9.Fafrotskies,unidentified falls from the skies

第20話

 真樹士のスマートフォンが再び陽気な音楽を奏でたのは、山臥達が山小屋に戻り、完全装備で武装して折り返し山に入って行ったまさにその時だった。スマホを耳に押し当て、森に染み込むように姿を消す山臥を見送りながら顔を曇らせて行く。


 向日葵は真樹士の険しい表情を初めて見たような気がした。いつも、何かしら楽しみを見つけて逆境そのものもポジティブに受け止める彼が、ただスマホからの声を聞き入る以外に何の選択肢も選べないで戸惑っている。


 電話の相手は純だ。向日葵の顔をちらりと見やり、聞き取れないくらいの小声で純へ指示を出す真樹士。やがて勢いよくスマホをタップし、画面を睨みつけたまま苛立たしげに舌打ちを一つ、ようやくジーンズのポケットにねじ込む。


「……マキシくん、どうしたの?」


 張り詰めた冷たい空気に耐えきれず、向日葵は真樹士の肩に手を置いた。


「どうしたらいいかわからないん。現状をみんなに知らせる事は簡単だ」


 スマホをまた取り出して睨む。


「でも、そうする事によって間違いなくみんなを動揺させてしまう。今の山の気配はあまりにも異様だ。瞬時に冷静な判断ができなければ、カネユキさんの二の舞いになる」


「カネユキさんの、二の舞い?」


「……ああ」


 真樹士は窓の外に視線を移す。すでに武装した山臥達の姿は見えない。それでも樹々の合間に目を凝らす。


「サルのヌシと遭遇して、どうしてそうなったか、ヒタヒタにやられたらしい。……死んだよ」


 部屋の温度が急に低くなったように感じられた。向日葵はとっさに兼之の顔が頭に思い浮かべられなかった。シンダヨ。その言葉の形が、言葉としての意味が思い出せない。


「シンダ?」


 その言葉を自分の口で発してみても、その具体的な姿が見えない。自分は何を喋っているんだろう。


「……うん。ごめん、質問は終わりだ」


 向日葵と視線を合わせようとせずに真樹士は寝室に設置しているパソコンに向かった。


 山臥長の現治朗を先頭に、鉄兵、左太郎、卓也の四人が純とリンドウの元へ向かった。山小屋には真樹士と向日葵、そして山小屋番として修司が残っている。敵は猿の主と山猿達。それだけではない。普段は山の神の裁定により影を潜めているモノノケ達も我が物顔で山を徘徊しているようだ。


 問題はまだある。考えられない事だが、人を食らった猿の主が人の力を得つつある。人の皮を被り、人になりすましてふもとの村にでも降りられたらその影を捕らえる事すら難しくなる。


 真樹士はパソコンを再起動し、いくつかのアプリケーションを開きながらヘッドマウントディスプレイを取り出した。


「ヒマワリ、相手してやれなくてごめんな。一段落着いたら、ちゃんと全部説明するよ」


「説明の前に、マキシくん、ちょっと、あれ見てよ」


 黙って真樹士の動きを見守っていた向日葵が、口を両手で塞ぎ一歩二歩と後ずさりながら震えた声を出した。真樹士は彼女の怯えた表情を見つけて、何事かと、向日葵が見つめる窓へ視線をやった。


 彼女が見つめる先は寝室の窓。いつからそこにいたのか、窓には一頭の真っ黒いヒグマが部屋の中を覗き込むようにへばりついていた。濡れた鼻先がひくりと動くと、熊の吐息で窓が一瞬白く曇る。


「この大変な時に何だよ」


 真樹士はそれが日常茶飯事であるかのように普段と変わらない動作で椅子を立ち、躊躇する事なく窓を開け放った。


「ちょっ、マキシくん!」


 向日葵の悲鳴をよそに、真樹士は人懐っこい隣の家の飼い犬が紛れ込んできたかのように、窓から身を乗り出してヒグマのほっぺたをくしゃくしゃと撫で回し始めた。思わずぺたりと座り込んでしまう向日葵。


