第22話
純は避難小屋の出口で誰かに呼び止められた、気がした。
軽く鈴を振るったような甘くて苦い媚びた声。慎重に振り返ると、そこには誰もいない。いま自分がくぐった山小屋の扉があるだけだ。リンドウの声であるはずもない。
「誰かいるのか?」
純の低く抑えた声に、甘ったるい香りがする声が返事をした。耳に残り、心に溶け込むとろりと粘性のある舌ったらずな黄色い声。
「ジュンちゃん、ア・タ・シだよ」
今さっきまで誰もいなかったそこに、暗闇が佇む深い森には似つかわしくない姿があった。黒と白をベースとしたフリルのついたミニスカートのメイド服。髪は前髪をきっちり眉毛の所で切りそろえ、頭には猫の耳がぴんと立っていた。ぱっちりとした大きな吊り目の少女は唇を軽くすぼませるように笑い、片目を細く瞑り、招き猫のように片手を頬の側でくるりと丸める。
「……猫又、様? なんですか、その格好?」
獣の主、猫又は猫の耳を揺らしながら飛び跳ねて近付いて来た。
「マキシちゃんは気に入って大笑いしてくれたよ。どう、このエプロンドレス、かわいいでしょ」
ひょいとスカートの裾をつまんで、ぺこり、一礼する猫耳メイド。
「たぶん、それは違った意味で大笑いしたんじゃないですか、うちのヌシ様は」
「さあ? マキシちゃんのコーディネートだよ、コレ」
純は思わず額に手をやり溜め息をついてしまった。ただでさえ混乱しつつある場に、かなりめんどくさい主様のご登場だ。
猫又。二又に分かれた長い尻尾を持つ巨大な猫の妖怪。この獣達の主は厄介な事に人への変身能力を持っていた。
先代の人の主の頃から、猫又は人里に降りて来ては悪戯を繰り返していた。しかし真樹士が主候補として山に通い始めると、真樹士と言う新しい玩具を手に入れたからか、里に降りる事もなくなり奇天烈な衣装に身を包んでは山臥達をからかう事に熱中している、とんでもない気分屋だ。
だが、それでも獣の主だ。山では熊、人、猿の次の第四位の主であり、たかが山臥の純にとっては十分に畏怖すべき相手だ。
「残念ながら、僕とマキシさんとは好みが違うので、なんとも言えませんね」
くるり、少女の姿をした化け物に背を向けて森へ歩き出す純。
「あら、ざーんねん」
跳ねる足音が背後から近付いて来る。
「じゃあジュンちゃんはどんなのが好み? 変身したげるよ? 当ててみよっか? リンドウみたいなのが好みなんでしょ?」
「……リンドウに会っているんですか?」
純は足を止めた。彼が山でリンドウを保護して以来、リンドウは山臥達の山小屋に引きこもっていたのだ。猫又が彼女を知っているはずがない。
「あの小屋に置き去り? いいのー? カワイイ彼女にそんな事しちゃって」
純よりも頭一つ小さな猫耳メイド姿の猫又はとんとんと跳ねるように純の後ろをついて回った。しかし、純はその可憐な姿の裏に隠された畏怖を見抜いている。小さく華奢なその姿の影は、とてつもなく大きな猫の姿。隙を見せれば惑わされ、その妖しい魔力に捕われる。
「質問に答えてもらえますか? リンドウを見たんですか?」
純は歩きながら訊ねた。猫又は上目遣いに純を見つめ、猫耳が揺れる勢いで首を傾げた。
「悲劇のヒロインだよね、リンドウは。山のみんな知ってるよ。誰も見ていないけどね」
「見てないんですね。じゃあ、遊んでいる暇はないんで、また後にしてください」
「ぶー、つまんないの。まあいいわ、アタシは見学しとくよ。サルのヌシみたいな臭い奴と喧嘩するつもりないし、観ているだけでも面白そうだからね。ああ、それから……」
「まだ何かあるんですか?」
「マキシちゃんの赤ちゃんにもよろしくー。ヒマワリだっけ? サルの奴が狙っているから気を付けてねーって伝えて」
猫又の言葉が純の意識を強引に絡め取った。
「……猫又様、どこまで知っているんですか?」
振り返る純の目の前に立つ猫又は、先程よりも一回り大きく見えた。
「山のみんなが知っているよ。空飛ぶ生首が山のみんなに言いふらしていたし、サルのヌシがしてきた事はみんな見て来たからね」
猿の主がしてきた事。先代の人の主を食い殺し、山を我が物顔で歩き回る。その時、まだ真樹士は普通の人として街で暮らしていた。人の主が不在の時間、山で何が起こっていたのか、知らないのは人だけだ。
「サルのヌシがしてきた事って、奴の本当の狙いはなんなんですか?」
猫又がまた一回り大きく、そしてその姿の輪郭が鋭くなった。
「ヒトになりたいんじゃない? それより、アタシは興味ないけれどもね、いい事教えてあげるよ」
「……何ですか?」
猫又の白い手袋をはめた手が純の頬を撫でる。その肌が切れるような冷たさに、ぞくり、総毛立つ。
「サルに食べられちゃったヒトって、一人じゃないんでしょ?」
純は発見者として警察の調書を作成する時に見せられた遺体の写真を思い出した。食い散らかされてバラバラになった人のパーツ。確かに人間一人分ではなかった。
「それだけのヒトの肉の量を一匹のサルで喰らい尽くせると思う?」
「……一匹、の?」
純は自分の腕を見つめた。包帯の下、猿の主に握られただけで皮膚が破かれた傷が、今でもじんじんと染みるように痛む。
「まさか?」
「まさか、ね?」
「ヒマワリさん、聞こえますか?」
純はスマートフォンに挿したイヤフォンのスイッチを押して向日葵と通信した。すぐに向日葵の声が響き少しだけ安堵の息が漏れる。
「はい、聞こえますよ」
「ヒマワリさん、至急調べてもらいたい事があります。全員の位置情報に変化はないですか? 特に、銀行強盗の携帯電波ポインタの位置は?」
『今ね、ゲンさんからの提案で別行動をとっているの』
「別行動って?」
『うん。テツヘイさんとサタロウさんがこっちに、私のいる山小屋ね、こっちに向かっているの。ゲンさんとタクヤくんがジュンくんとリンドウちゃんの救出に向かっている。例の謎の携帯電波ポインタは、ゆっくりとだけど山小屋に向かって来ている。でもたぶん、テツヘイさんとサタロウさんの方が速いと思うけど』
真樹士は山の神に会うために山のあちら側に渡っている。山に存在していない状態だ。人の主の不在の時間、そして山で最強の熊の主もいない。ならば、現在の山において絶対的上位に立っているのは猿の主だ。
「あーあ」
猫又が大袈裟に笑って見せた。ピンクの唇の隙間から鋭い牙が覗く。
「サルごときにからかわれちゃってさ。ヒトのヌシ様ってその程度なの?」
「教えてくれ、猫又様。サルのヌシは、何体いる?」
「……三匹よ」
猫耳メイドの瞳がくっと細く光る。ナイフで裂いたような縦長の瞳の真っ直ぐな視線が純に突き刺さる。
「それもヒトを喰らっている奴らだから、相当にヤバいわね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます