第28話

 ひた。

 

 扉の向こう、廊下の奥でかすかに柔らかい音がした。音を立てないよう気配を殺した音。もしも向日葵がヘッドマウントディスプレイを身に付けていたら聞き逃していたかも知れない小さな音。森で妖怪ヒタヒタに遭遇していなかったら気付かなかったかも知れない恐ろしい音。


 ベッドで小さく丸まっていた向日葵は、ぴくりと半身を起こして扉に顔を向けた。向日葵のガード役の若いヒグマも先程からずっと扉を睨み付けている。


「……やっぱり、誰かいるの?」


 クマは低く唸って返事をした。


 暗い部屋に明かりを灯すディスプレイを見つめる。真樹士を表すポインタがものすごい勢いでこちらに近付いて来ているが、まだ山小屋にたどり着くには時間がかかりそうだ。同じく修治と鉄兵も山小屋に向かっているように見える。少し離れた場所に左太郎と銀行強盗のポインタがある。こちらは依然として動きを見せていない。


「ジュンくん、かな?」


 クマの唸り声の語尾が上がる。


「違う?」


 HMDを手に取り真樹士の声を聞こうとした時、再び扉の向こうで静かな音がした。今度は気配を消した音ではない。明らかに扉の中の様子を探ろうとした音だった。


 そして扉が、とん、とん、と嫌にゆっくりとノックされた。びくんと身体を震わせる向日葵。


「……誰?」


 今、この山小屋にいるのは向日葵だけだ。解りきっている事だが、つい声に出てしまう。


「誰かいるの?」


 返事はなかった。扉のノックも繰り返されない。静まり返った山小屋の中、向日葵は自分自身の呼吸音がうるさく感じられた。ヒグマも唸り声を止めない。間違いなく、何者かが扉の向こうに潜んでいるはずだ。でも、誰が?


「……ヒマワリ、いるんだろ?」


 抑揚のない小さな声がした。感情が含まれない重たい言葉が聞こえた。


「サタロウさん?」


 左太郎の声だ。怪談話をするそのままの、穏やかで波のない声をさらに投げかけてくる。


「……サルが来る。ここは危ない。出てきて、外に逃げよう」


 向日葵はなるだけ音を立てないようベッドから降りてディスプレイを覗き込んだ。画面にそっと指を這わせて、左太郎のポインタをクリックする。左太郎を示す座標にまったく動きは見られない。生きているのか、生きていないのか。動きを止めたその位置のままだ。何らかの操作をすれば心拍数など彼の生体データも出せるのだろうが、その操作はまだ真樹士から教わっていない。


「……サタロウさん? 森の中にいるはずなのに、なんでここにいるんですか?」


 ヒグマは唸り続けている。向日葵はヒグマの肩に手を置いてもう一度扉の向こうに声をかけた。


「マキシくんは何て言ってたんですか?」


 返事はない。しかし重々しい気配が扉を押しているように感じる。


「……全部、森に置いて来たんだ。……だから、誰にも気付かれずに来れた。……早く、ここから出よう」


 左太郎の声は続ける。


「そこにクマがいるんだろう? ……クマをどけて、さあ、ここを開けて」


 もう一度ディスプレイを見つめる。真樹士も修治も鉄兵もまだ数分はかかるだろう位置にいる。


「……窓から離れて、窓からサルが入って来るから」


 がちゃっ。扉のノブが捻られる。鍵はかけていたが、所詮は木製の扉に付けられた小さな鍵だ。その気になれば蹴りの一つで破られる。


「クマくん、外の人はサタロウさん? それともサルのヌシ?」


 ジュンの言葉を思い出す。猿は人の皮を被り、人に化けた。銀行強盗の皮を被っていたように左太郎の皮を被っているのか。それとも、本当に左太郎が装備を置いて向日葵を助けに来たのか。


 ヒグマは背中の毛を逆立てて唸り声を強くした。向日葵はヒグマの背中を撫でる。一つ深く息を吐き、ゆっくりと胸に新しい空気を吸い込む。


「ヒグマくん、もしもの時は頼むよ」


 一歩、二歩、扉から離れる。


「ねえ、サタロウさん。『牛の首』の話をして」


「……」


「こんな時に何言ってんだって思うかも知れないけど、サタロウさんなら意味解るよね、『牛の首』の話」


 怪談話『牛の首』には独自のルールがある。向日葵は思い出した。左太郎ならばどんな状況であろうとそのルールに従うはずだ。


「……」


「『牛の首』の話をしてくれたらすぐ部屋を出るから。私の言っている事、わかるよね」


「……」


「話してくれないなら、マキシくんが来るまで私はここを動かない」


「……。いまはそんな『ウシノクビ』の話なんて……」


「ヒグマくん、やっつけて!」


 向日葵は叫んだ。その叫びを合図にヒグマは立ち上がり、ありったけの力を込めて扉の向こうに立つ気配に爪を振り下ろした。クマの太い前足によって驚くほどあっけなく扉は引き裂かれた。木片が散らばる軽い音が部屋に響き、扉の裂け目から一人の人間の顔がわずかに見えた。


 その顔は左太郎のものに見えたが、左太郎ではあり得ないようにも見えた。


 ヒグマはその扉の向こうの顔にもう片方の爪を突き出した。左太郎の形をしたそれは両腕でヒグマの前足の打撃を防いだ。がっしりと二本の腕で掴み取り、ヒグマの爪は左太郎の形をした顔の鼻先でぴたりと止まる。


「……ひどいなあ、ヒマワリ。せっかく助けに来たと言うのに……」


 左太郎の形をしたそれはゆっくりと言葉を使った。充血した真っ赤な眼で向日葵を真正面に見据える。それはやはり向日葵が知っている左太郎の眼ではあり得なかった。鍛えられた山臥と言えど、ヒグマと力比べをして平気な顔をしていられるはずがない。


「……なんなのよ、いったい」


 向日葵は背中が窓枠に触れて、自分が無意識に後ずさっていた事に気が付いた。足が細かく震えている。


 次の瞬間、向日葵の耳元で激しく堅い音が響き、窓ガラスが弾け飛んだ。ガラス片が頭に降り掛かり、同時に冷たい夜の空気が向日葵の髪をさらった。厚い遮光カーテンが突き破いて、背後から向日葵の視界に二本の腕が伸びる。


 捕まる。


 恐怖で心が一瞬にして凍り付いてしまった。悲鳴も出ない。背後から伸びる腕がゆっくりと動いて見える。掌がこちらを向き、爪を立てて迫って来る。向日葵は呼吸すらままならず、それを見つめる事しかできなかった。


「ヒマワリさんっ! しゃがんで!」


 誰かの声が向日葵の耳に届く。とっさに彼女はその声に従う事ができた。震える膝を折りその場にぺたりと尻餅をつく。その途端に幾つもの人の形をしたものが砕け散った窓枠とともに室内に雪崩こんできた。


 窓から部屋に転がり込んできた幾つもの人影。向日葵には目の前の光景が現実のものなのか、それとも実は夢を見ているだけなのか、理解不能だった。


 ヒグマが引き裂いた扉を挟んで左太郎の形をしたモノと対峙している。窓を破って飛び込んできた人影は三体。一人はかなり背の高い痩せた男で、見覚えはまったくない。もう一人は場違いなメイド姿をした小柄な少女。猫のような吊り目に、耳も猫耳。そして、この部屋で唯一の知っている顔、純の顔を見つける事ができた。


「ジュンくん!」


 思わず悲鳴のような声で叫んでしまう。


「猫又様、ヒマワリさんを守って!」


 純が跳んだ。立ち上がろうとした銀行強盗の膝にかかとを落とし込む。それでまず長身の男の動きを封じた。純の全体重が男の膝にのしかかり、立ち上がる事ができずにバランスを崩してよろめいた。


 純は飛び込んだ勢いをそのまま活かして、腰の捻りを加えた膝の一撃を長身の男の顎に叩き付けた。


 肉が潰れて裂ける音を口からこぼして長身の男は後方に吹き飛んだ。それでも純の身体の勢いはまだ消えない。振り上げた足で再び床を蹴り宙に舞う。身体を捻り、空中で前方へ一回転する。着地の寸前にぐいと膝を伸ばし、倒れ込んだ長身の男の腹部に全体重を乗せたかかとをめり込ませた。


