第18話

 誰もいない隣の部屋にテレビが点いているような、耳の中でちりちりと聴こえない音がこだましている感覚に似て、意識する事によってかえって認識しにくくなる気配が森の中に潜んでいた。


「リンドウ、少しだけ桜の影に隠れていてくれるかな?」


 木々が騒がしい。樹の幹だけでなく、すべての枝、すべての葉からぎょろりとした目玉がこちらを睨み付けているような、頭上から冷たい視線が一斉に降り注がれる。葉と葉が、枝と枝が擦れ合うかすかな音がさらに重なり合い、そして岩肌に濡れた落ち葉が叩き付けられる湿った音が耳の裏に響く。


 純はどうしているだろうか。兼之は周囲を、頭上を、ぐるり見回した。リンドウの姿は消えている。兼之の言葉に従って桜の幹の影に姿を隠したようだ。


「……!」


 一際強い視線が兼之の真正面から打ち付けられる。森が音を立てずに揺れた。歩み来る禍々しい存在を森が忌み嫌うように木々が折れ曲り、新な道を作り出した。


 そこには一人の黒い男が立っていた。


「やあ。ヒトよ、こんにちは」


 上下黒ジャージ姿の男は穏やかに語りかけて来た。その軽い口調はまるで毎朝の散歩で顔見知りになったジョギング仲間の挨拶のようだが、あまりに悪意に満ちた音で絞り出された声に、兼之は思わず後ずさってしまった。


「……コトバ。ヒトがヒトであるためには、コトバってのが大きいな」


 黒い男の片手には猟銃。もう片手に何か底の形が変形したボストンバッグ。頭には野球帽を目深にかぶり、無精髭を生やした細い顎がやけに印象に残る。そして、それ以上に違和感を感じさせるのが、異様に赤々と充血した両目だ。その男はくいと細い顎を突き出して、沈黙を続ける兼之を赤い両目で睨み付けながら、膝の挙動を確かめるようにゆっくりと一歩ずつ足を動かした。


「形、色、匂い、味。それらとは違う何かを表現できる言葉。ああ、言葉が使えるようになって、一気に頭が冴えたんだ」


「君は、何者だ?」


 兼之がもう一歩下がる。男は二歩寄る。二人の距離は徐々に縮まった。


 何故この深い森に人がいるんだ? 今、山は禁忌状態だ。人の主によって立ち入りは禁じられているはずだ。人がいるはずがない。いてはいけないのだ。


 兼之の背筋に冷たい汗が滴る。濡れた足音が背後に落ちる。この圧迫感。この閉塞感。この恐怖感。山にいったい何が起きていると言うのか。


「今までわからなかった事が、物を食らうみたいに簡単に理解できた。ヒトはずるいな。言葉とはこんなに素晴らしいものだったのか」


 兼之は今朝のラジオのニュースを思い出した。山のふもとで起きた銀行強盗犯が未だ捕まらずに捜索が続けられていた事を。禁忌の山に踏み入っていたのか。


「さっきから、君は何を言っているんだ?」


 兼之が脚を止める。黒い男も止まる。


「せっかくヒトの言葉が使えるようになったから、言葉を使っているんだ」


 重く濡れた布を柔らかく叩き付けるような足音も止んだ。


 血を流しているかのように充血した目。大きく口を開けて吐息とよだれを吐き捨てて、歯茎を見せつけて空気をかじるようにぱくんと口を閉じる。


「オマエ、ヒトのヌシの山臥だろう?」


 黒い男が猟銃を持つ片手を振り上げた。兼之は全身に電気が走るように緊張したが、その男は猟銃の銃身を掴んでただの枝切れでも振り回すかのように兼之を指し示すだけに猟銃を使っていた。


「今までわからなかった事がわかるようになる。それってすごくいい事なんだな」


「何を言っているのかわからないな。用がないなら、どこか他の土地に行ってくれ」


 兼之を包み込む冷たい緊張感は今もなお続いている。この違和感はなんだろうか。目の前に立つ猟銃を持った黒い男からだけでなく、背後からもさざ波のように黒くて肌触りが違う空気が流れて来ている。その背中の冷たさに、初めて兼之はさっきまで耳にこだましていた音の正体に気が付いた。


 ヒタヒタだ。


 背後に潜む山のモノノケ。濡れそぼった足音だけを響かせる、決して振り向いてはいけない妖怪。そいつが、今まさに、背後にいる。


「おお? やっと気付いたか。俺はずいぶん前から知っていたぞ」


 猟銃の男は歯茎を剥き出しにしてケラケラと乾いた音を立てて笑った。


 迂闊だった。


 突然現れた異様な男に気を取られすぎたせいか、自分自身に襲い掛かっていた恐怖の本質を見失っていた。この男の異常さが恐いのではなかったのだ。自分が怖いと思う事がこの男の恐ろしさを引き立たせていた。


 その怖さがどこからやって来るのか見定める事ができず、目に見える事象に頼り過ぎていたのだ。本当に恐れるべき相手は背後にいる恐怖を植え付けるモノノケであり、この目の前に立つ男ではない。


「こいつをどうすればいいか、ヒトのヌシのじじいが知っていたなあ。だから、俺も知っているんだぜ」


 猟銃の男が歯茎を見せつけたまま言った。自分の後頭部の辺りを猟銃で差し、空気を吐き出すようにまたかすれた声で笑い出す。


 ヒトのヌシのじじいと、こいつは確かにそう言った。兼之は理解できた。目の前に立つこの男の正体が。


「おまえは、サルのヌシか?」


 真樹士が言っていた。先代の人の主は猿の主に食われて死んだ。主殺しと言う禁を冒し、山の秩序を乱そうとする猿の主は人になるために人を食った。


 そして今、目の前に人の皮をかぶった猿の主が立ちはだかっている。


「こいつはよお」


 猟銃で後頭部を差したまま黒い男が言う。


「姿を見てしまうと襲いかかってくる奴なんだろ?」


 猿そのものの顔が歯茎と牙を剥き出して笑う。


「だったら、他の奴がこいつを見たらどうなるんだろうなあ?」


 スローモーションのように、兼之の目の前で黒い男は身を屈めた。人の皮を被った猿の主は兼之に最も無防備な後頭部を見せ付けた。


 兼之は見てしまった。


 そこには、ぽつんと、空間の染みのような黒く歪んだ丸い塊があった。表面はしっとりと濡れていて堅そうには見えない。そして、柔らかそうにも見えなかった。片手で握り隠せるくらいの大きさの染みが水にとろけるようにかすかに揺れていた。


 それを見ているうちに波紋が広がるように黒い染みは大きくなり、どす黒く濡れた表面に、さらに二つの黒い点がこちらを見つめているのがわかった。


 次の瞬間、薫製のゆで卵が割れるようにすっぱりと細い亀裂が入ると、いつのまにかそいつは、兼之の頭を飲み込めるほどの大きな口を開けた巨大な染みになっていた。真っ黒く真ん丸い二つの点が、最後まで兼之の硬直した顔を見つめていた。

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