第25話

 淡いグリーンの粒子で統一された柔らかい世界。ヘッドマウントディスプレイ内に構築された仮想視界に慣れていない向日葵のために余計な情報の一切をフェードアウトさせ、ワイヤーフレームで構成された簡素な視界が展開されている。


 単純なシステムでも、不意に視点を集中させたところがクローズアップされてしまい、慌ててまばたきクリックで前の画面に戻さなければならない。しかもリアルタイムで状況は変化している。画面情報はまばたきしている間に刻々と変容して、あまりに膨大な情報量は向日葵の脳の思考領域を確実に占拠していった。


 これが、マキシくんの言ってた仮想酔いなのかな?


 3D酔いと言う言葉があるのは知っていた。しかしフルフェイスタイプのヘッドマウントディスプレイが登場してからはその単語は仮想酔いと言い改められ、電脳技師達を悩ませる最先端の現代病と呼ばれるようになった。


 脳に与えられた視覚情報はあまりにリアルな描写のために技師の意識とは別のソースである脳自身がリアルとアンリアルの判断がつかなくなり、視覚情報に伴わない身体情報を補う為に視界に合わせて肉体も移動しているかのような錯覚に陥る。しかし実在の物理肉体はデスクに座ったまま1センチも移動していない。その脳内肉体が受けるであろう移動感覚を脳自身が勝手に再現し、初期症状として船酔いに近い目眩を感じ、あとは脳への負担として発熱、頭痛、嘔吐感、限界を超えた時点での意識不明状態のブラックアウトとなる。


 向日葵はHMDの視覚情報が更新されるたびに大きな波に弄ばれる小舟に乗っている気分を味わった。山臥達の視点になったかと思えば、ちょっとした視点クリックのミスでワイヤーフレームの山を駆け回る事になる。身体は動いていないはずなのに、目を瞑ればものゆったりとした速度で落下しているような錯覚を感じる。


「これはきっついわ」


 真樹士ポインタはまだ現れない。純の電波信号が尋常ではない速度で移動を始めたかと思うと、山臥長の現治朗と卓也のポインタが消滅した。謎の携帯番号の銀行強盗ポインタは、この山小屋のすぐ近くで鉄兵、左太郎ポインタと接触しようとしている。


 山小屋の中には向日葵と、屋根の見張り台に陣取った修司のポインタがある。いや、修司のポインタが座標を変えた。山小屋の外に移動している様子だ。


 情報量が多過ぎる。視界の隅っこの小さな数値でさえはっきりと見分けられるほど鮮明に網膜に焼き付いて来る。自分にとって重要度の少ない情報は精度を低めて脳自身の処理速度と能力を落とさないようにしている、いわゆるぼんやりとした状態とは違う。常にフル回転で強制的に集中させられているような状況だ。頭が熱い。


「マキシくん、早く帰ってきてよ」


『ヒマワリさん、聞こえるかい?』


 修司だ。修司ポインタの座標データが更新されていく。山小屋から離れて行く様子だ。


「ハイ、どうぞ」


『山臥の使っている口笛の合図が聞こえた。テツヘイの口笛だと思うが、動きはあるか?』


 まばたきクリックで銀行強盗犯の携帯信号ポインタ付近を拡大させる。鉄兵ポインタが右に迂回し、左太郎ポインタは左に大きく曲がり、二人で銀行強盗犯ポインタを挟み込む形をとっていた。


「銀行強盗犯のケータイポインタをもう少しで捕まえます。あ、動いた! 銀行強盗がサタロウさんのすぐ近くまで動きました!」


『……待った。こっちも動きありだ。何かがこっそりと来ているようだ』


 修司の声に緊張が含まれる。どうやら、純の言う通り敵の猿の主は数体いるらしい。向日葵は仮想視界の中心を山小屋にもってきて修司の動きを見つめた。修司は山臥のヘッドセットを装備していない。彼の視界や細かいデータは表示されていないが、携帯電話から位置情報は掴んでいる。ゆっくりと慎重に森に近付いているようだ。山小屋と森を隔てる小川の橋のたもとで膝立ちの姿勢をとったのか、少しだけ位置が低く表示された。


「気を付けてください。さっき、ゲンさんも何か音がするって言ってから、連絡が取れなくなっちゃっているの」


『山臥とは言え、主が相手となるとそう簡単に戦える相手ではないよ。きっと集中するために通信を切っているんだろう』


 ……だといいけれども。心の中で呟く。そして真樹士に聞いた言葉を思い出す。


 主は別格だ。どんなに鍛えようと、ヒトはヒトである事を超える事はできない。しかし、主はその種の長であり続けるため、成長の可能性は無限にある。山の神様が許す範囲で、強くなり続ける事ができる。


 その山の神に会いに行った真樹士も熊の主と共に不在状態だ。いったい、この山で最も強い存在は何者なのだろうか。


「テツヘイさんはじわじわ動いていますが、サタロウさんと銀行強盗ケータイは全然動きません。座標データはまったく変化なしです」


『わかった。ヒマワリさんはクマの助っ人にしっかり守ってもらうんだよ』


 ちらり、HMDをずらしてベッドのヒグマを見る。若いヒグマは呼ばれたのかと頭をもたげた。慌てて片手を振り、通じるはずもないのに違う違うとジェスチャーしてしまう向日葵。




 鉄兵はヘッドセットの暗視カメラの情報と向日葵が装備しているマスターシステムからの山臥達の相対位置情報を重ね合わせた。情報からはすぐ近くに左太郎と銀行強盗の皮を被った猿の主がいるはずだ。それなのに何の気配もない。左太郎からの通信もない。息遣いも、悲鳴もない。


 音を立てずに草を踏み、ヘッドセットとリンクしたライフルを構えて前進する。もうすでに猿の主にこちらの存在と装備は知られているだろう。かたや猿の主。かたや山臥。普通に考えたら勝ち目のある相手ではない。しかし相手が生き物である以上戦い方次第で倒す事も可能だ。こちらは真樹士によってもたらされた最新装備に身を包んでいるのだ。


 左太郎ポインタ、銀行強盗ポインタにまったく動く気配が見えない。座標データからはほぼ接敵していると見える。


 鉄兵は一気に動いた。化学繊維のヨロイは鉄兵の筋肉の伸縮を感じ取りそれを増幅させた。鉄兵はアクティブスーツの助けを借りてたった三歩で十数メートルの距離を跳躍し、木々の合間を飛んで、枯葉を散らして舞い立った。


「な、なんだ、これ?」


 そこにあったのは、脱ぎ捨てられた衣服と人の皮と、左太郎が装備していたはずのヘッドセットだけだった。

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