「ヒグマ、そこをどいて!」


 純は身体を前転させ、言われた通りに身を屈めたヒグマの背中を踏み台にして大きく飛び上がった。真下には真っ赤に充血させた眼を見開いた左太郎だったモノがいる。


 右脚の蹴りで動けずにいた左太郎だったモノの頭を薙ぎ払う。髪の毛を振り乱し、そいつは廊下の端まで転がって行った。


「今度こそ本物のサルのヌシ様ですね?」


 着地した純はかかとを上げてステップを踏み、両腕を軽く曲げて拳を相手に見せつけるようにゆらゆらと揺らしながら、倒れた左太郎だったモノに言葉を投げかけた。


「ヒトのヌシ様からの命令で、ヌシ殺しの禁を犯させていただきます」


 じりっと、一歩近付く。


 左太郎の皮を被った猿の主はまだ廊下に這いつくばったまま動かないでいた。純はほんの少しだけ猿の主から視線を外して部屋の中を見やった。


 尻餅をついたまま動けない向日葵の側にメイド姿の猫又がいる。ヒグマはずんぐりとした身体を起こして天井を見上げていた。倒しておいたもう一匹の長身の男の姿がない。


「猫又様、もう一匹は?」


「逃げたわ。天井を破って」


 猫又が天井を指差す。そこには何かが突き破った大穴が開いていて、紫色の夜空が見えた。ヒグマが後ろ足で立ち上がり天井の穴に向かって大きく吠えた。


 まだ動けるとは。踏み込みが浅かったか。純は舌打ちを一つして左太郎だったモノに視線を戻そうとした。その瞬間、何かが飛び上がる。純の一瞬の隙をついて立ち上がった左太郎だったモノだ。一気に天井を突き破り、破片をまき散らして姿を消した。


「……しまった」


 天井を足音が駆けて行く。純はその音を追ったが、音が遠ざかるのが速過ぎた。すぐにまた何かを突き破る音が低く響き、やがて何も聞こえなくなった。


 廊下の突き当たりの窓を開け放ち、夜の闇に沈んだ森に目を凝らす。しかし暗視装置もなしに、森の闇に溶け込んだ野生動物を見つける事は不可能だ。完全に逃げられたか。


 と、その代わり、純は夜空を舞う巨大な鳥の姿を見つけた。闇夜に飛ぶはずのない大きな鳶だ。その脚に何かをぶら下げている。


「マキシさん!」


 鳥の主に運ばれて来た真樹士だ。真樹士はバルコニーに舞い下りると、すぐさま大声で指示を飛ばした。


「遅れてすまない、純。すぐに完全装備だ!」


「はい!」


 次にヘッドセットから山臥達に声をかける。


「テツヘイさん、車の用意を。ヒマワリを町におろす。シュウジさんは猫又とトリのヌシと一緒に、みんなを避難小屋に頼む。みんなを、頼むよ」


 重いヘッドセットを脱ぎ去り、汗でへばりついた前髪をかきあげながら真樹士は向日葵のいる寝室に向かった。途中、廊下の天井の大穴を見つける。大きく破かれて冷たい夜の風が吹き込んでいた。


「あーあ、人んちに大穴開けやがって」


 ぶつぶつ呟いて、ひょいと寝室を覗き込む。荒れた室内にヒグマが申し訳なさそうに小さく伏せていた。メイド姿の猫又はベッドに横たわって片肘をついてニヤニヤとしている。向日葵はまだ窓の下で尻餅をついたままの姿だった。


「あ、マキシくんだ」


 やっと声が出た。


「ごめんな、ヒマワリ。ちょっと遅かったな。怖かったか?」


 真樹士は尻餅をついたままの向日葵の側に座った。彼女の髪をくしゃくしゃと撫で付け、普段通り遊びに誘うような柔らかい声をかけてやった。


「大丈夫。いろいろあったけど、もう終わったよ」


「あらあら、サルのヌシ達は逃げちゃったよ。それでも終わり?」


 猫又がケラケラと笑いながら二人に水を差した。


「うるさいな。サルのヌシが三匹もいるとは、ちょっと想像以上だったけど、もうチェックメイトだ。あとは俺のシナリオ通りにしか進まないよ」


 向日葵が涙ぐんだ眼で真樹士を見上げた。


「わかった。マキシくんがそう言うのなら、もう終わりだね。私はあと何をしたらいい?」


「何もしなくていい。俺が奴らを思い切りへこましてやるから」

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