第14話
強情な二枚貝のようにまぶたを堅く閉ざす。しかしそれで視界が完全に暗闇で埋め尽くされる事はない。陽の光がまぶたを透かして網膜をかすかに照らす。
やがてちかちかと幾何学模様のようなパターンが粗い解像度で現れる。閉ざされたまぶたの中で焦点を合わせようとしてもするりと逃げられ、ぼんやりとしたフォーカスで幾何学模様はじわじわとスクロールし始める。
スマートフォンのノイズの向こう側に真樹士の呼吸を感じる。すぐ近くで現治朗が地に落ちた枯れ枝を踏み折る音がする。そして、ヒタヒタとか言うモノノケ。落ち葉が積もる柔らかい土の上を、濡れた足音を立てて向日葵の背後をうろうろとしている。
なるほど。真樹士の言う通りだ。
この妖怪は人を怖がらせる音を立てるだけで、決して目の前に姿を現さない臆病者だ。
だからと言って……。
「マキシくん、やっぱ、怖いわ」
『そりゃ怖いよ。昔話に登場するレベルのモノノケだからな』
何か言葉を話していないとヒタヒタの発する音に取り込まれてしまいそうだ。そいつは今まさに向日葵の背後を右へ左へ、粘性の高い液体をスプーンですくって投げ飛ばすような音を立てている。風邪を引いた大きな犬がノドを鳴らしているような呼吸音を漂わせている。
恐怖。
自分の命が何者かによって奪われるかもしれない。思えば、そんな真っ黒い圧迫感に襲われるなんて生まれて初めての体験だ。自分よりも大きな生き物が、今にも喰らいかかろうと吐息がかかる程に接近している。息を飲み込むのさえ、冷た過ぎる水を流し込まれたように喉が締まる。
目を閉じたまま、振り返り、このバケモノに触れる。その気になれば二秒とかからない単純な作業だ。だが、そんな二秒間さえ身体を自由に動かす事ができない程に恐怖が心を束縛している。
人の想像力のなんて豊かな事か。向日葵は思い知った。
たかがこんな小さな不快音が、目をつぶったまま背後を振り返ると言う簡単な動作さえもできない程の恐ろしい妄想を脳裏に描き出してしまう。耳にまとわりつく音から恐怖を全身に浸透させて脚を震わせ、脳内に虚像を作り出し、自らの妄想に押し潰されてしまう。すべて、自分自身の想像力の仕業だ。
そう思えば、向日葵の脚の震えが少し緩くなった。結局のところすべての起因は自分自身ではないか。怖い怖いと思う心がさらに恐さを膨らませ、その膨張が心の隙間を埋め尽くして理性的に考える余力すら追い出してしまう。はち切れんばかりに膨れ上がった心ではもはやまともな判断などできやしない。まさしく、幽霊の正体見たり枯れ尾花、か。
「ね、マキシくん」
『ん? なに?』
朝食のテーブルで広げた新聞の向こう側から聞こえてくるみたいな、わざとらしく、しかし穏やかで暖かみを持った声。その暖かさに触れ、向日葵の心の中で何かが吹っ切れた。
「なんか、私、ムカついてきた」
『なんで?』
「濡れた靴下で廊下を歩き回るような奴に、何で私がこんなにビビらなきゃなんないのよ?」
声にリズムが生まれる。そうだ。怖かったら恐怖を溜め込まずに吐き出せばいい。声にして胸から外へばらまいてしまえばいい。暗い夜道、バカみたいに歌を歌って帰るように。
「そうよ。なんでこの私がビビらなきゃならない訳さ?」
『あ、いやー、そんな事俺に言われても、ねえ?』
「目をつぶったまま、コイツに触っちゃえばいいのよね?」
『うん。ヒタヒタは自分を畏れない奴にはからきし弱い、町のチンピラみたいな奴だからな』
向日葵は利き腕の右手に持っていたスマホを左手に持ち変えた。真樹士に話しかけていくうちに恐怖に縛られて強張った心がほぐれて緩む。凍てついた気持ちが溶けて柔らかく弾む。
「殴っちゃだめ?」
右手を開いて閉じてにぎにぎとし、きゅっと小さな拳を作り上げる。
『あー、いやー、聞いた事ないけど、いいんじゃね?』
「ありがと」
ふう、と胸の中に溜まった最後の恐怖のかけらを大きく吐き捨てる。モノノケは今まさに向日葵の後頭部辺りで舌舐めずりをするような、みずみずしい果物を口をすぼめてすすり食べるような音を立てている。
いい子だから、動くなよ、ヒタヒタちゃん。
向日葵の心は決まった。
落ち葉の上、向日葵は大きく一歩踏み込んだ。かさりと乾いた音が森の静寂に吸い込まれる。踏み出した右脚に体重を乗せ、膝を少しだけ曲げる。左脚の太腿をやや前傾姿勢の胸につけるまで振り上げる。くるり、勢いよく振り返る。堅く閉ざした瞼に太陽のまぶしさが突き刺さり、そこにいるであろう影の朧げな輪郭を描き出す。
