第2話

 

 キタサカサッサァ、ヤァトセサッサァ。

 ハーノサァ、コラノサァ、ドッコイショ。

 ハレハレ、ケッパレ、ヨイッショッコラ。

 

 人間達は情動的な動物である事を止めて、あたかも機械であるかのように非自然な規律に従って振る舞い始めた。神と総称される厳かな現象ですら容赦のないデータ化の洗礼を浴びて、電子の集合体が発するフレキシブルな神託が血液のように電脳市街を流れた。


 そんな仮想が闊歩し虚構が行進する世界をまだ、御神籤おみくじまじないをネットキャッシュでオンライン決済し、恋人とのデートにぴったりの色のミニスカートを占う少女がいる、そんな近未来。

 

 キタサカサッサァ、ヤァトセサッサァ。

 ハーノサァ、コラノサァ、ドッコイショ。

 サァコイ、ヤァコイ、ヨイッショッコラ。

 

 かつて、神々が住む霊山と奉られた座王連峰ざおうれんぽう洛朱九崚らくしゅくりょう。九つの峰が天を貫くようにそびえ立ち、太陽が沈む聖なる山々。まさに王が座する峰。聖地。


 最先端の電脳ネットワークと最大級のまじないが配備された霊山。山そのものがさながら大規模サーバーのごとくすべての自然に機能し、しかし同時に、人が足を踏み入れてはいけない神々の領域として数百年の歴史が今なお脈々と受け継がれている山。

 

 ヤアヤア、一の峰にゃあ草木が萌えよ。

 サアサア、二の峰にゃあ虫ども踊れよ。

 ソーレーヤーレー、ドッコイショ。

 ヤアヤア、三の峰にゃあ魚も跳ねよ。

 サアサア、四の峰にゃあ鳥達飛べよ。

 ヤーレーソーレー、ヨッコイショ。

 ヤアヤア、五の峰にゃあ獣も駆けよ。

 サアサア、六の峰にゃあ猿が喚けよ。

 ハレハレヤレヤレ。

 七の峰にゃあ人が番する。

 ヤレヤレハレハレ。

 八の峰にゃあ熊が座する。

 ヤアサアハレヨー。

 九の峰にゃあ神在り給え。

 高く賜えり恵みを降らせ。

 

 神と人の領域を分つ山、九つの連峰、洛朱九崚。そこは山臥やまぶしが管理する聖なる土地。人が神の聖域に足を踏み入れぬよう、あるいは、神が人の町に降りて来ぬよう、山臥がサーバー化された霊山を管理する、そんな世界。




「ざおうれんぽうー、らくしゅくりょうー、ハーノサコラノサ、たかきところはー、かみのくにー」


 やや音程が外れてはいるが、伸びのある艶やかな声が緑が色濃く渦巻く森に溶け込んでいく。


「ハイ、サ、ハイ、サァ!」


 栗色の髪がふわりと跳ねる。木漏れ日が彼女の髪をさらに黄金色に染め上げて、柔らかな風と軽やかに踊る。前髪を眉の上で切りそろえ、耳にかかる部分を房のように長く伸ばし、後ろ髪を太く束ねてシュシュでまとめている。彼女が踊れば、明るい栗色に染められたお下げも踊る。


「ハレハレ、ヤァヤァ、ドッコイショ。……マキシくん、ノリ悪いぞ」


 本来ならばここで合いの手が入るはずなのだが、彼女の耳には深い森の静かなざわめきがしんしんと染み入ってくるだけだった。彼女は歌と踊りをいったん止めて、後ろを振り返り、やや離れた所をとぼとぼと歩く男に声をかけた。


 真樹士まきしは背中に大きく膨らんだ登山リュック、両手に今にもはち切れそうなボストンバッグを二つ抱えていた。先を歩く向日葵ひまわりがこちらに振り向いていると気付くと、わざとらしく大きなため息をつき、黄色いレンズのサングラス越しに木漏れ日を仰いだ。


「ヒマワリがノリ良すぎるんだよ。山に入るのがそんなに楽しいか?」


 真樹士の愚痴に向日葵は両手を大きく天に捧げた。


「ああ、山よ! 神が座する山! テンションあげなきゃ。アンタはヒトのヌシになったんだから。そして、私はその妻。ヒトのヌシの妻。うん、悪くない」


「テンション高過ぎるんだよ。ああ、ひきこもりたい。さらば、文明社会よ。俺は半径百メートル内にコンビニがないと生きられないんだよ」


 山道を囲む木々は折り重なり、昼間でも木陰は濃く地面に落ちている。コンビ二はもちろんのこと、周囲に人が住んでいる気配すらない。向日葵は跳ねるように真樹士の元に駆け寄り、彼からボストンバッグを一つかっさらった。


「私の荷物は私が持ったげるよ」


「最初からそうしろ。ほら、ほこらが見える。あと少しだ。頑張れ、俺」


 霊山の森の小径を若い二人は数時間歩き続けていた。ここはすでに洛朱九崚の入り口ではない。神の山の入り口。選ばれた人しか足を踏み入れる事は許されない領域だ。


 真樹士は森に溶け込むように佇む小さなほこらまでたどりつくと、荷物を放り投げるようにしてすべて地面に置き、そこへひざまずいた。ほこらと言っても、それは社をかたどった小さな石の灯籠のような物だった。高さも人の背丈程しかなく、供物をそなえる台座が一つあり、そこには乾いた白い花が供えてあった。


