11.Update method and patch provision device

第23話

 ブラインドがかすれた音を立てて引き上げられ、夕焼けの陽の光が部屋の濁った暗闇を斜めに切り裂いた。まるで生き物の呼吸のような、両手ですくい取れそうな確かな暖かさだ。


「ふう」


 ずっと締め切っていた窓を開け放つ。きりっと澄んだ空気とどろっと澱んだ空気が混じり合い、かすかな風が生まれた。風は頬を撫で、前髪がさらりと揺れる。


 自称スーパーハッカー、アナイデンティファイドと名乗っていた男は、引きこもりをやめる決意を空と風と夕焼けの光に誓った。


 いったいどこから入り込んだのか、まるでテレポートしてきたかのように沸き出た大量の昆虫類や爬虫類をやっとの事で掃き出して、湿った土の臭いのする空気を入れ替える為に、何年振りになるだろうか、窓を開け放ったのだ。


 夕焼けの赤は、こんなオレンジ色した赤だったのか。いや、黄色い赤か。そもそも一色じゃない。どんなに目を凝らしても色の境目が見つけられず、視線で撫でているうちにいつのまにか色彩が波打って変化する。柔らかな空気が暖かい。風にあたる事がこんなにも心地いいものだったのか。


 主。そう、人の主。


 身の程もわきまえず主に挑んだ事がそもそもの誤りだったのか。


 ネットの世界では日毎に新たな技術が生み出され、速攻で伝説として語り継がれ、二十四時間後にはすっかり廃れている。やれ、四次元事象をエミュレートした新たな記憶テーブルが作られた。やれ、次の日、四次元エミュレータを活用してネットワークの防壁を多層構造化に成功させたエンジニアがネットを騒がせたと思えば、二十四分後にそれを破った人工知能が登場した。やれ、その人工知能の開発中に被験者である人工知能が観察者であるニンゲンをチェスに誘った。やれ、新たな人の主の候補者が、山と言う霊的な現象をデジタルの世界で再現し、大規模なサーバーを展開させて文字通り山を解析した。


 自分もそれに名を連ねる、つもりでいた。しかし蓋を開けてみれば、なんて事はないただの「その他大勢」にすぎない事がはっきりした。自分の能力に対する過剰評価からの自惚れ? そんな上品でキレイな言葉では表せない。もっと解りやすくストレートな言葉がある。無知。無能。いくらでもある。


 アナイデンティファイドと名乗っていた男は今日この日生まれ変わったのだと思った。初めてネットしたあの日と同じだ。コンピュータに電気を流し、小さなディスプレイが明滅したあの瞬間。自分は世界と繋がり、世界が自分に流れ込んだあの瞬間。


 何でもできる気がした。事実思うがままに何でもできた。自分のこの指先が世界をコントロールしているとさえ錯覚した。


 だが、叩き付けられた現実はどうだ? 自分は人の主の掌で踊らされていたに過ぎないのだ。何一つ、自分では達成できなかった。すべてシミュレートされ、コントロールされていた。何もできず、何をされたのか知る術もなく、哀れな悲鳴をあげただけだった。


「もう、ハッカーはやめるか」


 スーパーハッカー、アナイデンティファイドは今日をもって歴史から消える。もうネットは辞めよう。本日からは生まれたままの佐々木太一として、新しく生まれ変わるのだ。今日が、もう一度やってきた自分自身の誕生日だ。


「生まれ変わったんだ、俺は」


 夕焼けも祝福してくれている。


「……さてと」


 自然と手がパソコンに伸びる。


「明るい部屋もいいもんだな」


 パソコン再起動。即ネット接続。


「さっそく報告だ」


 いつものハッカー仲間が集う匿名掲示板へ。

 

 ニンゲン、そんなにあっさり生まれ変われるものではない。




 ここには昼も夜もない。明るくもなく、暗くもなく。太陽が昇る寸前の霞みがかった空のようで、太陽が沈んだ直後の生まれたての夕闇にようで。空一面がぼんやりと発光して足元の影が四方八方に薄く短く生えている。


 山のあちら側。実際の物理的な地形上では、座王山脈の向こうはいわゆる日本海側に通じる山々になっている。政府発行の地図でも太平洋側と日本海側を結ぶ国道のトンネルが何本も貫いている。


 だが、ここは道以外の場所を歩いて渡ろうとする事は霊的に不可能な山域だ。運がよければ山のあちら側にたどり着けるかもしれない。運が悪ければ、山のモノノケに化かされて獣道をひたすら歩かされるだけだろう。


 真樹士は熊の主と歩いて山を渡った。隣をのそのそと歩く毛色が黄金色に輝く大きな熊の揺れる肩に手を添え、独り言を呟くように熊の主に問いかけていた。


「ねえ、ヌシの寄り合いの時、先代のヒトのヌシとサルのヌシに何があったか、見てました?」


 熊は低く喉を鳴らして答える。


「見てないかー。今の状況から想像はできるけど、ウラがとれないんだ」


 熊が歩みを緩めて真樹士の方を覗き込む。


「え? ウラがとれるってのはー、えーと、説明が難しいよ。状況証拠って言っても意味わかんないでしょ? 聞かなかった事にして」


 また肩を揃えて山を歩く真樹士と熊。


「でもおかしいよな。もう山の神様に声かけられてもいいはずなのに、なんで姿を現さないんだ?」


 山のあちら側は時間の流れも違う。ぼんやりと薄明るい山を歩き始めてまだ数分も経っていないが、現世の山では真樹士と熊の主の存在が消えてからかなりの時間が経過しているはずだ。山のあちら側はとても緩やかに時間が流れ落ちる。


「やっぱり山の神様に何かあったから、山の秩序がおかしくなったのかな」


 熊が立ち止まり、前足で薄く発光する地面をほじくり返した。子供の頃、カブト虫の幼虫を探して掘り返した腐葉土の香りが思い起こされる。掘り返された土は黒くふかふかとしていて、なんとなく食べたらおいしそうな感じにも見える。


「これが? いい土じゃないですか」


 熊は軽く首を傾げて真樹士を見つめる。


「おかしいって、何が……、あっ。そうか、腐葉土ができる訳がないか」


 山のあちら側は見た目は下界とまったく変わりがない。しかしそこはすでにこちら側ではない。植物も形がそこにあるだけで成長もせず、花も咲かず、微生物すら存在しない。時間の流れも限り無く緩く、ほぼ静止した時間が立ち込めている世界のはずだ。こんな風に葉が落ち、腐り、微生物に分解され、土に返る事などあり得ない。しかし、いま熊が掘り起こした土は間違いなく腐葉土だ。森に時間が流れ、生き物が活動している証拠だ。


「で、クマのヌシ様としての考えを教えてくれません? 俺は山に入ってからいろんな事がありすぎて、まだ山の神様と交信してなかったんですよ」


 先を歩く真樹士を熊が追い掛ける。大きな身体を揺らして少しだけ真樹士の先に出て、短い首を捻るように振り返りながら喉を鳴らした。


「へいへい、すみません。確かに、ヒトのヌシ不在の期間が長過ぎました。サルが調子にのるのも仕方ないかもしれない。でも、俺にも俺の都合ってのがあったの。ヒマワリも結婚式を上げておきたいなんて言ってたし」


 真樹士の顔を覗き込む熊が少し甲高い声を上げる。


「でしょー? ありがとう。落ち着いたらヌシの寄り合いを開いてみんなにお披露目しようと思っていたよ」


 熊がまた足を止める。低く唸り、真樹士を呼び止めた。


「……そうか」


 真樹士は熊の主に向き直り、一つ頷いた。


「あり得るな。いや、きっとそうだ。なるほど、そう考えると山の異変も納得がいく」


 熊もどこか自慢気に真樹士に頷き返す。金色のたてがみがふわりと柔らかそうに揺れた。


「ヒトのヌシの代替わりと同じように、山の神も代替わりのタイミングだった」


 黄金色した熊が仔犬のような鳴き声で一回だけ吠えた。


「そうだよ。山の神が不在の時だからこそ、サルのヌシが好き勝手やってたんだ。でもそうすると、どうやって新しい山の神様を探そう? どこをほっつき歩いているかわからないぞ」


 熊が立ち上がった。両前足をだらりと垂らし、少し胸を張るように上体を反らせて大きく空気を吸い込む。


「わ、待って」


 真樹士が慌てて耳を塞いだ瞬間、森の木々が揺らぐ程の雄叫びが山々にこだました。耳を塞いでいても轟音が腹の底に響いて来る。熊の主が山を揺るがす雄叫びを終えるまで、真樹士は頭を抱えるように耳を塞いでうずくまるしかなかった。


 やがて重低音のボディーブローは止み、まだ耳鳴りがしんしんと残っているが、真樹士は立ち上がって太陽も月も星もない空を見上げた。熊の主もそれに習う。

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