そこにいるのね。
振り上げた左脚で強く踏み込む。がさっと落ち葉が蹴り飛ばされる音。森の土の柔らかく弾むような感触。胸を張って反り返った上半身で、矢を射るように真っ直ぐに、振りかざした右腕で打つべし。
生暖かいぬるま湯で膨らませた水風船に触れたような、ぴんと張りのある膜に握り拳が包み込まれる。その途端、ぱちんとシャボン玉が耳元で破けるようなかすかな音が聞こえ、拳にまとわりつく生温い感触が消え失せた。
それと同時に心の中に清々しい風が吹いた。重苦しく真っ黒だった思考が太陽の光に照らされたようにオレンジ色に溢れてくる。窓辺で丸くなってひなたぼっこしている猫のようなあったかい匂いがした。
向日葵はしばらく右ストレートを打ち込んだ姿勢を崩さなかった。心地よい余韻を十分に楽しんだ後、ぱちっと目を開ける。ついさっきまでと同じく、明るい森の小径が山に続いているだけで、恐怖の素となった怪しい物音の気配はどこにもなかった。
一足先にヒタヒタの呪縛を打ち破り、じっと向日葵を見守っていた現治朗と視線がぶつかった。にこっと、握り拳を解いてピースサインと笑顔を作る向日葵。
現治朗はゆっくり頷いて、ふと思った。
なるほど。ヒトのヌシ様がパートナーとして選ぶだけの事はあるな。
真樹士はスマホをテーブルに置くと、すっかり温くなったお茶を一気に煽った。
「どうなったんですか?」
山脇が真樹士の言葉を待たずに聞いた。
「なんか、やばそうな雰囲気でしたけど」
「うん、とりあえずの危機は回避できた。ただ、山が異常な事態に陥っているってのは決定的だ」
真樹士は湯飲みをテーブルに戻して立ち上がり、駐在所の窓から山の方を見やった。山脇もつられて山を見る。緑色をしたその偉大な姿は悠然とそこにあり続けているが、人の主の言葉が山脇の心に重くのしかかり、禍々しい気配を拭い去る事ができなかった。
「ヒタヒタって言う厄介なモノノケが出現したんだ」
「ヒタヒタ?」
山脇は真樹士の言葉を繰り返した。その言葉の響きからはまったく姿形が想像できない。首を傾げて真樹士の言葉の続きを待つ山脇。
「大災害とか震災とか、そう言った死者が多数うろついたり、うろつくような事態が起きそうな時に出現する掃除屋の妖怪だ。うろつき回る死者を喰っては消して回る妖怪なんだが、死者も生者も見境無くデリートしまくる厄介な奴なんだ」
「そいつは幽霊を食うんですか?」
「死者と幽霊は違うよ。死者は死んだ者。幽霊は目撃者の頭の中に構築される存在だよ。ここんとこはめんどいからまた機会があったら説明するよ」
真樹士は若い警官への霊についての講釈を切り上げてベテラン警官に向き直った。
「すいませんが、俺がもういいよって言うまで警察の人も山には入らないでください。マジでやばい」
真樹士は言葉を続けながら駐在所の外に飛び出した。そして何かを探すように高い空を見上げ、両手を大きく振り回した。
「山脇くんって言ったな?」
「あ、はい。何ですか?」
真樹士は手を振るのを止めて山脇に向き直る。山脇は思わず居住まいを正して正座した。
「パソコンは使えるよな? ネットに繋いだ状態で待機していてくれ。あとでメールするから」
一陣の強い風が巻いた。砂利を敷いた駐在所の駐車場に砂粒が舞い上がり、もうもうとした砂煙りが駐在所の中にまで侵入してきた。思わず顔を両手で覆って目を伏せてしまう山脇。真樹士の声は聞こえ続けるが、そちらに顔を向ける事ができない。
「すいません、俺もう行きます! とにかく、誰も山には入らないように手配を! 俺の名前使ってかまわないから」
砂煙りが落ち着き、山脇が顔を上げるとそこにもう真樹士の姿はなかった。埃が喉に入った山脇は咳き込みながら駐在所の外に出た。人の影もまばらな田舎町の午後、開けたバス通りに人の主の姿はもうどこにもない。
「ほんとに、厄介な事になったな」
ベテラン警官が空を見上げて言った。山脇も高い空を見やる。
見た事もないほどとんでもなく大きな鳶が、その脚に人の形をした何かを掴んで広い大空に優雅な弧を描いていた。
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