二人は山小屋の向日葵の元へ、それぞれ動き出していた。完全武装の山臥四人と猿の主一体ならば問題はなかったろうが、二人行動の山臥に対して、猿の主は三体。形勢はかなり不利だ。


「なんで出ないんだ?」


 コール音は十回を越えた。


「もう手後れなのかもね。どうする? どうする?」


 猫又はふわふわな猫耳をいじりながら純の肩を突いた。純は猫又を改めて見つめた。最初に出会った時の小柄な少女メイドの姿ではない。猫又本来の顔に近くなっている。鋭さを含んだ瞳は人間のそれでなく、純の肩を突ついた爪もナイフのように冷たく、エプロンドレスのスカートからふさふさとした尻尾が二本揺れている。


「ねえ、猫又様。力貸してくれます?」


 待ってましたと言わんばかりに、にやり、薄いピンクの唇から白い牙を覗かせる猫又。


「お礼にスマホの一番新しいのをプレゼントしてくれる?」


 あまりに突飛な要求に、二秒程言葉に詰まってしまう純。獣の主である妖怪が最新の情報端末なんて手に入れてどうするつもりか。


「……マキシさんが許可してくれたら、いいですよ」

 



 現治朗は頭上に気配を感じ取り足を止めた。


 木の枝がしなる音がかすかに響き、一枚の枯れた色合いの葉がひらひらと風に揺られて舞い落ちる。その葉の揺れる軌跡をたどるように頭上へ、そっと目線だけで見上げる。


 ヘッドセット越しに見える空は淡い緑色一色に染まり、肉眼では見えない暗い星までもがぽつぽつと光点として瞬いている。明度と彩度がデジタル処理された明るい星空が広がり、まるで星空を支えているかのような樹木達が視界いっぱいにその枝を伸ばしていた。


「タクヤ、木の上に何か見えるか?」


 吐息のような囁き。ヘッドセットが現治朗小声を拾い、増幅させて卓也の耳へ流した。


「何か見えたんすか?」


 しまりのない声が聞こえる。頭を包み込むヘッドセットの中でガムを噛んでいるのか、かすかな唾を飲む音が聞こえた。


「いや、何か聞こえた」


「俺には聞こえなかったっすよ」


 周囲を警戒する気配すら見せずに、現治朗の目の前にある仮想ディスプレイの卓也ポインタの移動速度がゼロになる。


「ちょっとこれ外します」


 卓也が鬼の面のような角が生えたヘッドセットを外した。ふうとわざとらしい溜め息をついて髪の乱れを整える。バックパックからペットボトルを取り出し、冷えた水を喉に流し込む。


 余裕のある振りをして見せているのか、それとも緊張感がないだけか。現治朗は先を歩く若者から視点を戻してヘッドセット内に転写された仮想ディスプレイを操作した。


 猿の主に乗っ取られた銀行強盗犯が持っていた携帯電話の電波信号は相変わらず向日葵のいる山小屋を狙ってゆっくり進んでいる。鉄兵と左太郎のポインタの移動速度を考えると、猿の主よりも早く山小屋に戻れるだろう。


 しかし、先程向日葵から伝えられた純の言葉も気になる。


 猿の主は三体いる。


 確かに今の山の不安定な状態ならば何が起こっても不思議はない。もしも純の言葉通りに主級の力を得た猿が三体いるとすれば、立場は完全に逆になる。今、狩られているのは自分達の方だ。


「ヒマワリさん、聞こえるかい?」


『ハイ、モニターしています』


 現治朗は向日葵の声を聞いて少し安堵の息をもらす。


「この辺りに異常を示す表示や数値はでていないか?」


 数秒、沈黙。


『ごめんなさい。どういうのが異常なのか、まだそこまでわかりません。私が見る限り特に変化はありません』


 もう一度星空を仰ぎ見る。


『マキシくんのポインタもまだ出て来ません』


 向日葵の言葉は正しいだろう。現治朗のヘッドセットの情報も何の変化もない。やはり主でないと主の存在を感知する事はできないのか。


「そうか、わかった。テツヘイとサタロウがもうすぐそちらに行くはずだ。気をつけてな」


『ハイ、あっ』


 向日葵の、あっ、と言う短い悲鳴とシンクロして、現治朗のヘッドセットの卓也のポインタが一瞬で大きく移動した。卓也の声か、何かが風を切る音か、鋭い空気の摩擦音が聞こえた。現治朗は視界を外界情報に戻す。ずいぶん先に行ってしまったろうが前方には卓也がいたはずだ。暗視効果で白い輪郭を持つ明るい森に卓也が立っているはずだっだ。


 そこに彼の姿はない。足元の草が揺れているだけだ。


「タクヤ?」


 現治朗は仮想ディスプレイの卓也のパラメータをピックアップした。サブディスプレイを呼び出し、卓也が装備するヘッドセットと同調させ彼が見ていた視界を展開させる。


 斜めに傾いた地面が見える。視界は動かない。音もない。かすかに草が揺れている。


「タクヤ! どうした?」


 卓也の視覚情報を巻き戻す。タクヤポインタが大きく振れたタイミングに時間軸を合わせ、どんな小さな数値的変化も見逃さないようスロー再生する。


 ヘッドセットを頭に装着しようとした瞬間、斜めに傾いだ視界を何か光る物が横切った。




 純は完全に獣と化した猫又の背に乗って森を疾走していた。猫又の本来の姿は巨大な純白の山猫だった。純が背にまたがっても足が地に届かず、大きく躍動するしなやかな筋肉は音も立てずに空気を切り裂き、草木を飛び越えて行く。暗い森を一枚の純白の絹がなびくように駆けて行く。


「猫又様、待った!」


 とびきり嫌な感じのする違和感を覚え、純は叫んだ。猫又は素直に足を止め、二股の尻尾で純の頭を撫でる。


「何よ、速すぎてビビってんの?」


 白い山猫が背に乗る純に言った。


「いえ、ここって、昼間に僕達が来ていた場所なんです」


「秋咲きの桜ね。きれいじゃないの」


 リンドウが見たがった秋咲きの桜。兼之が猿の主とヒタヒタに襲われた場所だ。


「桜の根本が、掘られている……」


 純を叫ばせた違和感はそれだった。桜の根本が大きくえぐられ、土が深く掘り起こされていた。そして大きな桶のようなものが掘り返され、中身をぶちまけてひっくり返されている。


「お墓、だったのかしら?」


「どうやらここに、侍の無縁仏が眠っていたようですね」


 兼之の言葉を思い出す。戦で傷付き、山の中で果てた名も知れぬ侍の墓には桜の樹が植えられる。春になれば濃い緑の山肌に桜色の樹がぽつんと目立ち、そこに侍が眠る事を覚えていてやれるからだ。


「お侍さんね。で、それがどうしたの?」


「墓を暴いた犯人は猿の主しか考えられません。何かを探していたのか」


「探すって、何を?」


 思わず猫又にしがみつく両手に力がこもる。


「……ヒトを倒すための武器ですよ」

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