第27話

 少し前の現治朗の記憶。


 グリーンに淡く輝く世界。暗視効果によって世界の闇は切り払われ、肉眼では見えない星も異様な数で空を覆い尽くしている。


 卓也との交信が途絶え、彼のヘッドセットが記録し続けている視界情報を呼び出しても地面に転がり横たわったままなのか、カメラの前の草が風に揺れる様子しか見てとれない。


 どうすればいい?


 先代の人の主が消息不明の事態に陥った時もそうだった。何をすべきかまるで解らなかった。遡れば、山臥になって以来自らが選択して起こした行動はあったか。そうだ。主の存在に比べ、なんと自分は小さな人間なのか。


 何もできない。真樹士がいなければ自分達山臥は何もできない。山の秩序が崩れてしまえば、人も虫も序列は何の意味も成さなくなる。一つの命として同等に扱われてしまう。ここは人が平穏に暮らす場所ではない。山なのだ。主が命の行く末すら支配する世界なのだ。


 迫り来る人間の指先があまりに巨大過ぎて、逃げる事も抵抗する事も放棄してしまう小さな虫のように、目の前にいるであろう猿の主に対して身体を動かせず、ただ考える事しかできない。


 どうすればいい?


 山臥の長などと言えど、単に一番歳を食っていただけだ。人の主の候補であった真樹士や純とは比べ物にならないくらい自分は普通の人間だったか。


 きらり。何かが一閃。視界が傾く。




 純は風を切って走る猫又の大きな背から飛び降りた。しんと静まり返った森の奥底。真樹士の指示では、この辺りに現治朗と卓也がいるはずだ。


「猫又様は思うように行動してかまいません。僕も僕のやりたいようにやっていいって、マキシさんの許可がでていますから」


 草むらに紛れるように低く伏せる純。生い茂る草は純を覆い隠すには十分に背が高く、純は湿った土の匂いをかぎながら息を潜めた。かすかに鉄の臭いが空気に混じっている。


「ジュンちゃんを助けなくっていいの?」


 猫又も低く構え、音もなく純の側に伏せた。


「助けてもらうほど弱くはないつもりです」


 純は右手を腰に、左手をブーツに、二本のナイフを逆手に引き抜いた。暗闇の中、じっと身体を動かさず、呼吸を止め、目の前に存在する邪悪な気配を真っ直ぐに見据える。


「そこにいるね」


 猫又がかすかな声で囁いた。身体の小さな少女の形に姿を戻し、片膝立ちで純の後ろに隠れるように伏せている。純は頷くだけでそれに返し、ただじっと静かに構え続けた。


 野生のニホンザルならば何の問題もない。何匹束になってかかってこようが山臥として鍛えられた人の敵ではない。しかし、最新装備で武装した二人の山臥が沈黙させられているのだ。もはやそれは普通の猿ではない。山の変調により主に近い存在と化したサルの化け物だ。純が手にした武器は二本のアウトドアナイフのみ。頼りない小さな刃物が二本、たったこれだけで、山の化け物と一戦を交えなければならない。


 ふわり、わずかに風が舞う。


 純は鋭く息を吐き、二本のナイフを立てて突き出した。その途端に飛び散る火花とともに硬質の金属音が森に突き刺さり、純の目の前の草が真一文字に薙ぎ払われた。純のナイフが受け止めたものは、深い暗闇の中でもぎらりと光を放つ日本刀だった。


「真正面じゃなければ、あるいは奇襲成功だったかも」


 日本刀を振り抜こうともがく影を純は強く睨み付けた。そこには異形の猿がいた。その身体は異様に背が高く、全身が短い毛で覆われていて、手足も人のそれのようにひょろ長く、まるで手足の関節が外れた痩せた人間が前屈みになって立っているようだった。二本の長い足で森を踏み締め、錆び一つ浮いていない日本刀をぎこちなく構える腕にもしっかりと筋肉が付いている。


 人の形をした猿は真っ赤に充血した目で純を真正面から睨み返し、二の太刀を振るおうとゆっくり刀を引いた。しかしその隙を見逃すほど純は甘くない。低く構えた姿勢のまま身体を前に突き出し、刀と接した二本のナイフを離させはしなかった。


 人の形をした猿が甲高く叫ぶ。純のナイフをどうしても引き離せない。二本のナイフと猿の刀はお互いが磁石のように重なりあったまま離れず、猿が身を引く分だけ純が前に踏み込み、二人の間合いはさらに詰め寄られていく。


「サルのくせに武器を使った点は評価しますよ、ヌシもどき様」


 純がさらに一歩踏み込む。猿は背後に飛ぶように退いたが、純の踏み込みはそれ以上に深かった。お互いの身体がもはやくっつくほど接近していた。刀を引き戻そうにも純のナイフが付いて来る。上へ、左右へ、刀をいくら振り回しても純のナイフが刀を抑えて食らい付いてくる。


「でも、いかんせん経験不足ですね。まるでなっていません」


 間合いを詰める純の両腕が開く。左腕のナイフで刀を押さえ付けたまま、右手のナイフが刀身を流れて刀を構える猿の手に迫る。闇を裂くように白く火花を撒いてナイフの刃が猿の手に触れる。猿は刀を手放すしかなかった。


 猿は日本刀を純に押し付けるようにして手を離した。同時に大地を強く蹴り、手近な樹に飛び付いてしがみつく。


「そうせざるを得ませんよね」


 刀に押し付けていたナイフをくるりと捻る。宙を舞った日本刀は円を描くように純の目の前でひるがえり、その手で日本刀をがっしりと捕まえた。


 猿はいったん体勢を整えるため樹に登ろうと視線を純から外した。あの長い刀の間合いから離れ、人間が登る事ができない高いところまで逃げれば、もう山臥は追って来る事はできないだろう。猿は飛び移る枝を探した。


 その視線の先に純が投げ放ったナイフが鋭い角度で突き立つ。


 行く手を阻まれた猿はもう一度純に視線を戻そうと振り向いたが、猿が見たのは上段に刀を振りかぶり大きく跳んだ純の足だけだった。猿は慌てて頭上を見上げた。純は猿よりも高い位置にいた。純は樹の幹を足場に垂直に飛び上がり、驚いて動けないでいる猿に刀を打ちおろした。


 堅いゴムを打ち付けたような弾力のある手応えの中に、竹を割ったような音が聞き取れた。骨が割れ砕けた音だ。


「峰打ちです」


 着地した純のすぐ足元にぼとりと落ちる猿の身体。口から泡を吹き、苦し気に顔を歪ませて立ち上がる事さえできない。純は刀を返し、呻き声を上げる人の形をした猿の鼻先に突き付けた。


「サルのヌシの本体じゃなさそうだね。思っていたより身体はでかいけど」


 ふうと軽く息を整える。もはやこの猿に戦う意志はなさそうだ。長い手足を縮こめて地面にうずくまり、怯えた眼で純を見上げている。


「あの桜の根本が掘り返されているのを見つけてなかったら僕もヤバかったよ。まさか猿が日本刀で襲い掛かって来るだなんてな」


 くるり、手首を返して日本刀を地面に突き立てる。そこへ足を乗せ、一気に踏み込んで柄まで地中に突き刺して埋めた。


「行きなよ。次は許さないからな」


 おどおどと何度も振り返りながら森の奥深くへと消える人の形をした猿。その小さな背中を見送る。


「ずいぶんお優しい事」


 メイド姿の猫又が純の背後に現れた。純はナイフを腰に戻して、頭をぽりぽりとかく。


「あれはもうただのサルです。二度と僕に逆らえないようきつく躾けました」


「お仲間の山臥が二体、あっちに転がっていたけど、それでもそんな事言えるの?」


 純は静かに頷いた。頷くしかなかった。


「わかっています。それとこれとは別の話です。あいつはヒトにもサルのヌシにもなれなかった奴です」


「別にいいけどね。ヒトとサルがどう喧嘩しようがアタシの知った事じゃないし」


「それに今はヒマワリさんの身の安全が第一です」


「どうぞご自由に」


 つまらなそうにぷいとそっぽを向く猫又に、純は頭を下げて言う。


「ねえ、猫又様。お願いがあるんですけど」


「なにかしら?」


「ゲンさんとタクヤ、獣達であの二人をリンドウの隠れている小屋まで運んでもらえませんか?」


 猫又は少し考えるように首を捻った。


「リンドウはどうするの? 置いてけぼり?」


「最初から誰もリンドウの事を狙っていなかったんです。さっきマキシさんと話しました。リンドウはすでに死んでいるんだし。彼女はもう大丈夫です」


 もう純は迷いの表情を見せなかった。

 

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