第30話

 正義感溢れる若き警察官、山脇大河は派出所に引きこもって真樹士からの指示を待っていた。わざわざ自前のノートパソコンを持ち込んで派出所の座敷きにじっくり腰を据えて連絡を待つが、もともと当直当番だったとは言え、正直、暇だった。


 人の主様が言うには、山脇の役目は非常に重要なポジションらしい。最初に真樹士からあれこれ連絡を受け、車を一台盗んだけど不問にしてくれと言われたっきり、パソコンも電話も静かなものだった。


 何の連絡もないので、夜食にとコンビニで買い出ししてきたカップラーメンにお湯を注ぐ。


「いつの時代になっても三分間なんだな」


 愛用の砂時計をひっくり返す。


「マキシさん、覚えてんのかな、僕の事」




 真樹士はゲームコントローラをゆっくりと傾け、頭にかぶったヘッドマウントディスプレイごと身体をその傾きと逆方向へ持って行く。HMD装備の真樹士の頭の傾き具合に合わせて、車はタイヤを鳴らして深夜の町の曲がり角を突っ走った。ぽつぽつと少ない街灯が線を引いてはるか後方に吹き飛んで行く。


「マキシさん、飛ばしますね」


 シートベルトだけでなく両手でダッシュボードを突っ張って身体を固定して、純は思わず真樹士に言ってしまった。交通ルールを守ろうなんて安全運転意識は、人の主である真樹士から一切感じられなかった。


「大丈夫、ヒマワリの方は安全運転だよ。大事なオトリだからね」


「強引なやり方ですよね」


「合理的って言ってくれよ」


 赤信号の交差点に差し掛かる。さすがに深夜の時間帯だけあって車の流れは少ない。


「サルどもはリンドウを狙ってくると思ってた。でも違った。そりゃそうだ。もうすでに喰らってたんだもんな。当然ヒマワリを狙うわ。俺のミスだ」


「先代のヒトのヌシ様とリンドウを見つけた時にサルがやったんだって、僕が気付いておけば」


「ジュンに落ち度はないよ。あの空飛ぶ生首達が情報流しやがったんだ。全員とっ捕まえて首輪つけてやる」


 真樹士はモーションセンサーリングをはめた右手で迫り来る信号を指差す。すると赤だった信号は突然青に変わった。車はスピードをまったく落とす事なく交差点に突入し、完璧なライン取りをしてドリフトを決める。


「マキシさん。ちょっと確認」


 触ってもいないのに勝手に動きまくるハンドルを見ながら純が真樹士に訊ねる。


「何?」


「これって盗難車ですよね」


 向日葵達と二手に別れた時に、人の主は速そうな車を一台無断で拝借した。いくら最新の電子ロックシステムをもってしても、ハッカーである人の主の前では2秒しかもたなかった。


「山脇くんに報告しているから大丈夫じゃない?」


「大丈夫とか言う以前に盗難車でこんなスピードだして、しかも事故を起こしちゃったらさすがにやばくないですか?」


「ちゃんと周りの車や標識から交通情報を読み取ってるし、この車の駆動系システムは俺のドライビングソフトとの相性もいいみたいだし、たぶん事故んないんじゃないかな」


「たぶんって」


「じゃあ絶対事故んないよ」


「絶対って」


「予定よりも少し遅れているんだ。もうちょっとスピード出さないと」


 真樹士の腕の動きに合わせてぐんと加速する盗難車。


「作戦ポイントはすぐそこじゃないですか」


「いや、ちょっとした知り合いのところ。仕掛けもしないといけないし。飛ばすぞ」


 有無を言わせずさらに加速する盗難車。




 安全運転の車に揺られて向日葵が小さくあくびをかみ殺した時、後部座席の鉄兵がざわっと動いた。後部座席からやおら身を乗り出して、進行方向真っ直ぐに指差す。


「見えるかい、あそこだ」


 向日葵が鉄兵の指差す先を見やると、ヘッドライトの明かりが届くぎりぎり、道路の真ん中に、頼りない街灯の光に紛れて斜めに立つ人影が見えた。道路を渡る訳でなく、ただ立ち尽くす影はこちらを見つめているようだ。


「マキシくん、一匹現れたぞ」


 鉄兵がライフルを構えながら言う。すると車のオーディオからラジオの音楽に乗って返事が流れて来た。


『一匹で来るのは予想通りだったけど、もうちょっと早いタイミングだと思ったのに。ヒマワリ、あくびしてなかったか?』


「なんのこと?」


 絶対何かで見てたな、とルームミラーの裏を確認する向日葵。


『探したって隠しカメラなんてないよ。テツヘイさん、そいつはサルのヌシもどきだと思う。やっつけていいよ』


「了解だ。遠慮なくやらせてもらう」


 鉄兵はサンルーフを開けた。真夜中の冷やされた風が塊のまま車内に流れ込んで来る。隠しカメラを探す向日葵の髪がくしゃくしゃに巻き上げられた。


『ヒマワリ、退屈かも知れないけどもう少しそこで我慢していてくれ。お願いだ』


「ちゃんと説明してよ」


『ああ。おいしいの食べながらな』


 鉄兵がサンルーフから上半身を乗り出し、風の音に負けない大声を張り上げた。


「よし、マキシくん。情報をくれ」


 鉄兵のヘッドセットの仮想ディスプレイに新たな数値データが更新された。淡いグリーンの矢印が視界に現れ、リアルタイムでの車の速度と進行方向をベクトルとして鉄兵に伝える。


