第19話
数匹の猿とともに、純が杉の樹から降って来た。
猿達は鈍い音を立て背中から地面に叩き付けられ、純は両脚でしっかりと地面を踏み付けて限界まで縮めた全身のバネを活かしてすぐに立ち上がり、飛び跳ねるようにして戦闘体勢を整えて周囲を確認した。
猿達は全身の痛みにうずくまり、そう簡単には動きだせないだろう。そして、それを見下ろしている黒い男が一人。猟銃を肩に担ぎ、上下黒のジャージ姿の男。兼之とリンドウの姿はない。
「なんだあ、おまええ」
黒い男が大袈裟に首を傾げる仕種を見せた。
純はそれに応えなかった。そして迷いもなかった。短く鋭い息を吐き捨てると、一瞬で黒い男との距離を詰める。右手に構えたアウトドアナイフの柄で黒い男の腕を、猟銃を狙う。黒い男は慌てて猟銃を取り落として両腕をかばった。その重ねた両腕にナイフを握った拳を打ち付ける純。
「残念」
その拳には力がこもっていなかった。とん、と相手の両腕を固定するように軽く押すだけで、くるり、拳をひっくり返す。そこにはぎらりと冷たい光を放つナイフの刃。黒い男はナイフを防ぐために両腕で純の拳を掴むしかなかった。男の意識を拳とナイフへ集中させる。それこそが純の狙いだった。
「まだっ！」
黒い男の懐へ深く踏み込んだ利き脚の膝を男の太腿へと叩き込む。膝の骨が太腿の筋肉をざっくりとえぐる手応え。純は反動で膝を戻し、すぐに地面を強く蹴り込んだ。狙うは、太腿へのダメージで姿勢を崩した男の首。きしむ程に腰を捻り、しなる筋肉を十分に弾かせてすねから脚の甲にかけての広い範囲で無防備な男の首に蹴りを入れた。
野球帽が吹き飛ぶ。茶色の髪の毛を逆立たせて男はもんどりうって倒れ込んだ。純は脚を高く振り抜き、その場で華麗に腰を回転させて再び姿勢を低く構える。
「さて、まだ意識があるなら、あなたがどこの誰か聞きましょうか」
逆手に構えたナイフを突き出して、純は倒れた黒い男が動きだすのを待った。相手の戦意を砕き、意識を刈り取った手応えはあった。山臥として鍛え上げられた純の蹴りをまともに食らったのだ。訓練されていない人間なら顔面の骨も砕け、何日も目が覚める事はないだろう。
しかし、冷たい地面に大の字で横たわる男は違った。
湿った笑い声を立てている。意識を失うどころか、だらりと歪んだ顎からくぐもった笑い声を漏していた。
「……まだ笑える元気があるんですか」
「はあっはあはああ、おまえ、強いなあ」
大の字に倒れたまま、首だけが不自然に起き上がる。純の蹴りで顎の骨が割れたか、開きっぱなしの口からは血が泡となってだらだらと流れ落ち、それが弾ける音が笑い声に混じって純の耳にまで届いた。
「ただの銀行強盗じゃなさそうですね」
純は戦闘体勢を解かない。
樹から飛び降りた瞬間から違和感は感じていた。そこにいるはずの兼之とリンドウの姿がなく、禁忌状態の山にいるはずもない一般人が猟銃を肩に担いで佇んでいた。この男が真樹士の言っていた銀行強盗に違いない、瞬時に判断し攻撃に転じたのだが、相変わらず、この周囲に人の気配がない。この男が目の前で薄ら笑っているのに、人の気配がまるでしないのだ。
目の前の男は決してヒトではありえない。もっと、邪な何かがこの中に潜んでいる。純の闘争本能がそう囁いている。
黒い男がのそりと起き上がる。おおよそ人とは思えない動きで。両腕をだらりと垂れ下げたまま腹筋だけで上半身を起こす。純の重い蹴りを食らった首は力なくうなだれ、しかし真っ赤に充血した目で純を睨み付けている。下半身が膝から競り上がり、徐々に黒い男が立ち上がっていくが、純の膝蹴りによって破壊された太腿の筋肉が言う事を聞いてくれずに男はよろよろと立ちすくんだ。
「脚まあで、壊してくれやがてえ」
歪んだ顎でせせら笑う。両手を顎に持って行き、なんとか口を閉じようと持ち上げるが血の泡が吹き出るだけでだらしなく舌が顎からこぼれ落ちた。
「うまあくしゃべえれねえだろろお」
動かない純にねっとりとした視線を絡み付かせる。