 いつのまにか木漏れ日はやや傾き、森の木々の影も色を増して斜めに伸びてくる。暗くなる前に山臥達の山小屋までたどりつかなくては。


雨宮あまみや真樹士まきし、ヒトのヌシとして山に入ります」


 頭を下げる。すると慌てて向日葵も彼に習った。


「同じく、雨宮あまみや向日葵ひまわり。その妻として、彼と共に山に入ります」


 二人は頭を上げ、少し間を置いて、なんとなく見つめあう。


「なんか照れるな」


「照れるな照れるな、ヒトのヌシ様」


 そう言うと向日葵は自分のボストンバッグをがさごそと漁りだし、ポテトチップスの袋を取り出した。ばりっと小気味良い音を立てて開封し、台座の乾いた白い花の側に添える。


「よろしくお願いします」


「もっとましなの供えろ。大福とか」


「それはアンタの好みでしょ」


 そして再び歩き出す二人。




 洛朱九崚は神なる山。神々が住む聖域と人が住む町との境目の連峰。遥か昔より、山臥達が守り抜いて来た山だ。神が人里に降りて来ないよう、人が神の領域に迷い込まないよう、守り続けて来た山。


 その山臥達の長、人の主が死んだ。それも尋常ではない死に方で。山の安定を乱さぬよう早急に主の代の更新が必要となり、白羽の矢が立てられたのが、雨宮真樹士。霊山の隅々までネットを張り巡らし、山全体を一つの霊的サーバーとして構築した技術と、山に好かれると言う類い稀な素質を持った男だ。


 いよいよ文明社会とのお別れ。ここは山。コンビニやネットカフェはもちろん、最寄りの自動販売機まで歩けば四時間はかかる。自動車やバイクは必要最低限の道具として二台ずつ山小屋に配備されているが、先代の人の主の死と言う緊急事態のために真樹士と向日葵のために迎えも出せない状況だった。そうして山の小径をひたすら歩く真樹士と向日葵であった。




「あ、マキシくん、ごめん」


 ほこらより歩いて少し、向日葵が先を行く真樹士を呼び止めた。


「ほこらの写真、いい?」


 向日葵はアノラックパーカーのポケットからデジカメを探り出した。


「別に構わないよ。ただし、生き物の写真は撮るな。山のルールだ。命ある者の動きを止めてはならない」


「了解。ちょっと待って、って、わっ!」


 深い森をまるごと揺らすような突風が二人を襲った。山の色濃い方向から、木々の葉が大きな見えない腕で撫でられるように揺れ、二人をぐるりと包み込み、一瞬のざわめきを残して過ぎ去っていった。


「ご挨拶だな」


 小さく呟く真樹士。頭上を見上げ、まだ揺れる木々の隙間からオレンジ色に染まりつつある空を探す。


「なんなのもー、やな風」


 向日葵が小走りにほこらに引き返す。そして、小さく悲鳴を上げた。


「きゃっ、ちょっと! マキシくん!」


「どうした?」


 真樹士はリュックとボストンバッグを放り出して彼女の元へ駆け寄った。ほこらの前でデジカメを構えたまま、供物の台座を指差す向日葵。


 そこには中身が空になったポテトチップスの袋が、今の突風にも吹き飛ばされずにそこに残されていた。


「……中身が、ないよ」


「持って帰ったんだろ、お腹空かした子供でもいんのかな」


「って、誰が?」


「誰でしょうかー? ここは神が住む山だ。そんなんでびびっていたらヒトのヌシの妻は勤まらないぜ。どうする? 帰るか?」


 真樹士は左手薬指の指輪を向日葵の鼻先にちらつかせた。シルバーの指輪とポテトチップスの空き袋を交互に見つめ、ふんっと鼻を鳴らし、彼女は自分の左手薬指のリングを真樹士のそれと軽くぶつけあわせた。カチン、堅い金属の音が森に染み込む。


「まさか。私だってフリージャーナリストの端くれ。びびってる訳じゃなくて、ちょっと予想外だから戸惑っただけよ」


「それをびびるって言うんだ」


「うるさい。とにかく、私は神の山の神秘を人々に知らしめるためにアンタと結婚して、ヒトのヌシの妻として入山を許されたの。それだけの仕事はするの」


 フラッシュを焚き、ほこらとポテトチップスの写真を撮る向日葵。小首を傾げて真樹士は言う。


「俺の事愛しているから結婚したんじゃないの?」


「別に。さあ、行こう」


 目も合わせず、すたすたと歩き出す向日葵。


「素直じゃないのな」


 真樹士はほこらに一礼してから彼女を追い掛ける。数歩先を歩く向日葵はリュックサックとボストンバッグのところで、またもや悲鳴を上げた。今度はさっきよりも長く大きく森に響き渡る。


「マキシくん! 何これ!」


「……何って、わからない?」


 あきれるように黙りこくる向日葵。


「左ヒラメに右カレイって言ってな。口が上を向くように置いた時に、左を向いているのがヒラメ、右を向いているのがカレイだ」


「あの、そんな事聞いている訳じゃないんですけど」


「さっきも言ったが、ここはもう神の住む山。なんでもありの山だ。どうする? 帰るか?」


 真樹士がさっき投げ捨てたリュックサックとボストンバッグの上で、水に濡れた立派なヒラメが二枚、ぴちぴちと跳ねていた。


「俺がヒラメのエンガワが大好きだってどこで情報を仕入れたのかわからないが、俺への歓迎の贈り物だろうな。今夜はこれで一杯やるか」


 ぴちぴち、ぴちぴち。


「生きてるよ? これ」


「うん、活きがいいな」


「海、遠いよ」


「うん、数十キロはあるかな」


「……生きてるよ? これ」


「……だから?」


 ぴちぴち、ぴちぴち。


 山は色濃くそこに在った。

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