『テツヘイさん、油断しないでよ』


 シフトレバーが勝手に動いてローギアに変わり、エンジン音が甲高く車内にも響き渡った。エンジンブレーキががくっとかかり、それを感知したシートベルトが向日葵の胸をきゅっとしめる。


 他の車がほとんど走っていない夜の道路には、誰もいない舞台を照らすスポットライトのようなささやかな街灯が点々と立っていた。誰もいない舞台? えっ、と向日葵は暗闇に目を凝らした。つい今さっきまで前方に立っていたはずの猿の主の姿がなかった。


 道路の真ん中に立っていたはずの姿がどこにも見つけられない。仮想視界で運転している真樹士にはそれが見えているのか。車の外部センサーはあれくらい遠くまで感知しているのか。


 向日葵が真樹士にそれを伝えようとしたその瞬間、鉄兵の突き刺さるような大声が彼女の耳に飛び込んで来た。


「頭を守って!」


 とっさの事にその言葉通りに両手で頭をかばった向日葵。目の前に交差した両腕の隙間から何かが降りて来るのが見えた。猿の主だった。


「……ウソ」


 走行中の四輪駆動車のボンネットに飛び下りる人の形。堅い金属がひしゃげる音がして、フロントガラス一面に細かいヒビが走った。ガラスにコーティングされた樹脂が砕け散った破片を包み込み柔らかな一枚の白く濁ったガラス板となり向日葵にのしかかる。冷たい夜の走行風が一気に吹き込んできた。


 猿の主に飛び乗られて、車は唐突にバランスを崩し、急ブレーキをかけたように車体が前のめりになった。向日葵は身体が強く振られるのを感じた。猿の主が車に飛び乗ったせいで四つのタイヤにかかったトルクのバランスは失われて、車はステアリングを狂わせて歩道へと突っ込んで行った。


 シートベルトが衝撃を感じ取って再び向日葵の身体をシートに優しく縛り付ける。覆いかぶさっていたフロントガラスが振り払われ、真樹士の操作か、車はタイヤを鳴らしてバランスを取り戻し、街灯をかすめるように火花を散らして通り過ぎた。街灯の明かりが車内に飛び込んでくる。


 目の前には、人の形をしたシルエットが仁王立ちしていた。ボンネットに飛び乗ってきた猿の主だ。純との格闘で顎は砕け、鼻は折れ、血に染まった顔面を歪めて、しかし向日葵を見つけてにたりと笑う。


「ここにいたな、ヒトのヌシのオンナ!」


 猿の主が右手を突き出して来る。そこへ響く真樹士の声。


『テツヘイさん、フルブレーキ!』


 向日葵は身体が前方へ引っ張られるのを感じた。ものすごい速度で迫っていた夜の町並みが一瞬だけふわりと逆行して見えた。四輪駆動車は急制動をかけ、四つのタイヤをきしませながらアスファルトに黒い跡を残した。


 鉄兵は急ブレーキを利用してサンルーフから飛び出し、同じく慣性で前方に飛んで行く人の姿をした猿の主に掴みかかった。


 だんっと二つの人影が車から飛び立つ。鉄兵は跳びながら片手を猿の主の喉元に差し込み、逃がさないようもう片方の手で胸ぐらを掴んだ。


 向日葵の目の前から二人が吹き飛んで行った。鉄兵の背中と、喉をねじりあげられた知らない男。鉄兵は大柄な身体を柔らかく丸めて空中でちょうど猿の主に両膝を押し付けるように姿勢を入れ替えた。ぐいと喉を鷲掴みしている腕を突き上げる。


 路面の黒いアスファルトが迫る。鉄兵は猿の主に乗り上げるようにして、そのまま後頭部をアスファルトへと叩き付けた。ぐしゃりと、堅い何かが細かく砕ける感触が腕に伝わる。そして身体全体で道路に墜落した。


 打ち付けられた身体に両膝立ちするような恰好で猿の主にのしかかった鉄兵。アスファルトの粗い面が男の背中をがっちりとくわえ込んだ。一度大きくバウンドし、鉄兵はそこでようやく喉から手を離し、でんぐりかえるように受け身を取った。


 向日葵を乗せたままの四輪駆動車は完全に停止した。ひしゃげたフロントグリルからヘッドライトで二人の人影を照らす。一人は道路に横たわったままぐったりと動かない。もう一つの影はうずくまった姿勢からゆっくりと立ち上がり、ヘッドセットをちらりとこちらに向けた。


 山臥のヨロイとして防護服の役目も果たしているセンサースーツから、アスファルトとの摩擦のせいでかすかな煙りが上がっていた。路面に打ち付けたはずのヘッドセットのアンテナも折れずに鬼の角のように立っている。まさに、全身から蒸気を吹き上げている鬼の様相だった。

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