「忙しいんだ。遊んでいる暇はないぞ」


 そいつはやけに人懐っこい隣の飼いヒグマか。目を細め、大きな口を半開きにして牙と舌を覗かせて、ヒグマは真樹士の胸にぐりぐりと顔を押し付けた。


「ヒマワリ、いい加減慣れろよ。俺はヒトのヌシよ。山の生き物はヒグマだろうとミミズだろうとみんな知り合いだ」


「いや、熊は、ちょっと……無理っす。ミミズも無理」


 向日葵はまだ立てない。自分の身体の何倍もある大きなヒグマから遠ざかるようずるずると後ずさる。


「そもそもヒグマって北海道にしかいないんでしょ?」


「本来はな。でもここは神の棲む山だぞ。山の番人として出張してきてもらってるんだ」


「出張ってビジネスマンみたいに言わないでよ」


「ビジネスマンもヒグマも同じだよ。で、何か用か?」


 ヒグマは真樹士の言葉を理解しているかのように、首を縦に振って、彼の顔を大きくざらついた舌で舐め回した。真樹士の頭ががくがくと揺れる。


「今からか?」


 今度は真樹士のシャツの襟元を軽く噛みだした。甘噛みしつつ、真樹士を窓の外に引きずりだそうとする。


「わかったよ。クマのヌシ様とも久しぶりだ。すぐ行くよ」


 その巨大で毛むくじゃらな体格とは裏腹に子犬のように鼻を鳴らすヒグマ。


「でも少し待ってろ。こっちも片付けなければなんない事が山積みなんだ」


 くるり、忙しなくヒグマの頬をかき撫でながら向日葵に向き直る真樹士。その表情からは先程まで見え隠れしていた迷いや戸惑いは消え失せていた。


「ヒマワリ、ちょっと出掛けなきゃなんない。悪いけどシュウジさんと留守番を頼むよ」


「出掛けるって、どこに?」


「うん、いや、留守番だけじゃないな。ちょっとした仕事も頼むよ」


「お仕事?」


 ヒグマがまたも子犬のように鼻を鳴らした。くぅん。




 

 薄っぺらい人工的な暗闇が澱んでいた。ディスプレイのやけに無機質な光が、一方的に喋りまくる占い師のようにわざとらしい眩しさを投げかけていた。


「何がどうしたって言うんだよ」


 ブラインドを締め切り、空気が濁る程に引きこもっていた自称スーパーハッカー、アナイデンティファイド様はディスプレイに噛み付くまでににじり寄り、慌ただしい音を立ててキーボードを打ち鳴らしていた。


 何の前触れもなく、人の主が管理する山のサーバーに繋げていたハッキングの枝が電子的に完全に消滅していた。


 そればかりか、いつのまにかネットの履歴ファイルが改竄されていた。聖域の山へのハッキングを成功させた証拠と呼べる要素のすべてが完璧に消されていた。


「この俺様が逆ハッキングをかけられたのか?」


 誰に言うとなく刺のある言葉を吐き捨てる。人の主に対してハッカーとして成す術がまるでない。完全にお手上げ状態だ。過去の履歴もすっかり消去されていて、いくつかのアプリケーションもインストールした覚えのないソフトウェアとコンフリクトを起こして起動されない。


 パソコンは普通にオンライン状態にあるのに、何故か人の主や山臥関連の情報が記されているサイトには飛ぶ事ができなかった。


「このアナイデンティファイド様が手も足も出ないだと?」


 ぱちっ。


 小さな音が頭上で弾けた。しかしアナイデンティファイド様はそんな雑音を気にする事なくパソコンにかぶりついている。ふと、部屋が急に明るくなった。何事かとアナイデンティファイド様は天井を見上げた。


 スイッチにもリモコンにも触れていないのに部屋の照明が灯っていた。LED蛍光灯の白い光が突然に溢れ出し、ディスプレイの微弱な明るさだけを頼りにしていたアナイデンティファイド様は、何度瞬きしても眩しさに目が眩んで視界のフォーカスが合わせられない。天井が揺れているように見える。


「なんだ?」


 いや、違う。本当に揺れているのだ。白いはずの天井が、さまざまにくすんだ色に染まって蠢いている。その蠢く色はすべて地味な保護色系で統一されていて、まるで天井が地面に変わり、木屑や枯れ葉で覆われているように見えた。


 そして、自称スーパーハッカーのアナイデンティファイド様は気付いてしまった。それが、何であるか。


 アブ。カ。ガ。カマキリ。アメンボ。カナブン。ジョロウグモ。クワガタ。アブラゼミ。スズメバチ。マダニ。イナゴ。アオダイショウ。カミキリムシ。キリギリス。アゲハチョウ。テントウムシ。アブラムシ。クロアリ。トカゲ。カブトムシ。ナメクジ。ノミ。アシダカグモ。オニヤンマ。ハエ。コオロギ。シミ。ハサミムシ。カゲロウ。カタツムリ。シロアリ。シオカラトンボ。アシナガバチ。ヤマビル。シマヘビ。ミノムシ。ミミズ。ムカデ。ヤモリ。ゴキブリ。


 わきわきと乾いた音を立てて、あるいは、ぬめっと湿った音を立てて、天井を覆い尽くしていたありとあらゆる山の蟲達がアナイデンティファイド様の上に降り注いだ。


 自称スーパーハッカー、アナイデンティファイド様はその瞬間にある噂を思い出した。


 ヒトのヌシのサーバーに手を出したハッカー達は、何故かその後ネット活動を引退する。


 そうか、こういう事か。


 そう思いながら、ついに耐えきれず母親に助けを呼ぶために甲高い叫び声を上げた。

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