「せえっかくうヒトのを身体見つけたあてのにい。壊れちまたあ。おまえを、食ったらあ、強くなれるかあ」
その言葉で、純は黒い男の正体を理解した。人の皮を被った猿の主だ。
「なるほど。銀行強盗犯でなくて、サルのヌシ様でしたか」
逆手に持っていたナイフを順手に構え直す。さらに深く腰を落し、真正面から強い視線を打ち付ける。
「だとしたら、僕も全力であなたを仕留めなければならないですね。普通のヒトならばサルのヌシには適いませんけど、あいにく、僕は普通のヒトではないので」
じゃりっ。かかとを上げ、つま先に力を込める。土がえぐれる。
「僕はこの山の山臥です。山の秩序を正すため、あえてヌシ殺しの禁を冒します」
猿の主は純の言葉に静かに耳を傾け、ゆっくりと自分の両手に視線を落とした。そこにあるのは猿の手ではない。人の手。長く細く、力強い指。道具を使いこなせる器用な十本の指。
「けっこう、手応えあったのになあ」
ふっと張り詰めていた空気が緩んだ。生温い風が純の前髪を揺らす。
「いま、おまえとやり合うのはあやばいい。もっとヒトを食うて、それからヒトのヌシも食うて、それからおまえの皮をもらう。中身はおいしく食う」
地面にうずくまっていた猿達が息を吹き返した。純を避けるように遠回りに、顎が砕けて血の泡を吐き出しながらようやく立ち上がった男の足元によたよたと歩み寄る猿達。
「食ってやるからなあ」
男と猿達は森に消えて行った。それを見届けて、純はやっと深く呼吸をする事ができた。肺に積もった重く湿った空気を吐き捨て、森の緑の匂いがする新鮮な空気をいっぱいに溜め込む。
「はあ、やばかった……」
独りになり、つい、本音が漏れた。びりびりと痺れる指先でナイフを腰に戻し、猿の主に掴まれた腕の袖をまくり上げた。くっきりと四本の指の形に皮膚が破けて、ぷつぷつと丸く血が滲み始めていた。純の攻撃があと一呼吸遅れていたら、枯れ枝のように簡単にへし折られていただろう。
「真樹士さん、相当やばい事になってますよ」
自分自身に言う。猿の主はかなり力を付けている。山の天秤を覆そうと、さらに人を襲うだろう。しかし、下位の猿が上位の人を襲うなど、普通の山の状態ではあり得ない事だ。それこそ禁忌だ。山の神が許さない。だが、現に猿の主は先代の人の主を食らっている。銀行強盗犯を食らっている。
山で何が起こっているのか。
とにかく、今は山小屋まで避難して、他の山臥達と合流しなくては。
純は血の滲んだ袖を戻し、男が落として行った猟銃を拾い上げた。残弾を確認する。
「撃ってはいないのか」
リンドウと兼之は無事だろうか。
「ジュンさん、大丈夫？」
と、純の心配を感じ取ったのか、森は柔らかくか細い声を聞かせてくれた。
「リンドウ？」
振り返る。秋咲きの桜の影に、真っ黒い髪を斜めに顔にかけたリンドウがいた。顔色は色を失ったように真っ白く、細い身体がなおの事頼りな気に見えた。
「よかった。うまく隠れていたんだね」
リンドウに小さく声をかけながら兼之の姿を探す。
「僕も大丈夫だよ。……カネユキさんはどこ？ 一緒にいなかったの？」
兼之の姿を探せば探すほど、森は深い海に沈んだように静まり返り、純は言い様のない違和感に包み込まれた。どうしようもない孤独が込み上げて来る。いつもとは何かが違う空気が薄い膜を作り、彼の皮膚を覆い尽くして感覚を鈍らせる。
「カネユキさんは、……あそこ」
リンドウが細く白い指で地面を差した。
純はずっとそれが認識できなかった。それが何か理解できないでいた。猿の主と対峙した時からそれは目に入っていたはずだ。しかし、彼の理性がそれを認めなかった。そこにあってはならない物として、それを純自身の思考の枠から追いやっていた。
その、二つの塊を。
そこには、見覚えのある靴を履いた人の膝から下の部分だけが、二本並んで立ち尽くしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます